幻獣「ねこ」
我が輩は猫である。
いや、正確に言えば、以前はしがない現代日本の会社員であった。
極めて凡庸で、疲弊しきった人生を送っていたはずであった。
しかし、私の前世の記憶は唐突に途切れた。
次に目を覚ました時、私は見知らぬ豪奢なベッドの上で、ふかふかの毛皮に包まれた四足歩行の生物へと変貌を遂げていたのである。
鏡を見て驚愕した。そこに映っていたのは一匹の美しい白猫であった。
愛らしさと気高さを兼ね備えた究極の完成形だ。
だが、私が真に驚愕すべきは己の姿ではなく、この異世界における私の、いや「猫」という種族の扱いであった。
私が転生したこのヌコイナイ王国において、猫という生物はとうの昔に絶滅したか、あるいは神話の時代にのみ存在した「幻獣」として語り継がれていたのである。
王立図書館に所蔵されている最古の魔導書によれば、猫とは「天候を操り、魔を退け、その鳴き声で死者すらも蘇らせる幻獣」として記されているらしい。何を言っているんだ?
当然ながら、私にはそのような大層な能力は一切ない。空を飛ぶこともできなければ、口から灼熱の炎を吐くこともない。
せいぜい、少しばかりジャンプ力があり、狭いところに入り込むのが得意な、ごく一般的な猫である。
しかし、この世界の人々はそうは思わなかった。
ある日、王都の裏路地で行き倒れていた私を保護したのは、この国でも随一の権力を誇るクライス公爵家の令嬢、エレノア嬢であった。
彼女は私を見た瞬間、その場で泣きながら平伏して、私を最も上等な馬車に乗せて屋敷へと連れ帰ったのである。正直ヤバい人だと思った……否、今も思っている。
それ以来、私の毎日はなんとも滑稽な日々の連続となった。
朝、私が柔らかな羽毛布団の中で目を覚ますと、すでにベッドの周囲には沢山の専属メイドと、豪奢なドレスに身を包んだエレノア嬢がかしずいている。彼女たちは私が起きるまで、決して物音一つ立てず、ただひたすらに祈りを捧げるように控えているのだ。
たとえば私が大きく口を開け、「ふぁあ」と欠伸を一つする。
ただそれだけの行為に対し、エレノア嬢は感極まった声で震える。
「ごらんなさい、皆様。幻獣様が、悪しき空気を吸って、清らかな空気へと浄化してくださっているのですわ。なんと慈悲深き方なのでしょうか……」
メイドたちが一斉に涙ぐみ、「ありがたき幸せ」と私の欠伸に対して十字を切る。
私はただ、寝起きの酸素不足を補っただけなのだが、彼女たちの目には、私が世界を救済する偉大な儀式を行っているように映っているらしい。
にゃーん
腹が減ったので、朝食を要求する声を出してみた。すると、部屋の空気が一変する。
「幻獣様がお言葉を発せられました! 本日の天候は快晴、我が領地の今年の麦の収穫は間違いなく豊作となりましょう! すぐに料理長を呼びなさい、幻獣様が魔力を消費なされたのです、至急、至高の供物を用意するのです!」
エレノア嬢の号令のもと、屋敷中が蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。
私はただ、朝ご飯が食べたいと鳴いただけでなのだが……。
やがて運ばれてきたのは、巨大な銀の盆に載せられた、見たこともないような深海魚の姿蒸しであった。
料理長が床に額を擦り付けながら、「幻の海竜の幼体、その最も柔らかき腹の肉を、七日七晩かけて浄化の泉で煮込みました。どうか、お口に合いますように」と震える声で口上を述べる。怯えすぎですよ。
海竜の幼体と言われても、私にはただの白身魚にしか見えない。匂いを嗅いでみると、塩気は完全に抜かれており、猫の身に配慮された素晴らしい無塩調理であった。私は前足を上品に揃え、ハフハフとそれを食す。美味い。実に美味い。褒めて遣わす。
私は満足して、皿の端に少しだけ身を残し、食事を終えた。
猫という生き物は、なぜか少しだけご飯を残す習性があるのだ。
それを見た料理長が、再び号泣し始めた。
「おおお! 幻獣様、大地の精霊たちへの分け前として、供物を残してくださるとは! なんという深い御心、なんという万物への愛!」
いや、単にお腹がいっぱいになっただけである。
しかし、彼らは私が残した一口分の白身魚を、クリスタルの容器に入れ、大地の精霊の祠へと厳重に奉納しに行ってしまった。残飯処理のスケールが大きすぎる。
食事が終われば、次は毛繕いの時間である。私は日当たりの良い窓辺に移動し、前足を舐め、その前足で顔を洗い始めた。猫にとっては何の変哲もない、毎日のルーティーンである。
しかし、私の背後には、いつの間にか公爵家の護衛騎士団が整列していた。屈強な鎧姿の男たちが、私が顔を洗う動作を一つ一つ、食い入るように見つめている。
「見ろ、あの流れるような前足の動きを」
「一切の無駄がない……」
「洗練された達人のそれだな」
「我々もあの動きを目に焼き付けて、己の剣技に活かさねばならん!」
騎士団長や騎士たちが言う。私はただ、耳の裏が少し痒かったので、念入りに拭いていただけなのだが、彼らは私の毛繕いを「見えない敵との精神的な戦闘訓練」と解釈しているらしい。私が後ろ足を高く上げ、股間周辺を舐め始めた時には、騎士たちが「これが絶対防御の構え!」とどよめき、何人かはメモを取り始めていた。頼むからやめてほしい。非常に居心地が悪い。
午後になると、エレノア嬢の父親であるクライス公爵が、国王陛下からの密書を携えて私の元を訪れた。
公爵は一国の宰相も務める偉大な人物だが、私の前ではただの平伏する初老の男である。
「幻獣様、本日は国王陛下より、隣国との国境線の不可侵条約について、御神託を賜りたく存じます」
公爵が羊皮紙を私の目の前に広げる。当然ながら、私に異世界の文字など読めるはずもない。私はただの猫である。外交問題など知ったことではない。私は羊皮紙を無視し、公爵が着ている豪奢なマントの裾についている、キラキラとした金糸の飾りに目を奪われていた。
……あのヒラヒラ、すごく気になる。
私は体勢を低くし、瞳孔を開き、お尻を小さく振って狙いを定めた。
ダァン!
私は見事な跳躍で公爵のマントの裾に飛びかかり、金糸の飾りに前足で強烈な猫パンチを連続で叩き込んだ。シャッ、シャッ、シャッ! そして飾りに噛み付き、後ろ足で激しく蹴り上げる。いわゆる、猫キックである。
「ひぃっ!」
公爵が短い悲鳴を上げ、その場に硬直した。部屋にいたエレノア嬢も、護衛の騎士たちも、息を呑んで私の行動を見つめている。
私はしばらく金糸の飾りと死闘を繰り広げた後、ふと我に返り、「はっ、いけない。つい本能が」と思い、何事もなかったかのように元の位置に戻り、すんと澄ました顔で座った。
静寂が部屋を包む。まずいな、やりすぎたか?
やがて、公爵が震える手で羊皮紙を拾い上げ、涙ながらに叫んだ。
「そうか! 幻獣様は、隣国の使者が身につけているであろう金の装飾に気をつけろと、そして、彼らの裏切りに対しては、あの恐るべき連続蹴りのような苛烈な制裁を加えよと、そう仰っているのだ! なんという明確にして力強い御神託であろうか!」
やっぱりおかしいよ、この国。
エレノア嬢も深く頷く。
「お父様、幻獣様の御意志は明確ですわ。我が国は決して隣国の甘言に乗ることなく、強固な姿勢を示すべきなのです」
「おお、幻獣様のおかげで、我が国は滅亡の危機を免れた! すぐに国王陛下に報告せねば!」
公爵はそう言って、猛烈な勢いで部屋を飛び出していった。私はただ、ヒラヒラする飾りが楽しかっただけである。結果として国境問題がどうなろうと、私の知る由ではない。しかし、夕食の魚のサイズがさらに大きくなったところを見ると、どうやら私の猫パンチは国家の危機を救ったらしい。
夜が訪れると、私はエレノア嬢の私室へと案内される。彼女の寝室こそが、私の定位置である。
エレノア嬢はネグリジェに着替え、ソファで分厚い魔導書を読んでいる。私は彼女の膝の上に飛び乗り、丸くなった。彼女の膝は適度に柔らかく、最高の寝床である。
私が膝の上に乗ると、エレノア嬢は本を読む手を止め、息を殺して私を見つめる。私は居心地の良い場所を作るため、前足を交互に動かし、彼女の太ももをふみふみと揉み始めた。
右、左、右、左。
猫が子猫時代を思い出して行う、あの無意識の行動である。爪は立てないように、肉球の柔らかい部分だけで、リズミカルにふみふみとする。
「ああっ……」
エレノア嬢が恍惚とした吐息を漏らした。
「幻獣様が、私の体に直接魔力を注ぎ込んでくださっている……?」
彼女は両手を胸の前で組み、目を閉じて祈り始めた。私はただ、寝る前のベッドメイキングをしているだけである。ふみふみを終えた私は、彼女の膝の上で完全に脱力し、仰向けになってへそ天の体勢で眠りに落ちた。猫が腹を見せるのは、相手を完全に信頼している証拠である。
「こ、これは……私への絶対的な恩寵の証。わっ、私、一生あなた様を命に代えてもお守りいたします!」
エレノア嬢はそう誓い、私が目を覚ますまでの朝までの一晩中、一睡もすることなく、同じ姿勢で私の寝顔を崇め続けていたらしい。翌朝の彼女の目の下には酷い隈ができていたが、その顔は信じがたいほどの達成感と幸福感に満ちていた。本当にこの国は大丈夫だろうか。
ある日のことである。
公爵家に、南方大陸を旅してきたという高名な植物学者が招かれた。彼は献上品として、珍しい植物の乾燥葉を小袋に入れて持参していた。
「これは南で発見された幻の霊草でございます。現地では、これを焚くことで精霊との対話が可能になると言われており、極めて高い魔力を含有しております」
植物学者が小袋の紐を解く。
その瞬間、私の鼻腔を、強烈かつ魅惑的な香りが突き抜けた。
(な、なんだこの匂いは……!?)
私はソファから飛び降り、植物学者の手元へと一直線に歩み寄った。私の異常な反応に、公爵もエレノア嬢も目を見開く。
「おお、幻獣様が自ら近づいて行かれる!」
「やはり、その霊草は本物なのですね。幻獣様の興味を惹くほどの強大な魔力を秘めているとは」
私は小袋の前に座り込み、その中身をじっと見つめた。
緑色の、細かく砕かれた乾燥葉。そして、この脳髄を直接揺さぶるような、甘く、刺激的な香り。
間違いない。これは、マタタビである。いや、あるいはキャットニップか。
異世界において、どのような名称で呼ばれているかは知らないが、これは間違いなく、猫を狂喜乱舞させる魔法の植物であった。
私はもう、我慢できなかった。幻獣としての振る舞いなどこの瞬間に吹き飛んだ。
私は小袋に顔を突っ込み、その葉を顔全体にこすりつけた。
にゃああああおん!
私は奇声を上げ、床の絨毯の上を転げ回った。背中を絨毯にこすりつけ、クネクネと体をよじり、前足で虚空を掴むように激しく掻きむしる。口からはだらしなく涎が垂れ、目は完全に焦点が合っていない。
ひゃっほおおおい!
私は完全にキマっていた。異世界の高濃度キャットニップの威力は凄まじく、私の理性は彼方へと飛んだ。私は自分の尻尾を追いかけてグルグルと回転し、そのまま勢いよく公爵の靴に頭突きをかました。
「し、幻獣様!?」
公爵が後ずさりする。しかし、植物学者は震える手で眼鏡を押し上げ、叫んだ。
「驚異だ……! 幻獣様は今、霊草の力を媒介にして、神々と交信を行っておられるのだ! あの激しい動きは、星々の運行を表す舞! 口からあふれる聖水は神々からの祝福に違いない!」
私は絨毯の上で大の字になり、後ろ足をピクピクと痙攣させながら、「にゃう、にゃう」と意味不明な寝言のような声を出していた。彼らの目には、私が宇宙の真理を解き明かしているように見えているらしいが、私の中にあるのは、ただ「最高に気持ちいい」という圧倒的な快楽だけであった。
しばらくして、キャットニップの効果が切れ始めた私は、我に返り、床の上で涎まみれになっている己の姿に気づいた。
やってしまった……
前世の日本人としての羞恥心が、一気に押し寄せてくる。いくら猫とはいえ、公衆の面前で麻薬に溺れたような姿を晒すとは。私はゆっくりと立ち上がり、気まずさを誤魔化すように、入念に顔を洗い始めた。
しかし、周囲の反応は私の予想とは全く異なるものであった。
公爵も、エレノア嬢も、植物学者も、騎士たちも、その場にいた全員が、床に膝をつき、私に向かって深く平伏していたのである。
「幻獣様……、我々のような愚かな人間のために、自らの身を削ってまで神々との対話を行っていただき、誠にありがとうございます。貴方様のその尊き自己犠牲の精神、決して無駄にはいたしません」
公爵が涙声でそう宣言する。
「幻獣様がもたらしてくださった世界の真理、私が必ずや魔法陣の構築に活かしてみせますわ」
エレノア嬢も、固い決意に満ちた表情で頷いている。
私はただ、マタタビで酔っ払って転げ回っていただけである。自己犠牲など微塵もない。しかし、彼らがそれで納得し、幸福を感じているのであれば、あえて真実を告げる必要はないだろう。そもそも、私は人間の言葉を話せないのだから、訂正のしようもない。
私は、前足の肉球を見つめた。
ピンク色で、プニプニとしていて、非常に愛らしい。この足では、パソコンのキーボードを打つことも、満員電車で吊り革に掴まることもできない。
しかし、この世界において、私はキーボードを打つ必要も、吊り革に掴まる必要もないのだ。
私がただ眠れば、世界が浄化されたと喜ばれ。
私がただ食事を残せば、精霊への施しだと称賛され。
私がただヒラヒラしたおもちゃで遊べば、魔を討ち払ったと崇められ。
私がただマタタビで酔っ払えば、真理を悟ったと拝まれる。
これ以上の労働環境が、かつて存在しただろうか。いや、ない。断じてない。
私は、前世で失ったすべて以上のものを、この異世界で、一匹の猫として手に入れたのだ。
私はこの誇り高き「幻獣」という職務を、生涯をかけて全うする決意を固めた。
にゃーん
私が短く、しかし威厳を込めて鳴くと、部屋にいた全員が再び深く頭を下げた。
窓から差し込む陽光が、私の純白の毛皮を神々しく照らし出している。本日の午後からの予定は、エレノア嬢の膝の上での、長時間の「豊穣の祈り」と「精神統一」である。
幻獣の仕事は、今日も実に過酷で、そして最高に快適なのであった。




