捨てられた令息を花婿に迎えたら、前妻からの逆恨みで呪いをかけられました
「それでは、再度確認させて頂きます。わたしがあなたを愛する事はない。あなたもわたしを愛する事はない。よろしくて?」
「ああ、構わない。これは『白い結婚』だ」
結婚初夜。
わたし――イリア・カルダーラ伯爵令嬢と、彼――エミリオ・アメティス公爵令息は、寝室のソファに横並びに座って互いに見つめ合う。
その眼差しに男女特有の色っぽい雰囲気は一切ない。傍から見れば冷たさすら帯びているだろう。
白い結婚、すなわち期間限定の契約結婚。互いの利益のためだけに書類を交わす婚姻。
二人の間に、愛はない。
ふと、エミリオの紫色の双眸がふっとほころんだ。つられて、わたしも笑みをこぼす。
「本当に、恩に着るよ。ありがとう、イリア」
「こちらこそ。おかげで、ろくでもない下級貴族の三男をお婿にせずに済んだわ。今夜はパーッと飲みましょう!」
「賛成!」
わたしたちは、戸棚に隠していた果実水(未成年なので)とスコーン等の焼き菓子、グラスをテーブルに並べて乾杯した。
思えば、本当に本当に本っっっっ当~~~~に、しんどい日々だった。
煩わしい婚活地獄とこれでおさらばする事ができる。
わたしたちは今日から晴れて自由の身。
白い結婚、万歳!!
☆
さかのぼる事、三か月前。
わたしはとにかく結婚を急いでいた。
カルダーラ伯爵家の子供は、わたしと妹・モニカの二人きり。
家を守るためには姉妹のどちらかが結婚して後を継ぐか、親類から養子を迎えるかしなければならない。
妹には将来を約束した相手がいるため、必然的にわたしが後継ぎ探しの婚活をする事となる。この国では女性が家督を継ぐ事は認められておらず、夫となる男性に爵位を継いでもらう必要があった。
とはいえ、父はまだ四十代と若く、領地経営も王都で展開している事業も順調だったので、わたし個人としてはあと三年――二十歳までに結婚ができれば良いものと思い込んでいた。
ところが、ある日突然、ろくでもない縁談が舞い込んできた。
相手は、王都で不動産業を営む成り上がりのラゴーナ男爵家。婚期を逃した三十路の三男坊を婿に迎えてほしいと言う。我が家の事業を乗っ取ろうという魂胆が明らかに見え見えだった。
花婿希望の三男坊は、服装の趣味は悪く、脂肪に包まれただらしのない身体には清潔感がまったくない。それでいて女性を値踏みする事だけは一人前で、上から目線で「キミみたいなガサツで気の強い女性は嫌いじゃない。顔も身体つきもまあまあ及第点だしね」などと言われた日には、あまりの気持ち悪さから、お見合いの場でわたしの炎魔法が暴発しかかった。
もちろん、このアホ三男坊とは死んでも結婚したくない。難を逃れている妹なんて、当事者であるわたしよりも怒り、泣いていた。生理的嫌悪感から来る涙らしい。
こいつだけは絶対にイヤだ――家族会議満場一致で出た結論である。
けれど、この縁談を断るのはとても難しかった。
我が家が営む絹織物問屋が、あろうことか件の男爵家から借り受けている土地建物だからである。
三男との結婚ができないのなら、問屋を畳む事を要求された。
わたしたち家族のみならず、王都で働く従業員や領地を支えてくれる民たちが路頭に迷ってしまう。
ひとまず二週間の猶予をもらい、わたしと両親は見合いの席をあとにした。
自宅へ戻る馬車の中で、わたしはアホ三男との結婚を回避する方法を必死に考えた。
そして、思いついた。たった一つだけ。
それはあまりにも現実味がないけれど、やるしかなかった。
賃貸の土地建物を、男爵家から買い上げてくれる経済力を持った大貴族の令息と婚約する事。
男爵家が手を出せないくらいの力を持つ家なら、縁談を断っても父の事業に支障はないはず。
善は急げ。わたしは家に届いていた招待状を広げ、その夜から可能な限りすべての社交に出席した。
「聞きましたよ、イリア嬢。ラゴーナ男爵家のご子息とご婚約されるとか。おめでとうございます」
社交界ではすでに、わたしとアホ三男との縁談が皆様の知るところとなってしまっていた。
どこから情報が回っているのか。おそらくはラゴーナ男爵家の人々が自分たちで吹聴しているのだろう。
そんなわけで、わたしの顔にはすでに「売約済(アホ三男)」の札が貼られた状態になっていて、どの社交場へ足を運んでも誰からも声をかけられる事がなかった。
毎晩、すごすごと帰宅するわたしを、両親とモニカは申しわけなさと悔しさを滲ませた表情で出迎える。こんな顔をさせてしまう事が、こちらこそ心苦しくてつらい。
モニカは、自分ばかりが幸せになる事が許せないと言い出し、お相手に婚約破棄を申し出ようとまでした。これは家族と使用人総動員でどうにか食い止めた。今のわたしたち家族にとって、モニカが幸せを掴む事が最優先事項なのだ。
わたしの結婚が妹の幸せまで左右してしまう。なんとかしないと。
そして、最後の一通の招待状を握りしめて赴いた夜会で、わたしは運命的な再会を果たす事となる。
「ほら、あの方でしょう? シャーロット王女様に愛想をつかされたご令息」
「お可哀相に。せっかくの逆玉でしたのにね」
「どれだけお顔がよろしくてもあちらが役立たずでは……」
「いやですわ、はしたない」
ご令嬢たちの大きな噂話を拾ったわたしは、広間の隅で俯きがちに立っている男性へ視線を向けた。
見覚えのある白銀の髪、女性をもしのぐ儚げな美貌。この距離でははっきりと見えないけれど、彼の瞳の色をわたしは覚えている。
「失礼。アメティス公爵令息でいらっしゃいますでしょうか?」
「……イリア?」
他人行儀な澄ました口調で声をかけると、わたしの顔を見た彼は驚いたように目を見開いた。
夕刻から夜へと移り変わる瞬間の空を思わせる、優しい紫色の瞳。
「久しぶり、エミリオ」
「ああ、七年……八年ぶりかな。会えて嬉しいよ」
「よかったら、ご一緒に夜風に当たりましょう。ここは少し窮屈だわ」
「喜んで」
アメティス公爵家の三男エミリオとは、いわゆる幼馴染みの間柄。
病気がちだった彼が療養のため、数か月の間、我が家で静養していた縁で仲良くなった。
わたしと歳が同じという事もあって、モニカは「お兄様ができた!」と大層懐いていた。両親も自分の子供と同じように接していたので、まるで本当の兄弟のように暮らしていた。
静養を終えたエミリオが公爵家へ戻ってからは、月に一度くらいの頻度で手紙のやり取りをしていた。他愛のない近況をしたためた手紙は、わたしたち姉妹にとってお守りのような大切な存在だった。
文通が途絶えたのは、三年前――わたしが十四歳の時。
第四王女シャーロット殿下との婚約が決まったと報せを受けたのと、同じ時期だった。
国中の貴族が集まる婚礼の儀には、わたしたち家族も招待を受けたけれど、エミリオの晴れ姿を近くで見る事ができたのは家長である父だけで、お祝いを直接伝える事は叶わなかった。
仲の良い兄弟が結婚するのは、こんな気分なのかしらと、心にぽっかりと穴が空いたような心地でエミリオの花婿姿を遠くから見守っていた。
お二人のご成婚からおよそ二年が経ったある日――今年に入ってすぐ、エミリオがシャーロット王女から離縁を言い渡されたという話を伝え聞いた。
表向きの理由は、エミリオがシャーロット王女に対して不遜な振る舞いを続けたせいで、王女が心を病んでしまったためだという。
誰に対しても誠実で優しく、勤勉なエミリオが、国や家の評判を下げるような事をするとは思えないし、彼が女性を傷つけるような行いをするとは考えられない。
不思議に思っていたところへ、さっきの噂話。
つまりは、夜の相性がよろしくなかったため、シャーロット王女がエミリオを見限ったという事らしい。
事実がどうなのか、わたしの知るところではないけれど、エミリオが心を傷つけられているのは一目瞭然。
このまま衆目に晒されるより、人のいない所で風に当たった方が心地よく過ごせる気がした。
わたしだって「アホ三男坊のお手付き」という望まないレッテルを貼られてしまっているので、この場からいなくなったところで誰も気に留めないだろう。
「ええと……、ここに来ているって事は……その」
「お察しの通りだよ。親にどやされてね、婚活しに来てる」
広間の賑やかさから隔絶されたバルコニーで、エミリオは眉尻を下げて笑みを浮かべた。
カルダーラ伯爵家で静養していた頃は、十歳にも満たない幼い男の子で、背丈はわたしの方が少しだけ大きかった。今は、頭一つ分では足りないくらい彼の方がずっと背が高い。
可愛らしかった顔立ちも大人になって、がっしりした肩幅も大人の男性のもの。声も低くなっている。
なんだか、別の人みたい。
「俺は出戻りだから、家に居場所がないんだ。本当は独立して王都に住まいを探すつもりだったんだけど、『平民に紛れて市井で暮らすなど許さん』だってさ」
「まあ、理不尽ね。独り身で王宮に出仕している方もたくさんいらっしゃるのに」
「貴族らしい暮らしでないと恥ずかしいと思う人たちだからね。うちの両親は」
エミリオが軽い調子で言う「うちの両親」とは、王国の四大公爵家の一つ。王族とゆかりの深い由緒正しいお家柄である。
「それより、イリアはどうしてこんな所に?」
「エミリオと同じく婚活よ。まったく進展がないけれどね」
「あまり聞いてはいけない事かもしれないけど、さっき広間で話が聞こえてきたよ。何やら大変みたいだね」
彼の耳にも噂はしっかり届いているらしい。わたしは開き直って胸を張った。
「そうなの。王都の問屋を大家であるラゴーナ男爵から土地ごと買い取るか、アホ……じゃなかった、自由奔放な三男坊と結婚するかしないと、実家が路頭に迷ってしまう上に、モニカの婚約が白紙になってしまうの」
「それで、お金のありそうな令息を探しに来たというわけかい?」
「ま、まあ……身も蓋もない言い方をすると、そうなるわ」
大人になったエミリオは、昔と比べてほんの少し意地悪な気がする。
「ねえ、イリア。俺と結婚しない?」
「え?」
「カルダーラ伯爵家の問屋って、王都中央地区にある絹織物問屋だよね。あの辺の地価は把握しているし、俺の個人事業でラゴーナ男爵家と繋がりがある。うちの実家の名前を出せば、円満に土地建物を買い取らせてもらえると思うよ」
「え? え?」
涼しい顔で淀みなく話すエミリオについて行けず、わたしは平凡な灰色の瞳を白黒させるばかりだった。
「え、あの……エミリオ個人が我が家の問屋を買い取るって事?」
「そう。俺が事前にカルダーラ伯爵家に婿入りする事で、問題なく伯爵家の財産になる」
もちろん、渡りに舟だ。借りを作るなら信頼できる親しい相手であるに越した事はない。気心の知れた幼馴染みなら尚の事。
「でも、本当にいいの? こんな事、簡単に決めていいものじゃないでしょう……?」
おそるおそる尋ねると、広間で見かけた時の覇気のない顔とは別人のように、エミリオは溌溂と微笑む。悪戯を思いついた時の、子供の頃と同じ顔。
「二年間の期限付きでの契約結婚。王都の問屋を買い上げて、ラゴーナ男爵家がカルダーラ伯爵家に手出しできないように根回しをする。男爵が引退してしまえば息子たちは平民の商人だ。こちらの傘下に入れるなり、別の家で雇ってもらうなりすればいい」
「契約結婚……」
夜の生活を伴わない、別名「白い結婚」
期間が満了すれば円満な離婚が成立する。
「我が家にとってはメリットしかないけれど、エミリオは? 何か得があるの?」
「カルダーラ伯爵は人脈が広く信頼も厚い。君の父上と組めば、俺の事業もさらにうまく行く」
父から聞いた話では、エミリオは王都中の織物工房をめぐって修業を積んでいたらしい。上質な絹織物の販路を拡大するために事業を立ち上げたと、父は彼をとても褒めていた。
「他に聞きたい事は?」
「……契約期間が終わって離婚したら、エミリオはバツ2になるけど、それでもいいの?」
「なんだ、そんな事」
エミリオはおかしそうに唇の端を上げて目を細めた。
「バツが一個も二個も変わらないさ。そんな事より、イリアと一緒に暮らせると思うとわくわくする。昔みたいに、領地の屋敷で魚釣りしたり、野鳥のスケッチをしたり、一緒に楽しみたい」
夜の闇に紛れたわたしたちの姿は、広間から見えていないのか、誰もこちらを気に留めない。
エミリオは背筋を伸ばし、優雅な所作で右手を差し出した。
「イリア・カルダーラ伯爵令嬢。私の妻になって頂けますか?」
「……お受けいたします」
☆
それから先は、怒涛の展開だった。
夜会の翌朝にエミリオは城下にある我が家を訪れ、両親に結婚の申し込みをしてきた。
契約結婚である事はわたしたち二人だけの秘密にしたため、家族はわたしとエミリオが劇的な再会を果たし運命の恋に落ちたと解釈したらしい。モニカは興奮のあまり涙と鼻血をいっぺんに流してしまった。
そして、その日のうちにラゴーナ男爵との交渉。エミリオが言った通り、アメティス公爵家の名前を出すまでもなく問屋の土地建物の売買契約は、一瞬で成立した。これは余談だけれど、契約の場にいた三男坊はエミリオの大貴族オーラと美貌に圧倒されたのか、わたしとの縁談は白紙にしたいと申し出たとの事。
無事に伯爵家の事業が守られたところで、モニカの婚約もとんとん拍子に進んだ。
お相手は隣の領地の伯爵家の嫡男で、エミリオとも顔見知りの好青年。
婚約式の日取り、婚礼衣装、結婚式の予定、新婚旅行の行き先についてなど、モニカは忙しなくも幸せそうに走り回っている。
そして、本題であるわたしとエミリオの結婚について。
彼の父であるアメティス公爵は「貴族に婿入りするならどこでもいい」という口ぶりだったけれど、公爵夫人によると「信頼できるお宅に迎え入れてもらえるのがありがたい」と通訳してくれた。公爵家の恥だの何だの言っていた公爵も、心の底では息子の身を案じているようだった。
エミリオが二度目の結婚という事もあって、結婚式は身内だけでひそやかに執り行われた。
この結婚が偽りである事への罪悪感と、初めての花嫁衣裳を着る事の喜び、隣にいるのが兄弟同然の存在であるエミリオという気恥ずかしさ。さまざまな感情がわたしの中で混ざり合って、地に足がついていないような不思議な心地で結婚式は幕を下ろした。
父との共同経営で毎日忙しく働くエミリオに倣って、わたしも積極的に色々な工房を訪れるようになった。男女問わず、幅広い年齢層に愛される織物を作る力になれるよう、貿易の勉強も始めた。
それから、わたしの持つ炎属性の魔力が我が家の絹織物と相性が良いようで、魔力をこめた防火素材の開発も進められる事となった。
月日は瞬く間に流れていく。
二年の契約期間はあまりに短すぎるのではと思えるほど。
妹のモニカもめでたく結婚式を挙げて、相手方の家でたっぷりの愛情を受けて幸せに暮らしている。
気が付けば、エミリオとの白い結婚から一年が経過しようとしていた。
わたしたちは十八歳になり、二人ともお酒が飲める年齢に達した。
果実水で祝杯をあげていた結婚初夜が懐かしい。
「エミリオ、今日も一日お疲れ様」
「ありがとう。イリアも一日お疲れ様」
赤ワインのグラスで乾杯し、口をつけた。
「東地区のレオンさんの工房、あそこの製品が王室御用達の仕立て屋さんで卸して頂ける事になったの」
「それはすごい。王女たちが着てくれたら、いい宣伝になる」
王女、という言葉を聞いて、わたしはふと彼の前の奥様を思い浮かべてしまった。
エミリオとの離婚後は、王都郊外にある離宮でひっそりと過ごされていると噂で聞いた。
「シャーロット王女様も……きっとお召しになるのでしょうね」
「彼女が気に入ったらね」
エミリオがグラスを置くのを目で追いかける。
「聞いてもいい?」
「ん? 何だい?」
「エミリオは……シャーロット王女様を、愛していたの?」
二人の結婚は、互いの両親が決めた政略結婚。
でも、本人同士に愛がないとは言いきれない。
知ってどうするつもりもないけれど、好奇心を止められずに尋ねてしまった。
「いや、まったく」
「まったく……? これっぽっちも?」
「彼女は婚約前から騎士団長と関係を持っていたからね。俺なんて眼中になかったんだ」
今、さらっと物凄い不貞爆弾を受け取ってしまった気がする。
シャーロット王女は現在十六歳で、騎士団長は三十半ばのはず。婚約前からという事は……考えないようにしよう。
「えっ、それじゃあ、エミリオが役立たずとか、あの失礼な噂はデマって事?」
「そういう事になるね」
エミリオは手酌でワインをグラスにとぷとぷと注ぐと、香りを楽しみながら上品に口をつけた。
「政略とはいえ、恋人以外の男の妻でいる事が耐えられなかったんだ。彼女は自由奔放だけど一途な女性だから」
エミリオの言う事は一理あるけれど、一方的に離縁した上に嘘の噂を振りまいて彼の名誉を傷つけた事については謝罪するべきじゃないのかしら。
「イリア。どうして、今になって王女の事を訊くの?」
「それは……好奇心で、なんとなく」
「それだけ?」
ソファに並んで座るエミリオはローテーブルにグラスを置いて、少しずつ距離を詰めてくる。
「な、なに……?」
「俺と王女がどんな夫婦生活を送っていたのか、気になったって事だろ?」
「え、ええ。後学のために……ほら、あと一年経てばわたしたちも離婚するでしょ? だから、次の旦那様と暮らす時のための予習というか……あの」
まずい。どんどんドツボに嵌ってしまっている気がする。自分で喋っている事が支離滅裂で軌道修正のしようがない。
「ふーん。イリアは今、夫である俺と寝室にいるのに、次の男の事を考えてるんだ?」
「そういうわけじゃ……っていうか、わたしたちは契約結婚でしょう? 子供の頃みたいに楽しく過ごして、夜はこうして晩酌できればそれで……」
慌てふためくわたしの手から、エミリオがひょいっとグラスを取り上げてテーブルへ置いた。
空いたわたしの手を、エミリオは指を絡めるように握ってくる。
「ちょっ……!?」
「最初の夜、俺たちは互いを愛する事はないって誓ったよね?」
「そうよ……これは『白い結婚』だって」
「ごめん。あれは嘘」
「嘘って、どういう……?」
繋がれた手から、エミリオの温もりが伝わってくる。
「ああ言わないと、イリアは結婚を受け入れてくれないと思ったから」
「話が見えないわ……」
「イリア。俺は君の事が好きだ。子供の頃からずっと」
見れば、エミリオの白磁のような頬はほんのりと薄紅色に染まっている。
「エ、エミリオ。あなた酔っているのよ。今夜はもうお開きにしましょう!」
「俺を酔わせているのはワインじゃなくて君だよ、イリア」
優しく儚げな夕暮れ時の空を思わせる紫色の瞳が、この時は激しい炎を宿したように見えた。
「偽りの契約結婚でもいいから、君と一緒にいたかった」
「そんなこと、急に言われても……」
落ち着くのよ、イリア。
彼は酔った勢いで心にもない事を口にしているだけ。
真に受けてはいけない。
熱っぽい眼差しも、甘えるような色香を含んだ声音も、全部お酒のせい。
わたしたちの関係はあくまで契約上の夫婦。
お互いの立場と家を守るための、偽りの結婚なのだから。
「どうしたら伝わるのかな?」
エミリオは困ったような微笑みを浮かべながら、繋いだわたしの手を引き寄せる。
そして、その手はそのまま、エミリオの唇へ……。
――バサッ。
エミリオの唇がわたしの手の甲に触れた時だった。
すぐ近く、わたしの耳元で、枯草が落ちるような異音が響いた。
「え……?」
「イリア……、それは一体……?」
エミリオの視線を辿って、わたしは自分の耳の横に触れてみた。
すると、焼けた炭が崩れるような異様な感触があった。
ソファの上には、栗色の毛が一房ほど散らばっている。馬の尻尾みたいに。
咄嗟に立ち上がり、鏡台へ駆け寄ると、左耳の横の髪の毛が一房なくなっていた。
まるで、雑草を乱暴にむしり取ったかのような痕。
わたしとエミリオは互いに顔を見合わせるけれど、何がどうなっているのか理解が追いつかない。
先ほどまでの甘い雰囲気は一気にかき消され、それぞれ別の寝室でベッドに入った。
☆
なくなった髪の毛は翌朝になっても千切れた状態のままだった。夢じゃないのだと思い知らされて朝から身震いした。
いつも身の周りの世話をしてくれる使用人だけには「夜中にこっそり読書をして蝋燭の火で髪が燃えてしまった」と嘘の事情を伝え、ヘアアレンジと髪飾りでうまくごまかしてもらった。
私の両親は現在、仕事の関係で領地の屋敷に戻っている。余計な心配をかけずに済んだのが不幸中の幸いだった。
「心当たりがあるんだ」
朝食の場でエミリオが切り出した。
「この後、時間をもらえるかな? 付き合ってほしい場所がある」
エミリオの指示で使用人がわたしのために用意した服は、歌劇を鑑賞するために劇場へ赴くような、華やかさと機能性を兼ね備えた外出着だった。
クセのある長い髪は細かく編み込まれ、きっちりと纏められて清潔感のあるスタイルに仕上がった。左耳の上に小花の意匠の髪飾りを添えて。
首の詰まったブラウスとタイトな上着は少し窮屈だけれど、気を引き締める必要のある行き先なのだろう。
玄関ホールで落ち合ったエミリオの服装は、わたしのものと似た色合いの、かっちりとしたスーツだった。普段は無造作に下ろしている前髪をサイドへ流し、商談をする時のように知的な雰囲気を漂わせている。
(もしかして、エミリオのご実家へ向かうのかしら?)
エミリオの父であるアメティス公爵は魔法医学の権威で、これまでも多くの人々の命を救っている。
わたしの身に起きた異変について、ご助言を頂けたらとてもありがたい。
……と思っていたら、わたしたちを乗せた馬車は思わぬ場所へ向かった。
「ここって……?」
「白百合の離宮だよ」
美しい花園に囲まれた石造りの小さなお城。
まるでおとぎ話のお姫様が住まうような、可愛らしい建物。
ここは、エミリオの前妻であるシャーロット王女の居城。
「エミリオ。わたしがお伺いしても大丈夫なのかしら……?」
契約結婚とはいえ、後妻が前妻の家に乗り込むなんて、修羅場の予感しかしない。
先に馬車を降りたエミリオは、こちらへ手を差し伸べてわたしの顔を見た。
「今朝のうちに約束は取り付けてある。おいで、イリア」
エミリオの優しくも力強い眼差しに、わたしは意を決してその手を取った。
乳白色を基調とした可愛らしい調度品でまとめられた客間へ通され、待機する事十五分ほど。
緊張のあまり、侍女の方が淹れてくれた紅茶に口を付けられないまま時間が過ぎていく。
隣に座るエミリオは、平然とした様子でお茶菓子を口にしていた。この豪胆さをわたしも見習いたい。
「シャーロット王女のおなりでございます」
扉が開かれ、その女性は一歩、また一歩と、優美な足取りでこちらへ向かってきた。
まるで精巧なお人形のように可憐な顔立ち。上質な生地に素晴らしい仕立てのドレス。
ほっそりとした長い首、高い位置にある細腰、触れたら折れてしまいそうなほどにたおやかな腕。
蜂蜜を思わせる濃い金色の髪はゆったりと波を打っている。
わたしとエミリオは立ち上がり、王女に近づきすぎない距離をとって進み出た。そして膝を折る。
「ごきげんよう、エミリオ様。おひさしゅうございますね」
「シャーロット王女殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
王女の明るい青色の瞳がわたしへと向けられた。
「イリア・カルダーラ伯爵令嬢ですわね。はじめまして」
「お初にお目にかかります、王女殿下。このたびは貴重なお時間を頂戴し、至極光栄に存じます」
膝を折って頭を垂れるわたしの耳に、コツリコツリと足音が近づくのが聞こえてきた。
人の気配を感じて顔を上げると、天使とも妖精とも形容できる愛らしい微笑みを浮かべたシャーロット王女の顔が目の前にあった。
目が合った瞬間、王女の唇の端が高く吊り上がった。
たおやかで小さな白い手が、わたしの左耳の上にある小花をかたどった髪飾りをむしり取った。
「きゃ……っ!」
「イリア!」
エミリオがわたしと王女の間に入り、わたしを自分の背中に庇った。
左耳の上に指を這わせると、中途半端な長さで切れている古い箒のような感触があった。
「あらまあ、不格好ですこと」
シャーロット王女は可愛らしい声でクスクスと笑った。
「いっその事、すべて抜け落ちてしまった方が綺麗なのではなくて?」
「え……?」
茫然と立ちつくすわたしの代わりに、エミリオが口を開いた。
「シャーロット。彼女に何をした?」
「イリア嬢には何もしておりませんことよ」
含むような言い方に、エミリオが眉をひそめる。
「……俺に呪いをかけたのか?」
「さすがエミリオ様。勘が鋭いですわね」
シャーロット王女はつぶらな瞳をすっと細めた。
「本当に憎々しいこと」
彼女の双眸は春の陽だまりのように暖かな色をしているのに、底知れない暗さと冷たさを感じた。
「エミリオ様と離縁する際に、ある呪いを施しましたの」
「それは、どのような……?」
わたしを庇ってくれていたエミリオの隣に進み出て、王女に問いかける。
「エミリオ様がキスをした相手の、左半分の髪の毛がゴッソリと抜け落ちる呪いですわ」
「「………………は?」」
わたしとエミリオの声が重なった。
シャーロット王女は小首をかしげてクスクスと笑っている。
「イリア嬢の髪がその程度で済んでいるのは、唇ではない場所にキスをなさったからですわね。毛根も生きていますから、放っておけば普通に伸びて元通りになりますわよ」
ただし、とシャーロット王女が続ける。
「唇を重ねたら最後、イリア嬢の左半分の毛根が死滅しますわ」
「な、なんですって……!?」
「冗談じゃない!」
わたしとエミリオは同時に声をあげた。本当に冗談じゃない。話を聞いただけで背筋がに悪寒が走る。
エミリオも同様に嫌悪感を覚えたのか、血の気の引いた眼差しでシャーロット王女を睨みつけた。
「俺のせいでイリアが……半分ハゲるなんて、耐えられるものか。そんなに俺が憎いのなら、俺をハ……ハゲにすればいいだろう!」
どうしよう。とてもつもなく深刻な状況のはずなのに、「半分ハゲ」という単語のせいでまったく締まらない。
「シャーロット。君はなぜこんなくだらない呪いを……?」
わたしは気を抜いたら笑ってしまいそうなのに、真剣な表情を保っていられるエミリオはすごい。
「この先一生、あなたが誰も愛することのないように。孤独という名の檻に閉じ込めるためよ」
「なぜ? 君が俺に執着する理由が分からない」
二人の婚姻は、親同士の決めた政略結婚だった。互いに恋愛感情はなかったというし、それにシャーロット王女は心を決めた相手がいるはず。
「エミリオ様って可愛げがないんですもの。離縁した時もそう。みっともなく床に這いつくばって『捨てないでくれ』って懇願してくれたらよかったのに。さっさと書類にサインをしてご実家に帰ってしまったでしょう?」
シャーロット王女は拗ねたように口を尖らせる。
「気に入らないの」
愛くるしい仕草から一変、シャーロット王女は声音を低めた。
「わたくしに泣いて縋る姿が見たくて離縁を言い渡したのに、ちっとも面白くないわ。だから、あなたの去り際に呪いをかけたの。もう誰の事も愛せなくなるように」
無邪気で可愛らしい声が客間に冷たく響く。
王国と民に危険が及ぶ恐れがあるため、呪いを使う事は何十年も前から法律で禁じられている。
でも、シャーロット王女が騎士団長と通じているのなら黙認されている可能性が高く、彼女を罪に問う事は難しいだろう。
「呪いを解く方法は? 君を殺す事以外で」
「まあ怖い。その気になればわたくしを手にかける心づもりかしら? 反逆罪で投獄されますわよ」
「俺は構わないが、イリアが悲しむ。解呪方法を教えてくれ」
「教える気はありませんわ。今すぐここから立ち去るか、わたくしを殺すか。お好きな方をどうぞ」
「……っ」
エミリオの持つ風属性の魔力が波を打つのを感じた。
わたしは咄嗟にエミリオの腕を掴んで引き寄せた。
「帰りましょう、エミリオ」
「イリア。なぜ……!?」
「シャーロット王女殿下。お騒がせして申し訳ございません。わたしたちは家同士が決めた政略結婚ですので、愛情はこれっぽっちも持ち合わせていないのです。世継ぎは妹夫婦にまかせていますし、つかず離れずの関係で暮らしていく予定なんです!」
わたしは思わず早口でまくしたてていた。
エミリオが魔法で人を傷つける事はないと信じたいけれど、頭に血が昇ればどうなるか分からない。
それに、嘘は言っていないはず。
カルダーラ伯爵家の後継は将来的にモニカ夫婦に託す事になっているし、わたしたちはあと一年で円満離婚する予定なのだ。
恋愛感情だって一切ない。少なくとも、わたしの方は。
「愛がないというのなら、どうしてイリア嬢の髪の一部が切れてしまったのかしら? キスはしたのでしょう?」
「うっ、そ、それは……っ、手の甲にちょこっとだけで……」
「おかしいですわね。エミリオ様の一方通行な恋愛感情なら、呪いは発動しないはずですわよ?」
「「………………え?」」
ふたたび、わたしとエミリオの声が綺麗に重なった。
シャーロット王女は白百合のように美しい手を頬に当て、不思議そうに小首をかしげる。
「さすがにわたくしもそこまで雑な呪いはかけませんわ。手の甲にキスをした程度で髪がどうにかなってしまったら、社交界のご婦人がみんな髪の毛をむしり取られた無様なスタイルになってしまいますもの」
「という事は……?」
シャーロット王女とエミリオがそろってわたしを見る。
「え? あの……?」
「イリア嬢。あなた、自分の心ときちんと向き合っていますこと?」
「はい?」
なんだか風向きが変わってきたような……?
「ちょっとそこにお座りになって」
「ええ……?」
シャーロット王女に腕を引かれて、一番近くにあるソファに座らされた。
エミリオはその場に立ったまま、王女の挙動を監視している。
「あなた、恋愛経験は?」
「まったく……」
「一度も!? ゼロですの? 嫌ですわ、そんなカラッカラに乾涸びた人生」
心の底から気の毒そうな眼差しを向けられ、わたしは何も言葉が出ない。
いつの間にか、テーブルの上のお茶菓子は新しいものに取り換えられていた。淹れたての紅茶から湯気がほわほわと立ち昇っている。
「よろしくて? わたくしたち王侯貴族は、国のため家のために婚姻を結ぶのが責務ですわ。だからといって、恋心まで失う必要はありませんのよ」
「はあ……」
「不貞を働くお姫様に言われたくないね」
「お黙りなさい!」
横から口を挟むエミリオに、シャーロット王女は怒鳴り返した。
「わたくしの、一生に一度の恋は……もう終わりましたのよ」
「終わった? その……団長と?」
声をひそめるエミリオに、シャーロット王女はうなずいた。
「彼の縁談が決まりましたの。貴族ではありませんが、大商家のご令嬢がお相手ですわ。わたくしたちを引き離すために、両親がもちかけたそうですわ」
国王陛下と皇后陛下の意向なら、よほどの事がない限り異を唱えるのはきわめて難しい。
「それから、わたくしも。隣国の国王の後妻として嫁ぐ事が決まりましたの。二か月後には出国いたしますわ」
「そんな、急な……」
わたしは思わず声をあげた。
「わたくしの身勝手でアメティス公爵家の不興を買ってしまったのが、宮廷の勢力争いに影響を及ぼしているようですわ。両親は膿を取り除く判断を下したまでですわ」
「シャーロット。君の事情は分かった。気の毒だとは思う。でも、呪いはこの場で解いてもらいたい。この国から出て行くのなら尚更だ」
「……イヤですわ」
シャーロット王女は、薄紅色の可憐な唇をきゅっと引き結んでエミリオから視線を逸らした。
「今の話を聞いていると、君はイリアの恋を応援しているように見える。そこまで心を寄せた相手が、自分のせいで見苦しい半分……ハゲになってしまってもいいと?」
やっぱり、どれだけ深刻な空気でも「半分ハゲ」の一言で台無しになってしまう。締まらない。
「別に応援しているわけではなくてよ。イリア嬢があまりにも鈍感だから苛立ってしまっただけですわ」
「え、わたし?」
何かシャーロット王女の気に障る事をしてしまったのかしら。
「あなたのその髪。エミリオ様が手の甲にキスをした時、あなたもエミリオ様に恋心を抱いていたから、呪いが発動して髪の毛が落ちたのですわ」
「恋……? わたしが、エミリオに……?」
そんなまさか、と言いたかったのに、言葉にならない。
それどころか頬が急速に熱くなってきた。
昨夜のやり取りが一気によみがえる。
エミリオの熱を持った眼差し、甘い声、握られた手、触れた唇のやわらかさ。
「ひえ……」
わたしは思わず両手で頬を包み込んでうつむいた。
「シャーロット。俺とイリアの体内には君の魔力が残っている。鑑定にかければ、君の悪事は国王陛下のお耳に届くだろう」
キスをしたら左半分がハゲる呪いなんて、できる事なら国王陛下のお耳に入れたくない。あまりにもキツい。
「そのような脅しに屈するとでも?」
「聞き入れてもらえないのなら、俺が今この場で君に同じ呪いをかけるけど。どうする?」
「なんですって……?」
エミリオは紫色の双眸を眇め、シャーロット王女に冷徹な視線を向けた。
「今かけられている呪いは、不意をつかれたせいでかかってしまったけれど、俺たちが正面からやり合ったらどうなるか……そこそこ賢い君なら判るだろう?」
――その気になれば本当に呪えるし、殺せるんだよ。
エミリオの視線がそう言っているように見えて、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「どんな形であれ、誰であれ、イリアを傷つけるやつは俺が許さない。隣国でも地の果てでも追いかけて、必ず呪いを解かせる」
「……っ、わかりましたわ」
シャーロット王女は立ち上がり、エミリオに歩み寄った。
彼の肩に手をかざすと、白金色の光の粒が水泡のようにあふれ出した。
解呪はほんの一瞬で終わった。
無数の光の粒が消え、シャーロット王女は小さく息を吐いた。
「解けましたわよ」
「体感だと何も変わらないものだな」
エミリオは自分の腕や衣服を凝視するけれど、外から見ても変わった様子はなかった。
「疑うのでしたら、この場で試してみたらいかが?」
シャーロット王女は悪戯っぽく碧眼を細めて微笑んだ。
「試すって……あの」
反射的に想像してしまったわたしは、また頬が赤くなった。
「それは家へ戻ってからの楽しみに取っておくよ」
エミリオはこちらへ歩み寄り、わたしの手を取って立ち上がらせた。
「シャーロット。君には色々と引っ掻き回されたけれど、感謝している」
「あら」
エミリオはわたしの腰に手を回し、優しく引き寄せた。
「君が呪いをかけてくれなかったら、俺の愛する鈍感な人は一生、俺の事が好きだって自覚してくれなかっただろうからね」
「それもそうね。お礼は弾んで下さっても良くてよ」
「君が隣国へ行ったら結婚祝いでも贈るさ」
エミリオとシャーロット王女。
これが、元夫婦の最後の会話だった。
その後、シャーロット王女は隣国へ嫁ぎ、側妃という立場ではあるものの国王から大切にされていると人づてに聞いた。
シャーロット王女の恋人だった騎士団長は、国王陛下の決めたお相手と結婚し、幸せに暮らしている。
そして、わたしたちはというと、契約結婚の期間が満了する前に契約そのものを破棄した。
愛のない契約結婚から、愛にあふれた恋愛結婚へ。
破天荒でわがままな王女様にかけられた呪いは綺麗さっぱり解けて、毎日、朝も夜も愛する夫のキスに融かされている。
ふわりと波打つ栗色の髪の毛を優しく撫でられながら。
おわり
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