[1] 精霊の森
「アルサス殿下、どうしてもお一人で行かれるのですか?」
「あきらめろ、リント。お前の血では森は歓迎しまい」
「ですが、殿下を側でお守りするのが騎士の役目です。このような暗く深い森、殿下に何かあったらどうするのです」
「俺をなんだと思ってるんだ。自分の身くらい守れるさ」
殿下と呼ばれた黒い甲冑を身に纏った男は、自分の馬の手綱を従者に押しつけると、颯爽と木立の中へ分け入っていく。
彼が少し進んだ所で、背後で空気が裂けるような音とうめき声がした。
「だから大人しく待ってろと言ったのに……」
オルフの森は、マクライン国の北西にあるルジ山の麓にある深い森。
別名『精霊の森』という。
入るには精霊の許しが必要と言われ、普段人間は立ち入れない。
ただし一部例外がある。精霊の友である魔術師カザンと、精霊の祝福を受けた家系の血を持つ王族に限って森は開かれる。
普通の人間が入ろうとしても森の入り口からは入ることができず、無理に押し通ろうとすると不思議な力で弾かれてしまうが、資格を持つものが踏み込めば、森は素直に迎え入れ目的の場所まで導いてくれる。
彼の前には人や獣によって作られたのではない、枝や茂みのない道が木漏れ日に照らされて伸びている。
その道をひたすら進む道中、アルサスが渇きを覚えると、まるで彼のために用意したかのような小さな泉が現れた。そこで喉を潤して休息し、再び歩き出した。
ひたすら木々が並ぶばかりの景色に飽きてきた頃、急に目の前が開けた。
薄暗い森に目が慣れていたせいで、遮るもののない日差しにくらみ目を細める。
薄く開けた視界の中で、石造りの建物が午後の日差しの中白く輝いていた。風雨が石の角を削り、草や蔓が壁や屋根に茂っている。
「隠居したとはいえ、宮廷魔術師の長ともあろう爺がこんな所に住んでいたなんてな」
嘲笑ではなく親愛の笑みを浮かべながらぼやいた彼は、ドアを力強く叩いた。
「おい、爺、いるか?爺!」
応答のない扉を何度か叩くアルサスの背後で、茂みが不自然にざわめく音がした。
「誰だっ」
腰の剣に手をかけ振り向くと、そこには人が立っていた。
「女?いや、小娘か。なぜここに…」
アルサスの動揺を伝えるかのような一陣の風が木立の間を吹き抜け、そこに立つ少女の衣服と肩で切りそろえられた黒髪をさらさらと揺らす。
「そのお年頃、お父様譲りという濃い色の髪は、アルサス殿下かな。ようこそ、オルフの森へ」
「なぜ俺の名前を? いや、それよりなぜこの森にいる。カザンに身内がいるとは耳にしたことはない。精霊の類か?」
いぶかしげに問いながらも構えたままの彼に少女は臆することなく歩み寄り、彼の横をすり抜け扉を開けた。
「さあ、たいしたおもてなしも出来ませんがどうぞお入りください」
通された居間の壁には、様々な草花が吊され干され部屋中が薬草や香木など様々な匂いに満ちていた。
決して不快なものではないが、いい香りとはお世辞にも言えない。
少女がカップになみなみと注いだ、普段は飲まない甘い赤琥珀色の茶は、森の中を長く歩いた彼の疲れを癒した。
「本当は酒などでもてなせばよいのでしょうが、今日はお茶にしておいたほうがいいと」
「気にするな、俺も急ぎの用で来ている。それよりいつ爺は戻ってくる。俺が来ることは分かっていたのだろう?」
少女は彼の向いに腰掛けると、それまで口元にずっと浮かべた笑みをひっこめ、黒い大きな瞳に感情の光を揺らした。
「カザン様はいらっしゃいません」
「なんだ、爺のやつ留守にしてるのかよ。それでお前は爺の何だ?隠し子か?」
近くで見れば分かる。彼女は精霊ではなく、赤い血の巡る人間だ。
象牙色の肌と黒髪に黒い瞳の組み合わせは、明らかに自分達王族とは血が違うことが分かる。
それでもこの森の中にいるということは、残る可能性はカザンの関係者という線しかない。
「私はカザン様の弟子で名前はヒラ。身の回りのお世話をしながら魔術の手ほどきを受けていました」
「なんだつまらん。ただの弟子か」
弟子でも、この森は入ることを許すのかと拍子抜けした彼を見て、ヒラは「期待に添えなくてすみませんね」などとつぶやいている。
髪や肌の珍しさばかりに気を取られていたが、よくみれば温和そうだが意志の強さを感じさせる黒い瞳が印象的で、顔も異国風だが整っており美しい部類に入る。
「確かに、これは王宮の魑魅魍魎どもに彼女の存在を隠していてもおかしくないだろうな。それでカザンの弟子、師匠はいつ戻るのだ?俺はそうのんびり待ってはおれん」
「……もう戻ってはいらっしゃいません。片道の旅、来世へと旅立たれました」
「なんだと?まさかそんな…もし冗談なら今この場でその命はないと思え!」
アルサスは机の上のものが床に落ち割れるのもかまわず激しく叩き、腰を浮かせると噛みつくように声を荒げた。
しかしヒラは彼にひるむ様子もなく、悲しみをたたえた瞳をそっと伏せる。そして、まるで自分に言い聞かせるかのように静かに別の言い方で繰り返した。
「いえ…嘘でも冗談でもないのです。カザン様は、三日前にここで亡くなりました」