開戦前夜
数日後、比叡は日本へ帰り着いた。
それは奇跡と言ってよかった。
十四発もの命中弾を受けながら、沈まずに帰ってきたのは、喫水線下に損傷が無かったからだ。
もう少しで比叡は南海の海底に沈み、ウラン鉱石もろとも歴史から消える所だった。
判明した戦死者は、三百四十九名。
千人を超える乗員のうち三割が死亡したことになる。
その中には、東郷平八郎元帥をはじめ、艦橋に詰めていた幹部将校たちも含まれていた。
損害は、数字で数えれば済むものではなかった。
敵艦に向いていた右舷副砲は四門すべてが二十センチ砲の直撃を受け、砲架ごと潰され、鉄片と肉片の山になっていた。
あまりの惨状に、そこにいた将兵の遺体はまともに判別すらできず、点呼の結果、生存者七名が確認されただけだった。
点呼に返事が出来た七名の生存者も無傷ではなかった。
第二砲塔もまた凄惨だった。
本来であれば、艦で最も堅固であるはずの正面装甲を、至近距離から撃ち抜かれていたのである。
砲塔内の要員は全員戦死。弾薬庫が誘爆しなかったのは運がよかったとしか言いようがなかった。
後部マストと第二煙突は基部を叩き壊され、航海の途中で耐えきれず折れ、海へ落ちた。
機関部も無事では済まなかった。ボイラー二基が大破し、高温の蒸気と鋼材の破片が機関員たちを襲い、多数の死傷者を出していた。
帰還した比叡の姿は、まさしく満身創痍だった。
もはや威容ある戦艦の姿ではなかった。
十四発被弾の傷跡は隠しようがなかったのである。
しかも比叡は、ただの戦艦ではない。
天皇の御召艦であり、その上に東郷元帥を乗せていた。
日露戦争の勝利を象徴するその名は、海軍内部だけのものではない。東郷元帥とは大日本帝国の誇りだった。
その東郷元帥が、アメリカ海軍の不当な砲撃によって殺された。
怒りは海軍を超え、官界を超え、新聞を通じて、噂を通じて、市井の庶民にまで燃え広がった。
港湾労働者も、商店主も、学生も、退役軍人も、怒りに震え上がった。
比叡の帰還から二週間後、東郷元帥の葬儀が営まれた。
戦死した水兵は水葬され海へ帰ったが、東郷元帥の遺体だけは丁重に持ち帰られた。
それでも遺体は激しく損壊し、腐敗も進んでいた。
とても公に人目へさらせる状態ではなく、火葬ののち、遺骨となってからの葬儀とするほかなかった。
最大の目的であったウラン鉱石の入手には成功した。
だが、その代償として失ったものは、あまりにも大きかった。
比叡乗員の扱いも難題だった。
彼らを露骨に監禁するわけにはいかない。
かといって、自由に外へ出して語らせるわけにもいかなかった。
アフリカを訪問した目的、積荷の正体、戦闘の経緯、どれもが国家機密の塊である。
結局、彼らは東郷元帥の喪に服すという名目のもと、海軍施設内に留め置かれた。
表向きは服喪、実態は隔離に近かった。
そして、葬儀の日。
比叡の砲術長が、自室で切腹しているのが発見された。
傍らには遺書があった。
『元帥閣下をお守りできず申し訳ありません』
『自分が先に発砲していれば、元帥閣下はご無事でした』
『すべては砲術長である自分の責任です』
海軍上層部は即座に対応した。
悪いのはアメリカであり、艦長にも砲術長にも責任はない。
そう公式に表明したのである。
さらに、砲術長を名誉の戦死者として扱い、特進をもって遇すると発表した。
その報は、火に油を注いだ。
東郷元帥に続き、責任を負って腹を切った砲術長。
国民がそこに見たのは、一人の将校の死ではない。
帝国海軍が無法な敵に踏みにじられた末に流した、二度目の血だった。
大日本帝国は、反米の怒りに沸き返った。
一方、轟沈したヒューストンにも、生存者はいた。
轟沈する船から待避した将兵の一部が、追いかけてきたアメリカ海軍の駆逐艦に拾い上げられていたのである。
彼らの証言を聞かされたアジア艦隊司令長官、モンゴメリー・M・テイラー大将は、報告書を手にしたまま頭を抱えた。
先に発砲したのはアメリカ側。
しかも、何の法的正当性もない臨検を公海上で強行しようとしていた。
どう取り繕っても筋が通らない。
高級将校に話を聞くと、フレッチャー中佐は着任早々に気の狂った話をしていた。
日本にアメリカが滅ぼされる。
今が止める唯一のチャンスだと妄想を語っていた。
ヒューストンの艦長は気の狂った妄想を信じて虚偽の訓練計画を提出して日本の戦艦を攻撃に行った。
何一つ、正当性を証明できる証言が無いどころか、完璧にアメリカ海軍に非がある証拠しか出てこなかった。
狂人が軍に無断で重巡洋艦を動かし、外国の戦艦を砲撃して元帥を殺した。
そんな話が、国際社会で通るはずがない。国内ですら擁護出来ない。
その責任を押しつけるように、ワシントンはテイラー大将へ命令を下した。
日本へ赴け。責任者として謝罪せよ。
それは謝罪命令というより、ほとんど生贄の指名だった。
お前が行って殺されれば釣り合いが取れる、そう言外に告げているに等しかった。
命令である以上、従うしかない。
テイラー大将は駆逐艦マックレイシュに乗り込み、日本へ向かった。
しかし、事態はその道中で急変する。
日本列島が視界に入る海域まで接近した時、駆逐艦マックレイシュに暗号通信が届いたのだ。
『マニラへ帰還せよ』
あまりの朝令暮改に、テイラーは一瞬、電文の意味を理解できなかった。
日本へ謝罪に行けと言われた。だから出港した、そうしたら今度は引き返せという。
何が起きたのか知らされぬまま、彼は反転するしかなかった。
そして、テイラーが引き返したその日。
駐日大使ウィリアム・キャメロン・フォーブスは、本国から届いた命令を前に、血の気を失っていた。
フォーブス駐日大使は日本に興味など無く、順当に外交官としてのキャリアを勤め上げて出世したいだけの人間だった。
それなのに、書記官が暗号を解読して書き上げた文書は生きて帰れるのかすら怪しくなる物だった。
ワシントンはフォーブス駐日大使に日本政府に「宣戦布告」を叩き付けてこいと命令してきた。
昭和六年十一月。
その時期は、最悪だった。
世界恐慌、日本では昭和大不況のただなかで、庶民は日々の暮らしに喘いでいた。
そこへ満州事変が起き、外交関係は悪化の一途をたどっている。
その最中に、帝国海軍の象徴ともいうべき東郷平八郎元帥が、アメリカに殺されたのである。
これ以上ないほど、火がつきやすい情勢だった。
しかもアメリカ側にも、冷静な判断を許さぬ事情があった。
第37回大統領選挙。
その予備選挙が迫っていたのである。
1929年から続く株式市場の崩壊と世界恐慌は、アメリカ全土に深い傷を刻んでいた。
失業者は街にあふれ、フーバー政権の無能はもはや誤魔化しようもない。
選挙になれば、現職大統領が徹底的に叩かれるのは目に見えていた。
そのフーバーに囁いたのが、ヘンリー・スティムソン国務長官だった。
『日本と戦え』
『戦争に勝てば選挙に勝てる』
予備選挙前に開戦し、投票日までに大勝利を収める。
艦隊決戦で大勝し、国民へ強い大統領を演出する。
そうすれば、敗北確実な選挙戦をひっくり返せる。
追い詰められたフーバーは、その悪魔の囁きに抗えなかった。
スティムソンは議会工作を進めた。
比叡事件を利用し、対日強硬論を煽り、開戦決議へと空気を誘導していく。
そしてアメリカは、本格的な選挙戦が始まる直前という最悪の時期に、開戦へ踏み切った。
「今、ジャップを滅ぼさなければ、アメリカが滅びる」
スティムソンがフーバーへ吹き込んだその言葉はアメリカ国民を納得させられる物ではなかった。
根拠があまりにも薄弱だったからだ。
黄禍論を持ち出し、日本が中国を侵略した次はアメリカへ攻めてくると訴えても、多くのアメリカ人にとって、それは現実味を欠く扇動にしか聞こえない。アメリカがアジアの小国に滅ぼされるなど、常識では考えられなかった。
本気で信じているのは『未来からの贈り物』を受け取ったスティムソンだけだった。
狂気じみた政治判断は、さらに狂気じみた軍事命令を生んだ。
アメリカ海軍へ下された命令は、ほとんど暴論だった。
選挙戦が終盤に入る八月までに、日本海軍へ艦隊決戦を挑み、大勝利を収めよ。
海軍作戦部長ウィリアム・ヴィール・プラット大将は、その命令書を見て沈黙した。
彼は無用な挑発を避け、軍拡競争を抑制することを重視する穏健派だった。
仮に対日戦争を行うとしても、太平洋のど真ん中で早期決戦を仕掛けるより、海上封鎖と持久戦で相手の力を削ぐべきだと考えていた。
それなのに大統領が命じてきたのは、急いで戦え、しかも派手に勝てという、軍事より政治都合を優先した無茶苦茶な要求である。
プラット大将は悟った。
「この戦争は、始まる前から狂っている」
そこで彼は、別の手を打った。
戦争そのものを避けるための裏工作である。
アメリカ海軍はルーズベルト候補を支持する。
だから、当選したなら日本と即時停戦してくれ。
そんな密かな意向を、非公式の経路で探らせたのだ。
第一次世界大戦の傷痕がなお残るアメリカでは、反戦主義の声は強かった。
ルーズベルト陣営もまた、フーバーを「失政隠しのために戦争を始めた男」として叩く材料を探している。
ならば、戦争を長引かせず、政権交代とともに終結へ向かわせる余地はある。
プラット大将はそう読んだ。
準備に時間がかかる。
補給が整わない。
艦隊の集結に日数を要する。
そう言い訳を重ね、決戦を少しでも先へ、先へと遅らせる。
そのあいだに選挙が進み、政局が変わり、艦隊が日本近海へ到着する前に停戦へ持ち込めればいい。
それは楽観であり、希望的観測でもあった。
正気を失った政治家の命令に対し、正気を保った軍人が取りうる抵抗としては、それが唯一の手段だった。




