5月の風になる―思い出を繋ぐ峠―
さわさわと風に揺れる新緑が、独特の青臭さを放っている。曇りのち雨だった予報は見事に外れ、力強い日差しと爽やかな青空が初夏の山々の鮮やかさを一層際立たせている。
連休中だというのに殆ど車通りのない山間の道を、1台のバイクがのんびりと走っていた。バイクの主はヘルメットの中であくびをひとつ噛み殺した。名前を颯樹というが、彼はまだ不慣れなバイク乗りだった。そもそも自身をバイク乗りだと思ってすらいない。彼にとってバイクは単なる移動手段でしかなかったのだ。
大学を中退し、東京から田舎の実家に帰って来てもう2年が経とうとしている。何がしたいのかもわからないまま親の金で大学に通うのが嫌になった。中退した今でも何がしたいのかなんて全くわからない。ただ味気ない日々を誤魔化すように、近場のバイク店兼カフェで働いている。べつにバイクが好きなわけでもコーヒーに特別興味があるわけでもなかったが、店主のお節介なおじさん、青山さんからの誘いを断れなかったのだ。青山さんは颯樹の家のすぐ近くに住んでいて、幼いころからちょくちょく交流があった。
ただカフェで働いていればいいかと思っていたのに、気づけば颯樹はバイクに乗ることになっていた。特段興味がないので、車種について詳しいことはよく知らない。聞いても忘れてしまうのだ。わかっているのはカワサキのバイクであることくらいだ。排ガス規制の問題で今はもう生産が終了しており、街中でもあまり見かけないバイクであるらしい。青山さんにとっても思い入れが深いようで、そのためか颯樹をこのバイクに乗せることにやたらと熱心で、あれこれと口を出したり勝手にメンテナンスをしたり装備品をタダでくれたりした。
「ちょっとお遣い頼まれてくれないか。もちろん給料は出すからさ」
ようやく運転に慣れてきた去年の冬。眠気を押し殺してコーヒーカップを拭いていた時、颯樹は青山さんから頼みごとをされた。かつて親戚が住んでいた山奥の空き家に郵便物を取りに行ってほしいというのだ。空き家の主は老人ホームに入居し、郵便物だけがポストに届くため毎週確認に行っているのだという。その役目を颯樹に託したいようだった。
「あのバイクを使えばいいじゃないか。練習練習!」
青山さんはひとりで張り切っていた。休日を使った個人的な頼みなら断っていたかもしれないが、「給料は出す」という言葉は魅力的だった。
「勤務時間中に行っていいってことですか?」
「そうだよ。ここからそこまで遠くないし、道も混まないよ!」
「それなら、まあ……」
それから颯樹は何度かバイクを山奥の空き家まで走らせた。ただ空き家までバイクを走らせて、玄関前のポストから郵便物を回収して帰って来る。簡単な仕事だった。
そして季節は移り変わり、5月の連休がやって来た。この日も颯樹は郵便物を取りに空き家に向かっていた。バイクのメッキパーツに流れる景色が少し歪んで映っている。控えめな走行音がトコトコと山に響く。その音を聞いた路肩のサルや田んぼのキジなどが何事かと目を丸くして颯樹の方を見た。サルもキジも彼にとっては風景の一部であった。
荒々しい岩肌が剥き出しになった渓谷に架かる橋を渡り、民家もまばらな山へと入っていく。やや急な上り坂カーブを何度か曲がる。山下には茶色く濁ったダム湖があり、ブラックバス釣りの小舟がいくつか浮かんでいる。それらを横目に、努めてのんびりバイクを走らせていると、時折バイク乗りの集団とすれ違う。すれ違うたびに視線を送られることにもなんとか慣れてきていた。
ダム湖を通り過ぎ、山間の狭い道をしばらく走れば空き家はもうすぐだ。唐突に山の奥へと続く坂道が右手に現れ、そこを上って行く。このボコボコとした上り坂を走る時、颯樹はいつも緊張した。
苔生した狭い庭にバイクを停める。
――あれ。また壊れてんなぁ。
空き家は前日の強い雨風に晒され、外れた雨樋が折れ曲がって地面に突き刺さっている。ガラス戸から中を覗き込んでみる。大きな本棚がいくつもあり、ツーリングや喫茶店などに関する本が多く見られた。天井にはどす黒いシミが滲んでいる。どうやら雨漏りまでしているようだ。もともと古民家ではあるが、居住者が去ってからというもの、その劣化速度は格段に上がっているようだった。
玄関前の錆びた赤いポストを開けてみると、見慣れた年金通知の封筒と、どういうわけか近場に新規オープンした喫茶店のチラシが入っていた。
――こんな山の中に喫茶店? 物好きな人もいるんだな。
そんなことを思いながら手紙とチラシを鞄にそっと入れ込むと、家の陰に何かの気配を感じた。
――何かいる。
家の裏庭には井戸があるが、そこに何かがいるような気がしてならなかった。獣か、人か。
よせばいいのに、その気配の正体を確かめずにはいられなくなった。こういう時好奇心だけは一丁前である。颯樹はなるべく音をたてないように慎重に足を進め、家の裏を覗き込んだ。体を傾けた時、足元の小枝を踏んでパキリと乾いた音をたてた。
「ギャッ!」
その瞬間おぞましい鳴き声が響き、数匹の小さな茶色い獣たちが散り散りに逃げて行った。一瞬シカかと思ったが、その小ささからシカではなくキョンであるとわかった。颯樹もかなりびっくりして、小さく引き攣った声をあげながらのけぞった。
「なんだよクソ。外来種がもりもり増えやがって」
キョンがいなくなりしんと静まり返った裏庭で、颯樹はひとり悪態をついた。
「帰ろう」
そう呟いて庭の隅に停めたバイクのところまで歩いていた時だった。右のふくらはぎに何とも言えない違和感を抱いた。なんとなく痛いような、痺れるような……
恐る恐るズボンの裾を捲ってみると、確かにそいつはいた。濡れたナメクジのようにテカる黒い物体が2つ。ヤマビルだ。
「うぐ……」
思わず言葉に詰まる。颯樹は小さく呻いて、一旦ヤマビルの付いたふくらはぎから目を逸らした。落ち着いて深呼吸をひとつ。もう一度見てみる。やはり、いる。
ライディングシューズにそこそこ丈のある靴下まで履いているのに、いったいいつどうやって付着したのか。ヒルは颯樹の血を吸って少し大きくなっていた。噛まれてから時間が経っている証拠である。
颯樹はバイクのシートに腰を下ろし、患部を詳しく見ようとした。見づらいのでガソリンタンクに反射させてみたりスマホで写真を撮ったりしてみたが、それがヒルである事実に変わりはない。
とにかくこのおぞましい生き物を引きはがさなくてはならない。覚悟を決めてヒルを引っ張ってみるが、取れる気配はまるでなく、グミやスライムのようにびよーんと伸びるだけであった。
「おい。離れろ。お願いだから」
思わず話しかけてしまうが、2匹のヒルは上質な獲物を逃すまいと全力で吸い付いている。何かもっといい取り方があるだろうとスマホで検索しようとしたが、圏外でネットに繋がらずそれも叶わない。ヒルはどんどん大きくなる。いずれは吸うのをやめてどこかに行くだろうが、それがいつになるのかわからない。なにより死ぬほど気持ちが悪いので、こんな魔物くっつけておきたくないのだ。
――いいか颯樹。空き家には長居するなよ。ヒルがいるからな。
確かに青山さんはヒルについては以前忠告していた。だがその時は冬だったこともあり、ヤマビルも少なかった。完全に油断していた。
「そうだ。虫除けスプレー」
確か入っていたよなと思い、鞄をまさぐる。だが虫除けスプレーは入っていなかった。そういえばキャンプへ行く弟に貸してそれきりであったことを思い出し、颯樹は頭を抱えた。青山さんは他に何か言っていなかったか、今度は記憶をまさぐってみる。
――虫除けスプレーか、あとは塩とか酢とかアルコールだな。刺激物に弱いんだよ。
「どれも持ってねぇ」
思い出しはしたが、更に頭を抱えることになった。この辺りには人が住んでいる民家もない。このまま店までヒルと一緒にツーリングして帰るしかない気がした。足の痛みは少し増してきている。
颯樹はヘルメットを被り、エンジンをかけてギアをローに入れた。「さあ出発だ」と思った瞬間、バイクはガクンと揺れた直後、スン……と沈黙した。しばらく考え込んだ後、ふと足元に目を向けると、サイドスタンドがしっかりと車体を支えている。
――落ち着こう。一旦落ち着こう。
何度か深呼吸をし、山の空気を肺に取り込む。すると鞄にしまったチラシの存在を思い出した。
チラシには喫茶店への地図が載っていた。「彗星蘭」という名前らしい。知らない道だがここから近いことを確信し、颯樹はチラシを強く握りしめた。喫茶店になら塩くらい置いてあるはずだ。ちょっと助けてもらって、お礼に何かテイクアウトでもしよう。青山さんや奥さん、バイトの子にも買っていってあげようと思った。
バイクを走らせること10分足らず。ダム湖に架かる橋を渡り、山奥へと入っていくと、彗星蘭はすぐに見つかった。道も限られているうえあちこちに案内板があるのですぐにわかったが、地面がぬかるんでいる箇所があり車体を汚してしまった。
敷地には練馬ナンバーのオフロードバイク2台と1台のジムニーが停まっていた。連休中とはいえこんなところにお客なんて来るのかと感心していると、ジムニーの持ち主である若い女性が店から出てきた。まさかヒルをくっつけて店に入るわけにもいかないため、颯樹は女性に頼んで塩を貰ってきてもらった。
「すみません。ほんとすみません」「珍しいことじゃないから、気にしないで」
女性は客ではなく店主の知り合いであるらしかった。彼女は豆皿に盛った塩と絆創膏、そして畑で使う鎌を持って現れた。颯樹がズボンを捲ってみると、かなり大きく膨らんだ2匹のヒルが初夏の日差しに照らされて黒光りしていた。
「この辺の山はヒルが多くて。シカやキョンにくっついてくるの」
女性は淡々とした手つきでヒルに塩をかけた。するとものの数秒で2匹ともころりと地面に落ちた。その刹那、彼女は落ちたヒルを鎌で突き刺して殺してしまった。颯樹から吸い取った真っ赤な血がビュッと飛び出る。
「必ず殺さないと。ここで繁殖されても困るから。血は絞り出して。そしたらそこの水道で洗って。少し止血したら絆創膏。なかなか止まらないと思うからこまめに変えてね。帰ったらクリームタイプのムヒでも塗っておくといいかも。まあ大したことない。マダニみたいに感染症のリスクも低いし。よっぽど痒かったり熱が出たりしない限り病院も行かなくて平気」
颯樹は彼女の指示通りに血を絞って患部を洗い、ハンカチで少し押さえた後に絆創膏を貼った。
「おや。そのバイク、もしかして青山さんとこの子かい?」
女性が帰り、外の水道で傷口を洗っている時、中から店主の中年男性が出て来て颯樹に声をかけた。スキンヘッドに髭という厳つい外見をしているが、その声は柔らかく落ち着いていた。
「青山さんと知り合いなんですか?」「古い知り合いでね。まあ中に入りなよ。彼には私から連絡しておくから。なに許してくれるさ。あの人はゆるくて大雑把だから」
颯樹が何か返事をする前に、店主は店のドアを開けてドアマンのように待機している。青山さんの知り合いならいいか。そんなことを考えながら中に入った。
彗星蘭はもともと誰かの別荘だったログハウスを改装した喫茶店であるらしい。中に入るとヒノキの香りで満ちている。静かにジャズが流れ、入ってすぐにカウンターがある。その隅では2人の男性が座ってコーヒーを飲んでいたようだが、まさに席を立とうとしている。外に停めてあるバイクの持ち主だ。お客はそれだけで、テーブル席には誰もいない。
「ヒルって痛いんですか?」
話を聞いていたのか、男性のひとりが帰り際にそんなことを聞いてきた。歳は颯樹よりひと回りほど上のように見えた。
「いや、そんなには」
「そんなことよりめっちゃ高いバイク乗ってるじゃないですか。若いのに凄いなあ」
もうひとりがすかさず口を挟む。颯樹は乾いた笑いを零すことしかできなかった。
2人は外に出た後も颯樹のバイクの周りをうろうろしていた。立ち転けした跡を見られたような気がするが、しばらくするとこちらに手を振って帰っていった。そのため店は貸し切り状態になってしまった。静かな店内にジャズの音色が響いている。とりあえず颯樹はカウンター席に腰を下ろした。期間限定のメニューに抹茶のガトーショコラがあったので注文し、テイクアウトにしてもらった。
「何を飲む? サービスする」
「いや、お構いなく。なんならもう俺はこれで――」
「おっと。青山さんから返信が来たよ。幸い店は忙しくないから、今日はもうあがっていいそうだ」
店主はそう言ってメッセージアプリの画面を見せてくる。「ゆっくりしてこい!」と書かれている。おまけに可愛い猫のスタンプまで添えられている。機嫌がいい時に使うお気に入りの八割れ猫のスタンプだ。
「……じゃあ河内晩柑ソーダで」
「君なかなか渋いね」
「期間限定に目がないっていうか」
河内晩柑の甘酸っぱい香りにようやく気持ちが落ち着いたところで、店主の小谷さんは本題に入るかのように声を落とした。
「青山さんから聞いてるよ。この近くの空き家まで郵便物を取りに行ってるんだってね」
「はい。自分の家に届くように手続きなりすればいいのに、面倒だからってやらないんです。取りに行く方が面倒では? 俺に取りに行かせるくらいだし」
「まあ。彼はもう腰痛がひどくてバイクには乗れないって言ってたし、あの家に思い入れがあるからね。君が今乗ってるバイクであの家に行くことに意味があるんだろうね」
「どういう意味ですか?」
「彼は昔、あの空き家に住んでたお爺さんと仲が良くて、あのバイクでよく遊びに行ってたらしい。詳しくは本人に聞いてごらん」
ジュースを飲み終え、新緑をそのまま切り取ったようなガトーショコラを袋に入れてもらうと、颯樹は彗星蘭を後にした。時刻は3時になろうとしていたが、太陽は大きな山の陰に隠れてすっかり夕方の雰囲気になっていた。
カフェもバイク店も閉まり、辺りも薄暗くなった頃、颯樹は店の裏でバイクを洗っていた。彗星蘭に行く途中の道で付けた泥を落とさなければ青山さんに叱られてしまうという理由もあったが、それ以上に綺麗にしてやりたくなったのだ。
「今日は災難だったな。もう行きたくなくなったか?」
裏口から出て来た青山さんはバツが悪そうに言った。
「べつに。ヒルって死ぬわけじゃないし。――それに大事な場所なんですよね?」
颯樹がバイクを拭きながら言うと、青山さんは小さく息を吐いて「小谷から聞いたんだな。あいつも変わり者なんだ」と笑った。
「俺が若いころな。お前と同じように人生に迷ってたんだ。上京して働いたはいいものの性に合わなくて。こっちに戻って来て親父のバイク屋を継ぐか他の仕事を探すか迷ってた。あっちへふらふらこっちへふらふらしてるもんだから、あと少しで家を追い出されるところだった。そんな時に居場所をくれた人だったんだよ。山奥に住んでる変わり者の親戚の爺さんでさ。喫茶店やカフェ巡りが好きで、よくバイクで連れて行ってくれた。今お前が洗ってるバイクだよ」
「そんな! じゃあもっと真剣に洗わなきゃ」
颯樹の言葉に青山さんは豪快に笑いながら、「悪いね。そいつをこれからも頼むよ」と言って去って行った。今のバイク店兼カフェというスタイルもきっと親戚のお爺さんの影響なのだろうなと、颯樹は彼の少し丸まった背中を見ながら思った。
初夏の太陽はすっかり西の空に沈み、店の前の道路も車通りが増えてきた。颯樹が作った水たまりにはブルーアワーの空が反射している。
何か特別なことがあったわけではない。しかしなんとなく颯樹は、このバイクについてもっと知りたい。もっと理解したいような気がしていた。
おしまい。




