速すぎた海戦
比叡がポルトガル領アンゴラのロビト港へ姿を現したのは、空と海の境目が白くけぶる朝だった。
ロビト港は鉱石を輸出すために存在している港だった。
埠頭には赤茶けた鉱石の粉塵が積もり、風が吹くたび、植民地の大地を削り取った色が薄く舞い上がる。
背後にはベンゲラ鉄道が伸びていた。千キロを超える内陸にあるシンコロブエ鉱山から鉱石が港へ運び込まれる。
そこから先は船で欧州へ送られ、文明国を名乗る者たちの富へと姿を変えるのだ。
ポルトガル領アンゴラも、ベルギー領コンゴも同じだった。
地図の上では色分けされた領土に見えても、実際には欧州列強が肥え太るために切り分けた巨大な鉱山でしかない。
人も土地も、ただの資源だった。
比叡はロビト港に投錨すると、事前に手配していた燃料を補給した。
相手は大英帝国のデイヴィス・アンド・ニューマン社が差し向けた石油タンカーだ。
135メートルしかない石油タンカーは比叡と比べると小さく見えるが、商船としては排水量一万トンに達する大型船だった。
いずれ大東亜戦争が始まれば王立艦隊補助部隊の一隻として働くはずのOl級タンカーの一隻、オルナだった。
今はまだ敵でもなく、味方でもない。
ただ、金を払えば商品を持ってくる商売相手にすぎなかった。
比叡がこの地へ来た真の目的は、ウラン鉱石だった。
表向きは大量の夜光塗料を生産するための原料購入としていた。
ウラン鉱石、今の時代はまだラジウム鉱石として扱われているキュライト鉱石。
ウラン238が長い時間をかけて崩壊する過程でラジウム226が生成されるため、この二つは同一の鉱物だ。
今の時代においてラジウム226の主な用途は夜光塗料であり、世界的に需要があるから採掘されている。
価値が発見される前のウランはラジウムの副産物でしか無かった。
東郷元帥は懐から懐中時計を取り出すと文字盤を見た。
今は昼間だから見えないが、夜になれば電源もなしに文字盤がうっすらと発光する。
時計の文字盤を艦長に見せて自慢話のような事を言い出した。
「時計の文字盤を描く夜光塗料はラジウム1mgに硫化亜鉛30gを混ぜた物だ」
「たった1mg、塗料全体の三万分の一しかないラジウムが文字を光らせる動力源になっている」
「ウランは6.2kgあればTNT火薬5万トンの爆発を起こせるそうだ、これを核物質とよぶらしい」
『未来からの贈り物』に書かれていた話は信じがたいが、東郷元帥は確信を持っていた。
彼らにとって最大の難問は購入資金だった。
ラジウムは1mgあたりの相場は海軍中佐の月収に匹敵する高価な希少元素だ。
夜光塗料の市販価格は一グラム十五円もする。
このため、ラジウムの含有量が高いキュライト鉱石の値段は1トンあたり4万円を超える。
600トンの鉱石を買い占めるのに二千四百万円、金塊にして1トンにもなるにもなる資金が必要だった。
これは戦艦比叡の建造費に匹敵する、戦艦一隻分の大金だった。
海軍の予算から秘密裏に捻出するのは不可能な大金だが、資金を集めたのは東郷平八郎元帥だ。
老元帥は、表向きには何ひとつ語らなかった。
ただ、旧知の政治家、実業家、華族、退役軍人。
皇国を憂える者たちに秘密裏に声をかけ、金塊を集めて回った。
『他言無用』
『詳しいことは何も言えぬ』
『だが、お国のために要る』
それだけで、黙って金塊を差し出した者達がいた。
昭和大不況の中で1トンもの金塊を秘密裏に集めることが出来たのは東郷平八郎元帥だけだった。
理屈ではない。東郷平八郎の名そのものが、まだこの時代においては、国家への信仰に近い重みを持っていたからである。
もちろん、最初から平穏な取引になると楽観していたわけではなかった。
最悪の場合、ベルギーやポルトガルに宣戦布告される覚悟で略奪も覚悟の上だった。
そのために戦艦を派遣したのであり、儀仗隊の名目で精鋭の陸戦隊まで連れてきていた。
だが事態は、拍子抜けするほどあっけなく進んだ。
世界恐慌の嵐が吹き荒れる時代、金塊はどこの国の通貨よりも信用が高い世界共通の万能通貨だった。
ウランの価値を知らなかったベルギーの鉱物商社は喜んで売り渡した。
いや、正確には、知る手段がなかった。
『未来からの贈り物』によれば、エドガー・センジエという男がこの鉱石の本当の価値に気づくのは、昭和十四年五月だという。
これが都市を丸ごと吹き飛ばす爆弾になるなど、誰ひとり想像していない。
だからこそ、今しかなかった。
比叡は練習艦に改装する時に四番砲塔が撤去されていた。
後部重量が失われた分を補うため、艦内には500トンものバラストが積まれていたが。
海に捨て、代わりにウラン鉱石が積み込まれた。
35.6cm砲弾と装薬を納めていた船底の弾薬庫に、ウラン鉱石が音を立てて流しこまれていく。
さらに三番砲塔の弾薬庫も空にしてあった、砲弾と装薬の搬入口を使い、そのまま鉱石を落とし込んだ。
装甲も撤去されているので浮力には余裕がある。
艦に積まれたウラン鉱石は、総計で600トン。
千発の砲弾より重い、国家の命運を担う鉱石だった。
比叡は帰路を急いだ。
アフリカを離れ、インド洋を越え、南シナ海へ入り、フィリピン近海へ差しかかった頃である。
水平線上に黒い影が現れた。
アメリカ海軍の重巡洋艦だった。
見張りの報告が艦橋に届いた時点で、嫌な予感がした。
その艦が公海上で停船信号を送ってきたと知った瞬間、艦橋の空気は一変した。
「臨検だと!」
東郷平八郎元帥の怒声は、老齢を感じさせぬ鋭さで艦橋に響いた。
将校は思わず元帥から目をそらし、艦長へ向き直って報告した。
「停船せよ、応じなければ発砲する、とのことです!」
比叡と併走しつつ、堂々と停船を命じてくる。
その無法ぶりに、さしもの将校たちも一瞬言葉を失った。
見張長が双眼鏡を構えたまま艦名を叫んだ。
「アメリカ海軍アジア艦隊旗艦、ヒューストンです!」
今は戦時ではない。
交戦国でもないのに、公海上で外国の軍艦を臨検する法的根拠など、どこにもない。
しかも相手は、外国訪問から帰投中の戦艦である。建前のうえでは練習艦だ。
ここまで露骨な強硬策に出る理由が、常識では説明できなかった。
比叡が運んでいるのは、大日本帝国の命運を変えうる物資である。
これを失えば、未来は消える。
東郷元帥は、並走するアメリカ海軍の重巡洋艦を睨みつけたまま言い放った。
「こちらは戦艦である。撃ち合えば必勝なり!」
しかし、その言葉とは裏腹に、現実の比叡は万全ではなかった。
練習艦に改装された比叡は主砲を六門に減らされ、装甲も撤去されている。三番砲塔に至っては鉱石庫にしてしまったので発砲出来ない。
対するヒューストンは、二十センチ砲九門を備えた重巡洋艦だ。
撃ち合えば不利だった。
逃げ切るのも難しかった。
練習艦に改装された比叡には、本来の高速を発揮するだけの機関出力がない。速力でもヒューストンに分がある。
相手の要求を無視して走り続けるしかなかった。
比叡は停船命令を黙殺し、ヒューストンはなおも迫る。
やがて両艦は、手旗信号が読み取れるほどの至近距離で並走することになった。
海面のうねりが双方の艦腹に反射し、低い唸りのような機関音が海を震わせる。
その緊張が、ついに破れた。
ヒューストンが、比叡の艦首前方へ向けて警告射撃を放ったのである。
巨大な水柱が立った。
次の瞬間、比叡艦長が叫ぶ。
「総員、戦闘配置!」
艦内が一気に動き出した。
その頃、ヒューストンの艦内では、別種の狂気が広がっていた。
砲術長は青ざめていた。
無茶苦茶だった。公海上で他国の軍艦を停船させようとして、従わねば発砲する。
相手が撃ち返してきたらどうなるか、子供でもわかる。
しかもその相手は、日本の戦艦なのだ。
不安が頂点に達したのは、比叡の主砲塔が旋回を始め、こちらへ向きを変えた時だった。
そんな艦内の空気をさらに掻き乱すように、フランク・J・フレッチャー中佐が狂気じみた声を張り上げた。
「あの船を撃沈しなければ、アメリカが滅びるぞ!」
最近になって配属されたばかりの参謀が、血走った目で気の狂ったことを叫んでいる。
艦長が止めるべきなのに、艦長は彼を止めず、むしろその言葉に呑まれていた。
わけがわからない。
将校たちは顔を見合わせ、必死になってフレッチャー中佐をなだめようとした。
だがフレッチャー中佐は止まらない。
「この船の乗員は、ジャップの強制労働施設へ送られるんだ!」
そして懐から一冊の本を取り出し、高く掲げた。
「この船は、千六十一人の乗組員のうち、二百八十九人しか生き残れない! イエロー・モンキーに殺されるんだ!」
誰も、その言葉の意味を理解できなかった。
だが艦長だけは理解していた。
自分たちの行動が国際法にも、アメリカ海軍の軍規にも反していることを承知で艦長とフレッチャー中佐は覚悟を交わしていた。
自分たち二人が銃殺になって責任を取ろう。
誰にも理解されなくていい。
唾を吐きかけられ、名誉を失い、犯罪者として処刑されてもいい、それでアメリカを守れるなら構わない。
未来を知ってしまった二人は真の愛国者だった。
両艦はついに砲塔を向け合った。
必中の距離である。
両艦の測距儀員たちは、ほとんど同時に距離を報告した。
「距離、千四百五十メートル!」
ヒューストン艦長は唇を噛み、叫んだ。
「ファイア!」
九門の二十センチ砲が吠えた。
仰角は、ほとんど水平に近い。
砲口炎が閃き、白煙が弾け、砲弾は飛ぶというより突き刺さる勢いで比叡へ殺到した。
初弾から命中した。
開戦まで十年あるはずなのに。
今ここで、アメリカと日本のあいだに最初の海戦が生じてしまった。
片舷四門にまで減らされていた十五・二センチ単装砲が、一斉に直撃で吹き飛んだ。
さらに第二煙突と後部マスト基部に集中した砲弾が炸裂し、黒煙と火花が噴き上がった。
第二煙突は傾ぎ、根元から噴き出した黒煙が、まるで艦が血を吐いているようだ。
機関砲すら有効射程に入る至近距離で、並走しながら撃ち合う。
そんな砲戦が外れるはずもない。
だが比叡も死んではいなかった。
「撃て!」
怒号とともに、三十五・六センチ砲が火を吹く。
戦艦の主砲弾は、巡洋艦とは威力が違った。
ヒューストンの二番砲塔基部に命中した一弾は、鋼鉄を叩き割るというより、艦そのものを殴り潰すような衝撃で装甲を吹き飛ばした。
しかしその直後、ヒューストンの反撃弾が比叡の二番砲塔、さらに艦橋下部へ突き刺さった。
比叡は、わずか二斉射のうちに十四発もの命中弾を浴び、見る間に満身創痍となった。
二千メートルにも満たない距離での砲戦など、設計者も教範も想定していない。これは戦術ではない。
巨大な鋼鉄同士が、何が起きているのか判らないまま殴り合っていた。
だが、比叡が重傷なら、ヒューストンは致命傷だった。
一番砲塔から放たれた二発の三十五・六センチ砲弾が、ほぼ水平に近い角度でヒューストン二番砲塔基部へ突き進み、バーベットを貫通した。
次の瞬間、前部弾薬庫が誘爆した。
巡洋艦の前半部が、内側から膨れ上がるように吹き飛んだ。
艦首が跳ね上がり、艦橋前方から船体が裂ける。
鋼板が紙のようにめくれ上がり、炎と黒煙が空へ噴き上がった。
ヒューストンは、そのまま真っ二つに折れた。
正史なら、この巡洋艦が沈むのはまだはるか先のはずだった。
珊瑚海海戦とミッドウェー海戦で日本海軍を壊滅に追い込む提督になるはずだったフランク・J・フレッチャーは中佐のまま海の藻屑になった。
轟沈していくヒューストンを見届けた比叡の砲術長のもとへ、伝令が血相を変えて駆け上がってきた。
「報告!」
砲術長が振り返る。
伝令の顔は、煤と血でまだらになっていた。
「東郷元帥、艦長ならびに副長――戦死されました!」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
艦橋下部に命中した二十センチ砲弾が炸裂し、艦橋要員の大半を薙ぎ払っていたのである。
東郷元帥も、艦長も、副長も、戦死した。
指揮権は継承順に従い、砲術長へ移る。
主砲射撃指揮所から艦橋に降りた砲術長は崩れ落ちた艦橋を見た。
戦いには勝った。
だが、その代償はあまりにも大きすぎた。
走り去る比叡の後方の海では、真っ二つに折れたヒューストンが沈みつつある。
比叡自身もまた深手を負い、いつ力尽きてもおかしくない。
しかし、艦内には国家の命運を左右する600トンの鉱石が積まれている。
砲術長は、歯を食いしばった。
そして、自分に言い聞かせるように命令を下した。
「応急処置急げ、日本へ帰投する……」




