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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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八十五話 声の切れた広場のあと


八十五話


85-1 声の切れた広場のあと



南広場を離れても、街の音はすぐには戻らなかった。


人の声はある。荷車の軋みも、露店の呼び込みも、停車場の鐘も鳴っている。なのに、さっきまで混じっていた「余計な一声」だけが綺麗に抜けたあとの広場は、どこか帳尻を取り損ねた商いみたいな顔をしていた。

羽場桐は高架下で短く切ったあと、隊を本部へ戻さなかった。


「分けます」


端末を耳から離さず言う。


「本部で紙に落とす前に、街の中で"切れ方"を見ます。護国少尉は本部線固定のまま。東雲さんと高倉さんは市井線。志摩君、外周端末の途絶位置を洗って」

『了解』

『はい』

『おう』


返事が散る。散るが、今日の散り方は一本の順番を持っている。


紺野と陽鳥は羽場桐の半歩後ろで、停車場南の石畳を東へ流れた。夕刻の光はまだ残っている。だが高架の影を跨ぐたび、温度が一拍ずつ落ちる。風そのものではない。街の「騒ぎ方」が切り替わる境目の冷たさだった。


「妙子ちゃん」


陽鳥が小さく言う。


「さっきの二系統同時途絶、街灯の点き始めと関係ない」

「理由を」


羽場桐は視線を前に据えたまま返す。


「遅延が揃いすぎ」


陽鳥の指が端末の縁を一度叩く。


「南広場の女声・男声、志摩の拾ってた外周の雑音、全部"切れた時刻"が近すぎる。自然に散ったなら、もう少し段差が出る」

「誰かが切った、か」


紺野が低く言う。

陽鳥はすぐに頷かない。頷かないまま、空の高いところを一度だけ見た。


「誰か、って言い方で済むかはまだ分かんない」


その返し方に、紺野の顔がわずかに硬くなる。名前を飲み込んだ時の言い方だと、もう分かる。


「市場側も同じだ」


高倉が露店列の切れ目で合流した。帽子のつばを押さえたまま言う。


「さっきまで"親切な一声"混ぜてた連中、ぴたりと消えた。散ったってより、仕事終いの引き方だ。しかも一斉。あれは店の客の引き方じゃねえ」

「東の河沿いへ寄ります。風の抜けるところで再確認」


羽場桐は地図代わりの紙片を折り直す。説明より先に歩き出す。今日の運用は、止まって整理するより歩きながら線を取る方が安い。


紺野はその背中を見ながら、喉の奥のざらつきを一度飲み込んだ。南広場で自分が「俺だ」と責任を先に取った時、街の流れは通った。通ったのに、その上から別の手が街ごと声を切った気配が残っている。自分の声で届く範囲の外に、もう一段広い「止め方」がある。

それを、身体の方が先に嫌がっていた。


85-2


河沿いの路地は、夜になる前の方がよく鳴る。


船着きの綱、橋板の軋み、軒先の風鈴、魚箱を洗う水の音。風が通る分、細い音ほど遠くまで伸びる。だから、そこで急に消える音はすぐ分かる。


羽場桐は橋の袂の路地を止め点に選んだ。停車場ほど人は多くない。だが、河岸・景道院・役所筋の三方向から人が混じる。南広場で起きた「誘導声の切り方」が、もし街の一点ではなく順番そのものを見ているなら、ここでも癖が出る。


「位置だけ」


羽場桐が言う。


「追わない、掴まない。切れ方を見る」


東雲は橋の上。高倉は魚屋の陰。志摩は端末線を二本に分けて外周。綾瀬は景道院寄りの帳票屋の裏口。真名と樋道は人流の視線切り。紺野と陽鳥は中央の路地口、灯りの半分当たる位置だ。


「妙子ちゃん、観測虫、最小で飛ばす」


陽鳥がそこで、羽場桐に一拍だけ目を向けた。


「数」


羽場桐の返事は速い。


「三十六」

「範囲」

「路地口から橋脚まで」

「飛ばして。ログは共有」


羽場桐は頷く。


「今日は先に言ったな」


紺野の目が細くなる。


「言わないと、あとで殴られそうだから」


陽鳥は端末を立ち上げながら小さく返す。

軽口の形を作る。だが指先は笑っていない。端末の画面に細い光点が並び、路地の風へ溶けるように散った。肉眼では見えない。陽鳥の虫は、見せる時以外はまず見えない。

路地の音は相変わらず細い。綱が鳴る。風鈴が鳴る。橋板が鳴る。

次の瞬間、陽鳥の指が端末の上で止まった。


——風が一枚、抜けた。


音が消えたように見えたのは一拍だけだ。実際には音は残っている。綱も、風鈴も、橋板も鳴っている。

消えたのは、陽鳥の端末に並んでいた三十六の光点だけだった。


「……は?」


陽鳥が声を漏らす。珍しい、本当に漏れた声だった。


「何だ」


紺野が端末を覗き込む。

陽鳥の喉が一度鳴る。説明より先に、現象の形を確かめる顔だ。


「改竄前に落ちた」


低い声で言う。


「妨害じゃない。喰われてもない。処理された」


端末を叩く指が速くなる。


「三十六、全部。時間差——」

『外周のノイズ、今の一拍で揃って落ちた』


志摩の端末声が重なる。いつもの半笑いがない。


『路地口だけじゃねえ。橋の向こうもだ』


陽鳥の放った観測虫三十六体は、半径百メートル強の帯域を跨いだ瞬間、誤差一秒未満で同時に反応を失った。乱れではない。圧し潰しでもない。通行止めだ。


紺野の背中に、南広場よりはっきりした嫌な冷たさが走る。広場では声が切れただけだった。今のは、陽鳥が「見に行かせた手」そのものが返ってこない。


「姉さん」


紺野の声が低くなる。


「これ、何だ」


陽鳥は端末から目を離さない。離さないまま、白くなるほど上着の袖口を握る。


「……分かる」


言って、そこで一瞬だけ黙る。

分かるくせに、言う順番を測っている沈黙だと、紺野にはもう分かる。

紺野の右手が膝の横で握られる。合図。顔に出る前の手。


陽鳥の目がそれを拾う。今日は先に切らなかった。河岸で決めた取引どおり、一拍待つ。

その一拍で、露店列の向こうから男の怒鳴り声が上がる。


「誰が止めた! ふざけんな!」


路地の外、荷車道の方だ。続いて別の声。


「違う、急に声が——」


そこで、その声も途中で切れた。


「羽場桐中尉」


陽鳥がようやく顔を上げた。声は軽くない。


「ここ、もう"手口の線"じゃない」


端末を握る手が硬い。


「止め方の格が違う」


名前は出さない。出さないが、それで十分だった。

羽場桐の視線が一瞬だけ空へ上がる。高いところの白い筋は、さっきより少し東へ流れているように見えた。


85-3


羽場桐はそこで切った。


「全員、追わない。中央維持で後退」


端末へ短く飛ばす。


「東雲さん、上から人流だけ切ってください。高倉さん、露店側へ"事故じゃない顔"を作らせないで」

『はい』

『おう』

「志摩君、外周ログ固定。綾瀬さん、景道院側の紙線は今夜止める」

『了解』

『承知しました』


命令が短い。短いのは、説明している時間が高いからだ。


路地の外では人の声がまだざわついている。だが誘

導の声だけが不自然に消えている。止めるべき声と止めてはいけない声、その境目を誰かが街の上で選んでいるみたいな切れ方だった。


紺野と陽鳥は、橋の上へ上げられた。

橋の中央は風が強い。河面の冷たさが、さっきの路地のざらつきを一段だけ剥がす。外の音はある。市井の匂いもある。だが、いま二人の間にあるのは、紙の線でも店先の線でもなく、陽鳥の虫が「処理された」という事実だった。


「姉さん」


紺野が先に言った。二人きりではない。羽場桐が数歩後ろにいる。だがこの距離なら、もうその呼び方になる。


「今の、分かるって言ったな」


陽鳥はすぐに答えない。端末を見たまま、指でログを一度だけ送り直して、意味がないと分かって止める。いつもの余裕の手つきじゃない。


「……分かる」


ようやく言う。


「少なくとも、"誰かの工夫"の範囲じゃない」

「名前は」


紺野の目が細くなる。


「言うと、健ちゃんの顔が変わる」


陽鳥の喉が鳴る。


「もう変わってる」

「言え」


紺野の声は低いまま重い。

橋の風が一度強く吹く。欄干の金具が鳴る。羽場桐は後ろで黙っている。黙っているが、ここで名前が出る値段を計っている顔だ。

陽鳥は白衣ではない上着の袖口を強く握り、それから離した。


「……凛藤義貞」


言い切ったのはそこまでだった。


「本人と断定はしない。でも、止め方の"綺麗さ"が、私の虫に対して人の工夫の範囲じゃない」


紺野の顔が硬くなる。怒りだけじゃない。身体が先に前へ出ようとする硬さだ。

右手が膝の横で握られる。合図。今日何度もやった動きだ。だが今度は、顔を止めるためじゃない。脚を止めるために握っている。


「健ちゃん」


陽鳥がそれを見て、今度は先に袖口を弾く。合図。先に切りたくなっている合図。声が低い。


「今行くと止められる」

「誰に」


紺野が吐き捨てるように言う。


「名前出しただろ」

「止める順番ごと切ってくる相手に」


陽鳥の目が細くなる。

正しい。嫌になるほど正しい。

紺野は欄干に手をかけかけて、止める。河岸の風の中で、夢の灰の少女の声が喉の奥に引っかかる。


——先に、言って。


誰に。何を。どこまで。答えはまだない。だが少なくとも、いま陽鳥が名前の手前までではなく名前を出したことだけは、前と違う。その違いが救いかどうかを考える余裕はない。


「本部へ戻ります」


羽場桐がそこでようやく口を開いた。短く言う。


「今夜、紙は一枚だけ。凛藤義貞の名を前提にした整理を入れます」

「もう認めるのか」


紺野が振り向く。


「断定はしません。ですが、運用上の前提は更新します」


羽場桐の声は平坦だ。一拍。


「"凛藤が先に動く可能性が高い"から、"凛藤の介入を前提に崩れない順番を組む"へ」


言葉になった瞬間、橋の上の風の冷たさが一段現実に戻る。名前を出しただけで、街のざわめきの意味が変わる。さっきまでの誘導声の切り方、虫の処理、白線の位置。全部が「手口」ではなく「介入前の整理」に見え始める。


紺野は陽鳥を見た。

怒鳴る言葉はいくつもある。遅い、隠すな、先に言え、勝手に切るな。そのどれも今は半分しか正しくない。


「……次」 


紺野が低く言う。


「名前の手前で止めるな」

「うん」


陽鳥は端末を握り直したまま頷く。小さく答える。


「その代わり、健ちゃんも"行く前"に手で止めて」


取引はまだ続く。喧嘩の種でもあり、崩れないための手順でもある。

橋を降りる三人の歩幅は揃わない。揃わないまま、完全には切れない距離を保つ。


本部の灯りが遠くに見える。南広場でも、河沿いでも、高架下でも、今日の街は「誰が止めるか」を先に試してきた。その上から、もっと広い止め方が差し込まれた。


凛藤義貞。


名前がようやく線の上に乗った。

ここから先は、止める順番を覚えるだけでは足りない。

止められる前提で、どこまで火を持つかの話になる。


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