決戦前夜
海軍省にも上海で戦闘機隊が全滅した報が届いた。
山本五十六の招集を受けた堀越二郎をはじめとする新型機開発陣は、ただ顔を見合わせることしかできなかった。
誰もがわかっていた。
いま自分たちに求められているものが何かを。
そして同時に、それがいかに不可能な要求であるかを。
何ひとつ、完成していない。
試作機すら影も形もなく、設計図すら完成していない。
計算途中の線と、机上に散らばる図面と、将来こうなるはずだという希望だけがある。
しかし空の上では、そんな希望など待ってはくれない。
日本海軍の戦闘機隊が上海で全滅した。
現時点で、彼らにできることは何もなかった。
沈黙の重さに耐えかねるように、堀越二郎が口を開いた。
「ゼロ戦」という暗号名を与えられて以来、胸の奥に引っかかっていた疑問だった。
「未来の世界から人間は来ていないのですか」
部屋の空気がわずかに動いた。
山本五十六は即答しなかった。彼自身にも、確たることはわかっていないのだろう。
やがて彼は、断言を避けるような口調で言った。
「過去へ送れる大きさには限界があるらしい、一斗缶ほどが上限みたいだ」
「これまでに四十八個送られてきた」
「どれも同じ一斗缶ほどの大きさの金属容器で、重さも十二キロを超えたものはない」
堀越は、やはりそうかと思った。
そして、そうであってほしくないとも思った。
「それでは……未来から技術者が来る可能性も、工作機械やエンジンのような大きな物が届く可能性も、ないのですか」
問いに込められたのは、確認というより願望だった。
だが山本は、その最後の望みすら切り捨てるように言った。
「できるなら、とっくにやっているだろう」
投げやりな響きがあった。
予想外の早期開戦によって、最も計算を狂わされた一人が山本五十六である。
未来の知識がある。将来どんな兵器が必要になるかも知っている。
にもかかわらず、その兵器は何一つ完成していない。
零戦
九七式艦上攻撃機
九九式艦上爆撃機
一式陸上攻撃機
本来なら、自分が関わるはずだったそれら海軍航空戦力が、真珠湾攻撃の日にアメリカ艦隊を叩き潰すはずだった。
『未来からの贈り物』には、そう書かれている。
だが、目の前にあるのは本だけだ。
文字と写真だけだ。
未来で輝かしい戦果を挙げるはずの新鋭機群も、この時代にはまだ存在しない。
紙の上にしかない勝利。
絵に描いた餅。
その現実が、山本にはたまらなく腹立たしかった。
将来、自分が主導するはずだった空母四隻による大規模航空攻撃も、いま始まってしまった戦争には到底間に合わない。
知っている未来に、現実が追いついていない。
それどころか、未来のほうが、戦争のほうに置き去りにされている。
一方その頃、敗残兵として佐世保へ送り返された生田中尉と坂井三等航空兵曹は、どん底まで落ち込んでいた。
空母加賀に戻った二人の顔には、生還の安堵よりも、無能の落胤を押された敗残兵の影が重かった。
そんな二人を見た大西大佐は、なじみの料亭へ二人を連れ出した。
座敷に通され、酒と料理が並べられる。
場違いなほど上等な膳だった。
大西は杯を置くと、優しい声で言った。
「汚名返上の機会は必ずある」
「今は決戦に備え、英気を養え」
それは叱責ではなかった。
命令でもない。
未来の英雄に向けられた、奇妙なまでに確信に満ちた励ましだった。
とりわけ坂井三郎は、見るからに沈んでいた。
まだ十五歳の少年である。
未来では大空のサムライと呼ばれる男も、この時点では撃墜され、殺される恐怖を思い知らされた少年にすぎなかった。
そんな坂井を見た大西大佐は、料亭の女将に耳打ちし、金を握らせた。
やがて座敷に、上等な女が呼ばれた。
その夜を境に、坂井三郎は奇妙な形で自信を取り戻した。
夜戦で戦果を上げた少年は男になった。
佐世保に帰港していた加賀には、失われた九機の戦闘機の補充として、二機の最新鋭機が届けられた。
零戦は、まだ影もない。
戦争が始まってから前倒しで制式採用された「九〇式艦上戦闘機」
まだ量産は始まっておらず、加賀に届けられた二機は海軍に納入されたばかりの改良試作機だった。
未来の零戦から見れば二世代も古い戦闘機にすぎないが、
現時点において、それは紛れもなく海軍戦闘機の中で最高性能を誇る最新鋭だった。
二人の搭乗員に、ほとんど信仰に近い期待を抱いている大西大佐は、ためらいなくその新鋭機を与えた。
生田も坂井も、その厚遇の意味をわかっていた。
敗残兵である自分たちに、もう一度だけ戦うチャンスをくれた。
二人は感謝した。
感謝すると同時に、その期待に応えなければならないという熱に駆られた。
新型機の操縦桿を握った時、二人の胸には再び火が灯った。
それは自信かもしれず、焦燥かもしれず、あるいは汚名を返上したい執念だったのかもしれない。
だが少なくとも、愛国心の名を借りた強い衝動が、ふたたび彼らを空へ向かわせようとしていた。
その頃、太平洋へ進出していた日本の潜水艦から、一本の無電がもたらされた。
「アメリカ艦隊、真珠湾出港」
いよいよ来る。
太平洋のどこかで、日米艦隊の決戦が始まる。
だが、日本側に残された手札はあまりにも貧弱だった。
即応可能な空母は赤城、加賀、鳳翔の三隻だけ。龍驤はまだ艤装中で、戦列に加われる状態ではない。
航空兵力も足りない。
兵器も足りない。
時間はもっと足りない。
決戦となれば、旧式の一三式艦上攻撃機で雷撃するしかなかった。
そんなもので何ができるのか、と誰もが思った。
だが、思ったところで他にない。
間に合わなくても、やるしかないのだ。
アメリカは、太平洋にいる十二隻の戦艦を総動員してくるだろう。
第一戦艦戦隊
テネシー
カルフォルニア
メリーランド
第二戦艦戦隊
コロラド
ウエストバージニア
オクラホマ
第三戦艦戦隊
ニューメキシコ
ミシシッピー
アイダホ
第四戦艦戦隊
ペンシルバニア
アリゾナ
ネバダ
中でも恐るべきは、ビッグセブンに数えられる十六インチ砲戦艦、メリーランド、コロラド、ウェストバージニアの三隻だった。
日本海軍内部で、条約批准派も、条約反対派も、この時ばかりは同じ思いを抱いた。
対米六割に制限された軍備が、どれほど重い意味を持つか。
悔やんでも、いまさらどうにもならない。
比叡も本来なら戦列に加えたかった。
だが、あの損傷では無理だった。
日米戦艦数は九対十二。
その不利を呑み込んだうえで、勝つしかない。
突発的な開戦だったが、だからこそ、この海戦は連合艦隊の総力を挙げた決戦となった。
第一艦隊、第二艦隊、第三艦隊を合わせた連合艦隊は、長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城、金剛、榛名、霧島の九隻の戦艦を中核に、赤城、加賀、鳳翔の三隻の空母、さらに巡洋艦、駆逐艦、潜水艦まで、動かせるものを総動員した。
それは建国以来、大日本帝国が一度も海上へ送り出したことのない規模の艦隊だった。
連合艦隊司令長官、小林躋造大将は、旗艦長門の艦上に立っていた。
冬の海風が軍服の裾をはためかせる。
その背後、艦橋には墨痕も鮮やかな横断幕が掲げられていた。
『先手必勝』
小林大将は、将兵たちを前にして声を張り上げた。
「元帥閣下が不当な戦死を強いられたのは、敵に先手を譲ったからである!」
「我らは敵を待つのではない! 先手必勝をもって、これを打ち砕く!」
その演説を聞きながら、山本五十六は頭を抱えたくなっていた。
本土沿岸部まで敵を引きつけ、陸軍航空隊と協同し、さらに要塞砲まで使って迎え撃つ。
彼が考えていたのは、そうした現実的な迎撃構想だった。
だが、その案は退けられた。
小林の頭の中には、ひたすら「先手必勝」の艦隊決戦しかない。
自分が連合艦隊司令長官なら、こんな戦い方は選ばない。
そう思っても、いまの山本にできることは何もない。
彼はただ、悔しさを押し殺しながら、出撃していく連合艦隊を見送るしかなかった。
その頃、太平洋の向こう側では、アメリカ軍もまた決戦へ向けて動いていた。
司令官に着任したばかりのルーク・マクナミー提督は、血気盛んに将兵の士気を鼓舞していた。
その背を押していたのは、単なる愛国心だけではない。
フーバー大統領とスティムソン国務長官は、プラット大将が対立候補支持に回り、時間稼ぎを図っていることを見抜いていた。
そこで二人は、マクナミーの野心を直接煽ることにしたのである。
決戦に勝利した暁には、アメリカ海軍史上ただ一人しか与えられなかった称号「Admiral of the Navy」すなわち海軍大元帥を授ける。
それは破格中の破格だった。
しかもスティムソンは、ただ言葉で約束しただけではない。
新たに意匠を起こした「海軍大元帥肩章」の図案まで送りつけてきたのである。
アメリカ史上唯一の海軍大元帥ジョージ・デューイが四つ星だったのに対し、その図案には六つ星が描かれていた。
ここまで露骨な褒美をぶら下げられて、心を動かされぬ軍人がどれほどいるだろうか。
一方で、海軍作戦部長からは、できるだけ決戦海域への到着を遅らせるよう内示が出ていた。
だが、それはあくまで非公式の話である。
公式命令書には、決戦を急げと明記されていた。
どちらに従うべきか。
海軍提督としての建前は明白だった。
守るべきは、裏でこっそり囁かれた話ではなく、正式に発せられた命令である。
勝てば、建国以来のアメリカ海軍最高位に就く。
それが確約されている。
ルーク・マクナミー提督が決戦に前のめりになるのは、ある意味で当然だった。
かくして、日米双方が積極的に太平洋へ艦隊を送り出した結果、想定していたより早く、太平洋の決戦が生起しようとしていた。




