第二話 「神の欠片」
「神の欠片……それがこの能力の名前ですか」
「正確には能力の総称だけどな……炎が起こせるとか、怪我を治せるとかを魔法の一括りにするのと同じだ」
「なるほど」
自分の能力の正体を知ってほんの少しの安堵を覚える徹矢。
とはいえ、まだまだ聞くことは多くあるこれからの話を聞き逃すまいと徹矢はレンを見る。
「さて、その神の欠片だが……条件次第で宿っているものを取り出すことができる」
言いながら、レンがあるものを取り出した。
それは先ほど男から抜き取った立方体の何かであった。
「中々厄介なものを持っていたようだな……認識の操作か」
「認識の操作?」
上手くその力を想像することができなかった徹矢が首をかしげる。
「そうだな……わかりやすいことをしてやる、アイツが俺にしたことと同じことだ」
そう言ってレンは立ち上がり、徹矢を見る。
何をするのだろうと徹矢がその姿を眺めていると、レンが唐突に徹矢へと殴り掛かったのだった。
当然、当てる気はないようでそれは顔面ギリギリのところで寸止めされたのだが、問題はこのあとであった。
「……………………え?」
時間にして数秒、それだけの時間が経過して徹矢は初めてレンの拳を認識したかのように身じろいだ。
いや、正確に言えば徹矢はすぐに殴りかかられたことにも寸止めされたことにも気づいていた……だけどそれに対してなんら危険も驚きも抱くことができなかった。
「避けるってのは危険を認識しているからだ……逆に言えば明らかな危険に対して危険と抱かなければなんら行動することはできない」
危険に対して人は反射的な行動を起こすもの。
だけどこれは危険を認識することができない、反射的に何か行動することすら難しいのだ。
「……怖」
「そうだな、アイツの場合俺に対してナイフに対して避ける必要なんてないみたいな認識を持たせていたわけだ」
「あれ……でも、俺は必死に避けようとしてましたよアイツのナイフ」
「その時はまた別の使い方をしていたんだろうな」
そのような危険使用だけでなく中々に応用が利く能力だとレンは告げる。
例えば誰かの悲鳴を気にする必要がないものとすることも可能であるし、ある場所に対してなんとなく近寄らないようにすることも可能だと言う。
それを聞いて、徹矢は逃げている最中に誰にも出会わなかったことを思い出す……それをされていれば、絶対に出会うことがないだろうという予測も立った。
「あれ、じゃあレンさんはどうして躱すことができたんですか?」
先ほどの説明であれば、レンは確かに向こうの攻撃に対して危機感を抱いておらず、無抵抗に刺されることになるはずだと徹矢は言う。
「それはまあ、俺がアイツよりも神の欠片に対して知識があり、耐性があるってのが一点だな……それから、ナイフが危険に思わなくてもアイツは敵ではあったからな」
敵であるなら何をしようとも関係なくボコる。
耐性があって不完全だから特に問題もなかった、とレンは告げるのであった。
「ま、例えば俺は味方だ、みたいな認識を植えられると面倒だったけどな」
俺は精神耐性はそこまで高くはないからなとレンは笑いながら言うのであった。
「さて、大前提の話としてはこれくらいでいいだろ……ある程度猶予はあるが、時間は大切にな」
「時間? どういうことですか?」
「ふむ……さっき俺が光に包まれている姿は見ていたよな?」
「あ、はい……そういえばあの時確か消えるとかどうとか」
「そ……俺は元々この世界の住人じゃないし、あまり準備をせずにこの世界に来たからな、長い時間はこの世界に留まることができないんだ」
「そんな」
その時の徹矢の胸中は複雑なものになっていた。
救ってくれた人が消えてしまうという驚愕、その人にまだ何も返せていないという焦燥、大切な話が聞けないままになるという恐怖。
様々なものを含んで焦りを表す徹矢に、レンは笑った。
「安心しろ……消えるて言ってもまだ数日単位くらいは大丈夫だから、大切なことについては全て教えてやる」
落ち着かせるようなレンの言葉に、徹矢の焦燥も消えていく。
醜態を見せたことを恥じながら、徹矢はレンの方を見るのだった。
「落ち着いたか? だったら、話を進めよう」
レンが立方体の神の欠片を見せる。
神の欠片はある程度仕組みを知っている者であれば他者から取り出すことができるのだという。
「そして当然欠片を取り出してしまえば、能力は使えなくなってしまう」
「じゃあ、さっきの男は」
「想像の通り、もうただの人間だよ」
レンの手にあるものは通り魔の男の欠片。
それを失った以上、男はもう欠片の能力を使うことなどできはしない。
「そうですか……だったら俺の能力を取り除くこともできるんですか?」
「それなんだがなぁ……」
夢を見なくて済む……徹矢がそう希望を持って問いかけたのだが、返ってきたのはあまり良い返事ではなかった。
「一応、取り除くにはある程度の条件が必要になるんだが……徹矢はまだその条件を満たしていない」
「そんな……」
神の欠片にはある程度の段階が存在しているのだという。
まずはほとんどの場合である休眠状態、この状態は普通の人間と変わることなく過ごすことができ、何らかのきっかけがない限りは何の問題もなく一生を終えることができる。
次の段階と言えるのが発現状態、神の欠片が目覚めてしまった状態で無意識的にでも能力が発動してしまういわば暴走状態、ここに徹矢は属している。
さらに次の段階で原石状態と呼ばれる状態になる、これは欠片の制御を行うことができるようになり意識的に力を使えるようになった状態、先ほどの男はここに属している。
通常、休眠状態から原石状態へと至る場合が多いのだが、時折能力が強すぎたり特殊であったりすると制御できず発現状態のままになってしまうのだという。
これは、魔法であったりといったものがない世界で多い事例なのだとか。
「んで、神の欠片を取り出せるのは原石状態でなければいけないんだ」
言ってしまえば休眠状態や発現状態というのは気体や液体のようなもの。
原石状態のみが固体の状態であり掴み取ることができるのだという。
「じゃあ、俺の欠片を取り出してもらうには」
「原石状態にならないといけない……ま、そこまで行けば制御できているわけでわざわざ欠片を取る必要もなくなるのだけどな」
現状で取れる手段はただ一つ、制御できるようになり原石状態にまで位を上げること。
そうレンは締めくくったのであった。
「制御の仕方に関しては俺が教えてやる……できれば俺がこの世界にいられる間に修得して欲しいところだな」
「……わかりました」
簡単に対処できる方法が使えないことに徹矢としては残念に思うものの、方法そのものがなくなったわけではない。
何もわからなかった頃に比べれば格段にマシな状況であった。
「さて……制御を行うのならば当然徹矢の能力がどんなものかに触れることになる……徹矢、自分の能力を一言で表せばなんだ?」
自分の能力を一言で、そう問われて徹矢は少し逡巡する。
未来を見る夢……それを表すとするならば、
「予知夢……あるいは未来予知?」
考えて、やはりそれしかないのではないだろうかと徹矢は思う。
だけど、レンはその答えに首を振った。
「確かにそう考えるのが普通だけど、おそらく違う……聞いただけだから正直わからないが、俺は徹矢の能力は未来確定だと思ってる」
「未来……確定?」
未来予知ではなく未来確定。
その違いを徹矢は理解できず、改めて聞き返した。
「正直に言えば、未来確定は予知とは比べ物にならないほど強力な能力だ……制御できていればだけどな」
逆に制御できなければ、予知よりもよほど救いのないものとなってしまう。
現状、その救いのない状態に徹矢はいるのだという。
「さて……説明するのであれば簡単にでも図があった方がいいな」
言いながら、レンは砂の地面に一本の線を描いた。
「この一本のラインを過去から現在までのお前の人生と考えてくれ」
「わかりました」
一本の直線、生まれてから現在に至るまでの通って来た道、だからこそそれは一本の線で表すことができる。
その一本の線の一端にレンは二つの分岐を新たに書き足した。
「こっちが未来、当然未来は様々な分岐が待っていることになる」
例えば右の道を行くか、それとも左の道を行くか……それだけでも未来の道は分岐する。
それが無数に分岐し、無限の未来が作られているとレンは二つの分岐線にさらに分岐線を書き足しながら続けた。
「未来予知の場合、この無数の道から一本の未来を視ることができる能力なわけで」
四つに分岐した道、その一端にレンは丸を描く。
それを予知した未来の道だとして、その道の通りに進むことで同じ未来へと進むことができる。
逆に違う道へ進むことでその未来が起きることはない。
けれどそれは、徹矢の持っている能力の状況と明らかに違うと言えた。
「だが、未来確定の場合は少々違うことになる」
未来確定は文字通り未来を確定してしまう能力。
つまり未来の先、結果が先に決まってしまう能力だと言える。
「たとえば、友人が怪我をする夢を見たとする」
その夢を絶対に避けたいと思っても、友達が怪我をしてしまうという結果だけは既に決まってしまっている。
先ほどの分岐線を使って説明するのであれば、最も最初の分岐で友達が怪我をする道と怪我をしない道があり、夢を見た時点で怪我をする道を選んでしまっている状態である。
だからどれだけその先の分岐の行動を変えたとしても、一番最初に怪我をするという道を選択している以上その結果だけは必ず起こってしまう。
そして夢の中で何を持って分岐するのかといえば、その夢の中で本人の思い入れが強かったものから選択されていく。
つまり、絶対に起こって欲しいものと絶対に起こって欲しくないものは確定してしまうのである。
だからこれらはどんな選択を行い、どんな分岐を進もうとも絶対に逃げることはできない……それが嫌だと逃げているものほど、その実それに近づいてしまう。
そんな能力だとレンは告げる。
「そん……な……」
それを聞いた徹矢としては平静ではいられなかった。
何しろ今までの行動が全て無駄だと言われたに等しいのであるから。
沈み、レンの声さえ聞こえなくなっていく徹矢、それを見てレンは手を徹矢の額に持って行き……弾いた。
「っ~~!?」
「あ、悪い、力加減間違えた」
いわゆるデコピンであったのだが、明らかに超人であろうレンの一撃……その威力は推して知るべきだろう。
直撃した額を押さえ、涙目になりながら徹矢が言う。
「額が割れるかと思いましたよ!?」
「話が終わってないのに勝手に絶望している方が悪い」
「……そりゃ、そうかもしれないですけど」
「だから予知よりも救いがないって言っただろ……それくらいの覚悟はしておけよ」
「そんなこと言われましても……」
今までの行動を全て無駄だと否定されてすぐに立ち直ることができる人間は少ないだろう。
そのようなことはレンとてわかってはいるのだが、そんな状態では先にも進まない。
厳しいことを言っているとは理解しながらもレンは話を続けていく。
「確かに悔しいだろうが問題は判明したんだ、後はそれを対処するのみだろ」
「……わかりました、教えてください」
「よし、そうこないとな」
徹矢の返事にレンが嬉しいそうに笑みを浮かべる。
「さて、一口に制御と言ってもどうすればいいのかわからないだろう、それに何を持って制御できているのかという点も疑問か」
「そう、ですね」
「まず完全に制御できるのであれば完成した徹矢の能力は、望んだ未来を掴み取る能力であると予想される」
「望んだ……未来を?」
「そう、元々未来確定はとんでもない能力だ、無数の未来の中で一本しかないような出来事でもそれをお前が望むのならそれを起こすことができる」
例えば絶対に避けられない攻撃を回避したり、逆に攻撃を必ず当てることができる。
あるいは堅固な要塞を一撃で破壊する未来さえ選び取ることができる。
「正直人が持っていていいレベルの能力じゃないことは確かで、いきなり原石として制御できるような代物でもないだろうな」
ある意味では暴走するのは必然、男の認識操作などと比べることもおこがましいレベルのものである。
結果見続けるのは変えられない未来、たいていの場合は嘆きながら終わることになるのだろう。
「完全に使いこなすのは人間じゃ無理だろうな……だけどある程度ならば問題ないだろうし、俺たちが目指すのはそこまで高い目標じゃない」
徹矢の願いとしては未来の夢を見たくない、それだけである。
であれば能力を意識的に発動できればそれでいい……つまりは能力のオンオフを身に着けること、それが徹矢とレンの目標である。
「オンオフさえできれば実際の使用にはそう問題はないだろうしな」
「そうなんですか?」
「ああ、というか気づいてないか? 徹矢は既に一度未来を変えているんだぞ」
「へ…………あ!」
その日の夢、徹矢が死ぬことは何よりも避けたいと願った……だからこそ結果は既に確定していたはずなのだ。
徹矢の死という道を選択した以上どんな分岐を通ったとしても徹矢の命はなかったはず。
そうならなかったのは未来が変わったから……正確には新しい未来を確定したからと言うべきだろう。
「神の欠片は何かに宿るという性質上、宿主の状態で影響を受けやすい」
それは単純な体調などの肉体面のことだけではなく、感情や願い、祈りといった精神面でも影響を及ぼす。
自分の死に直面した徹矢は、それを避けたいと思うからこそその道を確定させてしまうが……その道を避けたいと強く願った。
その願いは今まで避けたいと思った何よりも強く、深く願い、祈ったからこそその奥にある神の欠片に届いた。
未来の分岐にリセットをかけたのか、それとも死なないの道にある分岐に改めて道を繋ぎなおしたのか、詳しいことはわからないが確かに絶対だったはずの未来を変更したのだ。
「救いを願って、逃げ続けたんだろ? もしも諦めていたら、俺は間に合わなかった」
レンが助けに入ったのは本当に最後の瞬間。
あそこまで逃げることができなかったら、倒れた後のナイフにあがかなかったら……きっと徹矢は今ここでこうしていないだろう。
「その一度だけとはいえ徹矢は確定していた未来を覆す未来を作って見せた、だからオンオフさえできればあとは特に問題ないと思っている」
「……わかりました、期待に応えて見せます」
「ああ……と言っても、制御の訓練自体は大したことではないんだけどな」
頷き、苦笑いを浮かべるレンが徹矢を見ながらその方法を告げる。
「瞑想って聞いたことあるんじゃないか? 神の欠片は自分の内で精神に作用される部分がある、だから精神統一みたいな修業は思いの他効果的なんだ」
「瞑想……」
「そ、座ったままでいいから目を閉じてみろ」
言いながらレンの目が閉じられる。
それに続くように徹矢も目を閉じるのであった。
「人が一番無防備なのは眠っている時だ、だから起きている時は無意識に抑えているものが溢れてしまう」
その結果として、夢という形で未来確定の力は発動してしまう。
厄介なのは発動しても眠っているから制御をおこなえていないこと、だから結果として確定させる内容は夢の中での感情の揺れ、正負を問わず強い想いの物になる。
「瞑想って言っても本格的なものじゃない、視界を閉じて、集中して、感じる……それを続けることだ」
「集中して、感じる」
「そ、視界を閉じて余計なものを見えなくする……そこから風の流れとか、陽の光の温もりとかを感じてくれ」
「……わかりました」
レンの指示の通りに徹矢は目を閉じたまま心を落ち着けようとする。
だけどしばらく経ってもあまり上手くはいっていないようで、時折唸るように低く声を上げていた。
「ふむ……あんまり集中できていないようだな」
「すいません」
「別にいいが、このまま続けていても無理か?」
「……すいません、目を閉じるのが怖いみたいです……ふと夢を見てしまったらと思うと、どうしても」
「……なるほど」
一応は目を閉じたままの徹矢を見てレンは苦々しく笑う。
考えてみれば夢を見ることを嫌っていたのだ、目を閉じることに少しの恐怖を感じることも理解できなくはないとレンは思う。
そして、眠らないようにという雑念が緊張を生み、集中を妨げてしまう……このままえは遅々として進まないだろう。
「とはいえ、それはさすがに克服してもらわなければ困るところではあるな」
もっと別の理由であれば他の集中法を探すのもいいのかもしれない。
しかし原因が神の欠片から発生しているものであれば、無視する訳にもいかないだろう。
他の方法で制御を習得したとしても、それが原因で集中を乱せば意味がない……何より、夢への恐怖の根幹である以上ここを治さなければ発展はない。
「なんとか……努力してみます」
徹矢はそう言うものの、あまり表情は芳しくない。
このままでは上手くはいかないだろうとレンは立ち上がり、徹矢の背中に手のひらを押し当てた。
「レンさん?」
「眠りそうになったら俺が起こしてやる、安心して集中しろ」
徹矢の背からレンの手のひらの温もりが伝わっていく。
大丈夫、怖いことなどないから安心しろ、そう訴えかけるような意志が徹矢には伝わっていた。
「まずは呼吸を一定にしようか、こっちで指示を出すから従ってくれ」
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
何度も何度もレンは徹矢に指示を送り、徹矢の精神を安定させていく。
呼吸の感覚は手のひらにかける力加減……その規則的な変化を続けている内に徹矢も集中状態へと移行していく。
「太陽の熱を感じるだろ? 風の流れを感じるだろ? 俺の手のひらを感じるだろ? 自分の鼓動を感じるだろ?」
問いかけるようなレンの言葉。
返事を返すことは無いものの、肯定するように徹矢はそれらを感じていく。
「海を潜るように、意識を沈めていけ」
神の欠片は奥に沈んでいるから、自分も沈んでいかなければそこには届かない。
言われたとおりに意識を埋没させようとするけれど、しかし上手くはいかず先ほどまでとは若干違った意味で徹矢は苦悶の声を漏らした。
額に汗が浮かぶようになった頃、レンに両肩を唐突に叩かれて徹矢は意識を覚醒させた。
「あんまり詰め過ぎても駄目だからな、いったん休憩しよう」
「……わかりました」
そう答えて、徹矢は大きく脱力した。
大きく息を吐いて、愚痴をこぼす。
「うまくいきませんね……」
「アホか、一発でうまく行ったりすれば天才だっての、焦らず集中しとけ」
「……はい」
そんな愚痴にレンがツッコミ、頭をはたく。
実際、今までそういうことをやらなかった人間が最初からすぐにできるほど甘くはないだろう。
そんなことを言っているものの、レンの見た限りでは筋は悪くなく、このまま続ければ今日一日でも何かしらの感覚がつかめるのではないかと予想していた。
「時に徹矢、お前は昼はどうするつもりなんだ?」
「昼? ……あ」
問われ、思い出したかのように徹矢の腹が鳴った。
昼どころか朝さえも食べていなかったため、一度自覚してしまえばもう忘れることはできそうにない。
「早くしたいのはわかるがその状態じゃ上手くいかない……待っててやるから一度家にでも戻って飯を食ってこい」
「……そうします」
このままでは集中することはできないだろう、そう感じた徹矢はレンの指示に従い自分の家に向かって歩き出したのだった。
その帰り道、徹矢はまさか新しい通り魔など出ないだろうかなどと不安を抱えながら家へと到着するのだった。
「……ただいま」
「おかえり徹矢」
玄関からの声に反応して徹矢の母親である透子が姿を見せた。
「朝はいきなり出ていくからびっくりした……わ」
そして話しながら徹矢の姿を見て、透子は沈黙してしまった。
回避のものを含めて転倒が二回、回避で地面を転がり、終いには蹴られ踏まれた……そんな状態の徹矢の姿を見てそうするなというのは酷な話だろう。
「徹矢、一体何をして来たの?」
転倒した時にできた頬の擦り傷に触れながら透子は徹矢に問いかける。
頬の傷だけならまだしも結構汚れた状態では、単純に転んだと言っても通用しないだろう。
そう判断しながら徹矢は口を開いた。
「友達と派手に喧嘩した」
「まぁ……」
見た目は少々酷いとはいえ大怪我というほどではない。
透子も驚きはあっても疑いはないようだ、というよりは何よりも大事ないかの心配でそれ以外はあまり考えていないようである。
「徹矢、その友達は大丈夫なの?」
「うん、俺よりは全然軽いし、一応その後和解もしたし大丈夫」
互いにひどい状態だし昼時だからと一度別れて、後からもう一度会うことにしている。
そう話すと透子はやや複雑そうな顔をしたものの、わかったわと言ってそれ以上は何も聞かなかったのだった。
「とりあえず、そのボロボロの状態を何とかしないとね……着替えちゃいなさい、あと傷の手当てもしてあげるわ」
「一人でできるよ別に」
「いいから」
「……はい」
予想外な透子の強い言葉に徹矢はそれ以上抵抗できずに言われるまま服を脱ぎ、腫れていたり青くなっている箇所に治療を施していく。
蹴られ、踏まれたところは多く、徹矢の予想以上に範囲は広かったが骨折などは特にしていないようだった。
「まったく……男の子だから喧嘩することもあるのかもしれないけれど、少しは加減を考えな、さい」
最後の一息でパシンと背中を叩かれ、響いたのか痛みで徹矢が硬直する。
これがお仕置き、お昼は今から作るから少し休んでなさいと透子は告げて台所へ向かって歩いて行った。
徹矢は用意されていた新しい服に着替え、リビングのソファに座った。
「っあー、痛い」
意識をしていなかった内はよかったがこうして落ち着いて怪我を見てみると嫌でも意識してしまう。
触れれば当然痛みはある、とそこまで考えて瞑想中はあまり気にしていなかったことを思い出す。
集中していれば気にしないでいられるかと、レンから習ったように瞑想を行ってみる。
「…………ぐぅ」
しかしそううまく行くようでもなく、レンがいないことで目を閉じること自体が再び苦行となってしまっている。
結果集中は散漫で、痛みも忘れることができないまま、それでもしばらく続けていると。
「あれ、徹矢兄帰ってきてたの?」
唐突に声をかけられた。
その声を聞いて徹矢は目を開き、声の主を確認する。
視線の先、そこにいたのは徹矢と同じ年頃の女の子の姿。
言葉からして兄妹であるのだろう、男女の差はあれどその顔つきなどはどことなく徹矢に似通っていると言えた。
「理子か」
「なんか反応薄いよ?」
「普通だって」
「そんなものかな? ……ってどうしたのその姿!?」
身体のあちこちの湿布を貼った徹矢の姿をようやく認識したのか理子と呼ばれた少女は驚いた表情を見せる。
「ちょっと喧嘩したんだよ」
「徹矢兄が喧嘩って……ていうか痛くないの?」
「痛い、だから触るな」
貼られた湿布に触れる理子に徹矢は若干顔をしかめながら理子にデコピンを入れる。
「うぎゅ……痛いよ」
「怪我に触れる方が悪い」
言いながら、徹矢も別に怒っているわけではなく口元を緩めてそう言った。
そんな笑みを見て、理子は驚いた表情を見せる。
予想外な表情の変化に徹矢は怪訝な顔を浮かべて理子に問いかけた。
「ん……どうした?」
「徹矢兄、何かいいことあった?」
「へ……?」
「徹矢兄の表情いつもと違うよ、ちょっと楽しそう」
理子の言葉に徹矢は感心したように声を上げる。
自分では隠せていると思っていただけに見抜かれるとは思っていなかったのである。
「よくわかったな」
「わかるよ、母さんには隠せても、双子の妹には隠せないよ……ついでに喧嘩っていうのも嘘でしょ?」
自信満々に宣言する理子に徹矢は何も言えなかった。
まいったな、と口にして徹矢は理子の言葉を認めるのだった。
「ま……楽しそうってのは否定しないし、喧嘩より少々複雑なことが起こっていることも確かだな」
「ふふー、よく見ているでしょ?」
「ああ、まったくだな」
見透かされてしまったことに徹矢は苦笑をすることしかできなかった。
そんな徹矢の苦笑を指差して、理子は言う。
「ほら、今笑ってるときとか特にそうだよ……他の人にはわからないかもしれないけど、徹矢兄いつもつまらなそうに笑うもん」
「つまらなそう?」
「うん、いつでも想像通りですみたいな」
その言葉は徹矢の思いをそのまま表現したかのように的を射ていて、思わず徹矢の呼吸が一瞬止まってしまう。
そんな徹矢の様子に理子は小さく笑い、言う。
「どうして徹矢兄がそんな表情をするのか、今徹矢兄が何をしているのか、それはわからないけど……今の徹矢兄はすごくいいと思うよ」
「……そっか、うん、自分でも今の方がいいと思っているよ」
「ホント? それならよかった」
隣に座り、ニコニコと笑う理子の姿に徹矢は小さく笑みを浮かべる。
「実際の所今日何があったの、徹矢兄?」
「秘密だ」
「けちー」
徹矢の返事に口をとがらせる理子であるが、徹矢としても話す気にはなれなかった。
というよりも話す内容が非現実すぎるせいでもあるのだけど。
「ま、理子だと信じそうだけど……」
「ん?」
ポツリと漏らした言葉を聞き返した理子に徹矢は何でもないと告げる。
「まあ、もうこんな怪我を負う予定もないから大丈夫だよ」
「……わかった、これ以上怪我したら駄目だよ」
「了解」
「徹矢、お昼できたわよー」
そこまで話したところで透子から声がかかった。
「そういえば理子は飯は?」
「先に貰っちゃった……どうせなら徹矢兄と一緒したかったな」
「そりゃ悪かった」
「別にいいよ……だけど、そう思ってくれてるなら明日の学校の帰りにでも買い物に付き合ってくれる?」
「荷物持ちか? 了解」
残念そうにしていた理子の頼みを聞き入れて、徹矢は透子の元へと向かった。
それから昼食を食べ、午後からの訓練のためにも徹矢は再びレンの待つ公園へと戻るのだった。




