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未来からの贈り物

昭和五年八月の終わり。

十五か月あまりにわたる欧州視察を終えて帰国した堀越二郎は、休む間もなく海軍省へ呼び出された。

呼び出したのは、航空本部技術部長・山本五十六大佐である。

新型戦闘機の開発について話がある、とだけ伝えられた堀越は、てっきり欧州で見聞した最新航空技術について意見を求められるのだろうと思っていた。英国や仏国、独逸を巡り、最新技術を学んできたのだ。

呼び出しの理由としては、それがいちばん自然だった。


だが、帝都の海軍省へ出頭した彼を待っていたのは、そんな穏当な話ではなかった。

山本は「重要な話がある」とだけ言い、堀越を奥の密室へ通した。

窓は閉ざされ、音は厚い扉で切られている。

妙な雰囲気だった。

山本五十六は、前置きもなく一冊の本を差し出した。

堀越は、その表紙を見た瞬間、眉をひそめた。


大きな文字で『零戦』と書かれていた。

そして、その下には見たこともない戦闘機の写真が載っていた。

楕円を帯びた流麗な主翼。鋭く細い胴体。機体側面には見慣れた日の丸が描かれている。

だが、その姿は、堀越がこれまで欧州で見てきたどの戦闘機とも違っていた。

違いすぎていた。


堀越は無言のままページをめくった。

そこに書かれていた内容は、航空技術者としての常識を、まるごと殴り飛ばしてくるようなものだった。


離昇出力一一三〇馬力。

最高速度五六四・九キロ。

二十ミリ機関砲と七・七ミリ機関銃を備えた重武装。

しかも航続距離は二五六〇キロに達する。


そんな戦闘機があるはずがない。

いや、正確には、そういう願望を箇条書きにした夢物語ならあり得る。

技術者の酔狂な空想としてなら、机上の空論ならいくらでも書ける。

だが、この本に載っているのは空想の絵ではなかった。


写真がある。

しかも一枚や二枚ではない。何十枚もある。

各部の構造図まで載っている。機体内部の構造、主翼の骨組み、操縦席の計器板の写真まである。

どれもこれも、実在する機体を取材しなければ書けない。


そして何より異様なのは、写真そのものの質だった。

印刷された色が鮮明すぎる。

堀越は欧州で高級な技術書や写真集も目にしてきたが、ここまで美しく、細部まで崩れずに色を再現した印刷物など見たことがなかった。

紙質そのものも違う、滑らかで上質だ。

この本が今の時代のものではないと感じさせる、異様な完成度だった。

本をめくる堀越の指先が、いつのまにか止まっていた。

その様子を見ながら、山本が言った。


「それは君が開発する新型戦闘機だ」


堀越は顔を上げた。

冗談を言っている顔ではない。

だが、言葉の意味はまるで通らなかった。


「すでに実機が飛行しているのですか」そう尋ねるほかなかった。


山本は、口の端だけで笑った。

「まだ影も形もない」そこでわずかに間をおいた。

「いや、影だけは君の手の中にある」


そう言って、山本は部屋の隅に据えられた大きな金庫へ歩み寄った。

重い扉を開ける。

中から取り出された本を山本は机の上へ並べた。

「零戦について書かれた本だけではない」

山本は平然と言った。

「千冊あまりの本が、私の手元にある」

そして、堀越の顔を見て、あまりにもあっさりと続けた。


「この本は、百年以上未来の日本人が送ってきた『未来からの贈り物』だ」


堀越は、その場で笑い飛ばすことができなかった。

あまりに馬鹿げている。

常識ではあり得ない。

だが、机の上に広がる本の山は、常識の側が折れるしかないほどの迫力を持っていた。

山本五十六が語った内容は、さらに常軌を逸していた。

日本は昭和十六年から二十年にかけてアメリカと全面戦争を行い、敗北する。

国土は蹂躙され、国の命運は断たれ、百年後の日本は滅亡が確定した暗黒の時代にある。

未来の日本人たちは、その破滅を変えるため、滅亡へ至る歴史の記録と未来の技術資料を過去へ送ってきた。


話としては、三文小説以下だった。

だが、堀越の目の前には、その荒唐無稽を現実として押し切るだけの証拠が積み上がっていた。

山本はさらに、奇妙な板のようなものを堀越へ差し出した。


手帳ほどの大きさの板の表面には数字と数学記号のボタンが並んでいる。

黒い材質は樹脂みたいだった。

「面白いものを見せよう」

 山本はそれを机に置き、指先でボタンを叩いた。

「コサイン35.22度×コサイン37.33度を計算してみよう」

山本が小さなボタンを押すと、灰色の窓に黒い数字が浮かび上がった。

「0.6495976965」

堀越は思わず身を乗り出した。

帝大を首席で卒業した彼にとって、この程度の計算なら概算値は暗算でも出せる。

おかしな値ではない。だが、問題はそこではなかった。

有効桁数十桁が一瞬で出た。

堀越は無言で鞄から計算尺を取り出した。

尺を滑らせ、目盛りを読み、慎重に値を拾った。

答えは0.65。

山本は、その反応を待っていたかのように、にやにや笑っていた。

「数表で厳密値を出してみたまえ」

渡された数表をめくり、紙に書いて手計算で厳密値を求めた。

堀越の額に汗が滲む。

やがて彼は、鉛筆を止めた。


「正確です……」


山本は満足げに頷いた。

「すごいだろう。これは関数電卓という未来の道具だ」

「百年後には、これが大卒初任給で四十個も買えるほど、ありふれているらしい」

さらに、表面の黒い部分を指さす。

「ここに日の光が当たると電気が起きて動く、だから電源はいらん」

堀越は、もはや何を疑えばいいのか分からなくなっていた。

自分が普段使っている計算尺と、そう変わらぬ大きさ。

なのに、その性能は比べものにならない。

そんな道具が未来にはありふれているという。

山本は、その関数電卓を堀越に差し出した。

「未来から五十個送られてきている。君にも一つ貸与しよう」


堀越は、それを受け取った。

軽かった。

そして、その軽さが余計に現実味を奪った。

やがて彼は、机上の異物と書物の山とを見比べながら、いちばん聞かなければならないことを口にした。


「……十年後に、戦争が始まるのですか」


山本は、答えの代わりに別の本を指さした。

堀越は、その表紙を見て息を呑んだ。

自分の自伝だった。

もちろん、書いた覚えなどない。だが、中を開けば若き日の自分の経歴が並び、今よりずっと老いた自分の写真まで載っていた。

預言書だった。

山本は、その本を指先で軽く叩きながら言った。

「君はこの先、設計主任に抜擢される」

「七試艦上戦闘機という、新型戦闘機を作るらしい」

「だが、その性能は不十分だ」


山本の声は、そこでわずかに強くなる。

「だが我々の手元には、何世代も先の戦闘機の資料がある」

「君の使命は、零戦を史実より前倒しで完成させることだ」

「これは最高機密の軍機である」


その時点で、堀越の退路は閉ざされていた。

三菱名古屋航空機製作所へ戻った堀越は、山本から預かった資料を持って技師長へ報告した。

すると、あっさりと言われた。


「本社から設計主任抜擢の辞令が届いている」


やはり、というべきか。

すでに海軍と会社で話がついていた。

まだ本の中にしか存在しない未来の戦闘機。

これから自分が作るはずの戦闘機。

その“影”を実体へ変えることが、堀越二郎の仕事になった。


二週間後。

山本五十六は再び招集をかけた。

帝都の海軍省に集められていたのは、新型航空機の開発に関わる面々だった。

ただし、肝心の山本は、何かの都合で少し遅れるらしい。


奇妙な待ち時間だった。

そこへ、一人の男が気安く堀越へ話しかけてきた。

「よう、ゼロ戦さん。俺のことは流星と呼んでくれ」

堀越は、相手の顔に覚えがあった。

「愛知航空機の尾崎さんですよね?」

流星と名乗った男は、面白がるように肩をすくめた。

「ここじゃ本名は名乗らない決まりなんだ」

「機密保持って建前の、山本大佐のお遊びさ」

そう言って鞄から取り出した本には、逆ガル翼の機体が描かれ、『流星戦記』とあった。

「ゼロ戦が艦上戦闘機担当なら、俺は艦上攻撃機担当ってことだよ」

 そこへ、また別の男が一冊の本を片手に口を挟む。

「自分は彗星です」

こちらも見覚えがあった。やはり愛知航空機の技術者だ。

「あなたも、愛知航空機の方ですね」

 彗星は妙にきびきびした口調で言った。

「ここでは社名も本名も使いません」

「自分が担当する新型機の名前で呼び合う。それが規則です」

そこで堀越は、ようやく理解した。

この集まりでは、人間の名よりも、未来から与えられた機体名のほうが重いのだ。

互いに偽名を名乗り合っているうち、海軍の軍服に技術少佐の階級章をつけた男が近づいてきた。

「自分は海軍航空技術廠の震電です」

「まだ設計主任が学生だから、代わりに作れと山本閣下に無茶を言われました」

そう言うと、彼は本を開き、奇妙な飛行機の写真を見せた。

「見てください。前と後ろが逆なんです」

操縦席が後ろを向いている奇妙な形の戦闘機の写真と思ったら前後が逆らしい。


堀越は、自分が「ゼロ戦」と呼ばれることにも、少しずつ現実感を失っていた。

集まった者たちは皆、航空機業界の人間であり、狭い業界が多少なりとも顔見知りばかりだ。

壁際では、ひときわ年長の男が、誰かと談笑していた。

直接会ったことはなかったが、その顔を知らぬ航空関係者はまずいない。

堀越は震電に小声で尋ねた。

「あちらの御方は、中島飛行機を創業された中島知久平さんではありませんか?」

震電は、即座に首を振った。

「富岳さんです」


「富士の富岳ですか?」


「そうです。超大型爆撃機だそうです」


その時、富岳と話していた小柄な青年が、堀越へ気づいて笑いかけた。

「堀越先輩」

間髪入れず、震電が横から訂正する。

「ゼロ戦さんだろ」

声をかけてきた青年にも見覚えがあった。

帝大工学部の後輩だった。卒業以来会っていないが、今は海軍の軍服を着て、技術少佐の階級章までつけている。


「僕は晴嵐です。改めてよろしくお願いします」


自分より一歳若い後輩が技術少佐。

それだけでも妙なのに、ここへ来るとその違和感さえ埋もれていく。


中島知久平ではなく、富岳さんはいかにも愉快そうに堀越へ言った。

「ゼロ戦さんはいいですなあ。実機が大量生産されていたから資料が豊富で」

「わしなど、計画だけで図面すら残っておらん富岳を作れと無茶を言われました」


堀越は思わず問い返した。

「それは、未来からの資料があっても不可能ではありませんか」


「カッ、カッ、カ……」富岳老人は、喉の奥で楽しそうに笑った。

そして懐から一枚の写真を出した。

「アメリカが作った、いや、これから作るB-36を富岳として作ります」


そこに写っていたのは、斜めに伸びた主翼に、後ろ向きのプロペラを備えた巨大な六発機だった。

奇妙な姿だが、写真だけでは実感が湧かない。どれほどの大きさなのか、見当がつかない。

だが、富岳老人は嬉々として言った。

「全長四九・四メートル。満載重量は百トン超。太平洋を横断できる巨人機ですぞ」

「山本閣下は、これでアメリカ本土を強襲する空挺部隊四百人乗りの輸送型まで作れと仰る」


堀越は思わず声を上げた。

「百トンもある飛行機が飛べるのですか!?」

富岳老人は、どこまでも平然としていた。

「三千馬力の発動機が六基あれば飛べるはずじゃ」

それはもはや航空機の常識の外にある数字だった。

世界最大の航空機、ドルニエ Do Xですら最大離陸重量は五十六トン、十二基の発動機を束ねても総出力は七二〇〇馬力にすぎない。

その倍近い重量を、六発で飛ばすというのか。

帝大首席の堀越ですら、即答できなかった。

不可能ではないのかもしれない。

だが、そこには必ず何か重大な問題が潜んでいる。そんな漠然とした不安が、どうしても消えなかった。

その時、警備兵に案内されて、また一人、見知った男が遅れて入ってきた。

部屋を見回すと遅刻にならなかった事をほっとしていた。

「本庄さん」

堀越にとっては上司に当たる、三菱名古屋航空機製作所の本庄季郎技師長だった。

本庄は、上司というより同期のような気軽さで言った。

「本社に寄っていたら遅れてしまった」

「俺の暗号名は一式陸上攻撃機。略して陸攻でいい」

堀越は、つい尋ねていた。

「どんな飛行機なんですか」

本庄は少しばつの悪そうな顔になった。

「陸上基地から飛んで、戦艦を攻撃する双発機だ」

「……ただ、なんというかな。未来じゃ“ワンショットライター”と呼ばれて忌避されるほど、燃えやすい欠陥機らしい」

堀越は思わず眉をひそめた。

「そんなものを作るのですか」

本庄は肩をすくめた。

「イギリスの戦艦を撃沈する名機になるそうだ」

「山本大佐は、欠陥が事前に分かっているなら、防御力を強化しておけと仰っている」


最初から欠陥が分かっている。

ならば、設計段階で潰せる。

その意味で『未来からの贈り物』は、単なる技術資料ではない。

設計前に失敗を知ることができる、千金の価値を持つ予言書だった。


やがて、散々待たせた末に山本五十六が姿を見せた。

彼は入ってくるなり、まず遅れた理由を告げた。

「少将昇進の内示を受けた」

「次の会合までには昇進しているだろう」


誰も拍手はしなかった。

ただ、その言葉の重みだけは全員が理解した。

この計画が、山本五十六個人の思いつきではなく、軍上層部の総意であることを理解した。


こうして、大日本帝国の未来を背負わされた技術者たちの会合が始まった。

もっとも、この日の会議は、各自が担当する未来の航空機を紹介し合う、顔合わせだけで終わった。

だが、そこに集まった誰もが分かっていた。

自分たちは、ただの新型機を作るのではない。

百年後から贈られた亡国の遺書をもとに、未来そのものを設計し直そうとしているのだと。

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