八十二話 眠りの底の段差
八十二話
82-1 眠りの底の段差
眠りは落ちるというより、段差を踏み外すみたいに来た。
資料室で紙を見ていたはずだった。時刻欄、補記表現、誰が止めるか、誰が整えるか。嫌になるほど同じ種類の言葉を見て、東雲の濃い茶を飲んで、それでも喉の奥のざらつきが消えないまま、机に肘をついたところまでは覚えている。
次に気づいた時、音がなかった。
静か、ではない。静けさにも種類がある。夜の本部みたいに遠くの足音が薄く残る静けさではなく、最初から音というものが置かれていない場所の空白だ。
停車場前に似た場所だった。
石段がある。案内札の柱もある。だが文字がない。灯りもあるように見えるのに、明るさだけが浮いていて、火の色がない。空は夜とも夕ともつかない灰色で、雲があるのか煙があるのか、境目だけが曖昧に垂れていた。
——瞬間、世界が「冷たい」のではなく、「温度を持つことをやめた」と分かった。
肌が冷えるのではない。空気の方が、触れたものから熱の意味だけを抜いていく。石段の角は白い。霜ではない。粉でもない。踏んでも舞わない、乾いた灰の薄膜が、どこまで行っても同じ厚さで街の輪郭をなぞっている。
紺野は足元を見た。軍靴の跡は付かない。
付かないと理解した一拍のあとで、背中の方に気配が立った。
振り向く前に分かった。強い気配ではない。逆だ。薄すぎて、世界の方がその輪郭を守ろうとしているみたいな気配だった。
82-2
石段の途中に、少女が座っていた。
歳は分からない。小さい。痩せてもいないし、栄養が足りているようにも見えない。髪も服も、色を失ったというより最初から灰で作られたみたいな質感で、風がないのに裾だけが少し遅れて揺れる。
目だけが、妙に静かだった。
人を見る目ではない。人の向こうにある温度の差だけを見ているような、薄い観測の目。
紺野は動かなかった。動けなかった、ではない。ここで一歩出るのが正しいのか、正しくないのかを判断する足場が、夢の中では最初から欠けている。
「……誰だ」
声は通らないと思った。だが通った。音としては小さいのに、この灰色の空間ではやけに遠くまで真っ直ぐ伸びる。
少女はすぐに答えない。
答えないまま、石段の縁に指を置く。灰の薄膜の上を、爪でも撫でるみたいに一度だけなぞって、それから口を開いた。
「まだ」
声は高くも低くもない。眠い子どもの声にも、壊れた録音にも聞こえる中途半端な響きだった。
「まだ、ちがう」
「何がだ」
紺野の眉が寄る。
少女は首を傾げる。人の仕草としては自然なのに、意味の向きだけが人間と少しずれている。
「順番」
一拍。
「とめる人、先」
喉の奥のざらつきが、夢の中なのに急に生々しくなる。
停車場前。止め札。口頭停止。止める権限。誰が整えるか。ここ数日の紙と街と声の線が、夢の中で勝手に繋がって、嫌な形の輪を作る。
「……お前、何を見てる」
少女は紺野の問いに直接は返さない。代わりに、紺野の顔をじっと見て言った。
「こわい顔」
少し間を置く。
「でも、まだ、こわしてない」
その言い方が妙に腹に落ちる。褒められているのでも、慰められているのでもない。観測の結果だけを告げるみたいな声だ。
紺野は一歩だけ石段へ出た。灰の薄膜はやはり乱れない。靴底の輪郭だけが、世界に触れずに滑っているみたいな感触がある。
「名前を言え」
「ない」
少女は目を瞬かない。すぐに続ける。
「あるかもしれない」
さらに一拍。
「まだ、うすい」
意味の通るようで通らない返しだった。だが、ここで意味を詰めようとすると、たぶん全部が壊れると直感で分かった。
紺野が次の言葉を探している間に、少女は石段から立ち上がる。立ち上がる動作は軽い。軽いのに、立った瞬間だけ、停車場の柱も石段も空の灰も、全部が少女の高さに合わせて寸法を決め直したみたいに見えた。
視界の中心半径十数メートルだけ、色の階調が一段減った。
ただそれだけだ。爆発もない。圧もない。なのに、紺野の本能だけが遅れて警鐘を鳴らす。触れてはいけない種類の「薄さ」だと、魂の側が先に知っている。
少女は紺野を見たまま、最後にもう一つだけ言った。
「先に、言って」
誰に、を言わない。何を、も言わない。
それだけ落として、少女の輪郭は風もなく薄くなった。消えるというより、最初からそこに重なっていた灰の濃淡へ戻っていくみたいな消え方だった。
紺野は反射で手を伸ばしかけて、止める。
止めた手だけが、夢の中でやけに重かった。
82-3
目が覚めた時、頬に紙の端が当たっていた。
資料室の机。伏せた紙束。消えかけの灯り。窓の外はまだ暗い。夢の中ほどではないが、夜明け前の本部にも温度の薄い時間はある。喉が乾いている。茶はもう冷えていた。
紺野は椅子を引いて立ち上がり、資料室を出た。
廊下は静かだ。遠くで見張りの交代の足音が一つ。夜と朝の間の、本部がいちばん人間の顔をしていない時間だった。
そのまま外へ出る。
本部裏の小さな中庭は、石畳に夜露が薄く残っていた。空はまだ藍に近い。帝都の屋根の向こうが、かすかに白み始めている。風は冷たい。冷たいが、夢のあの、「温度を持つことをやめた」空気とは違う。ちゃんと皮膚を冷やす種類の冷たさだ。
紺野は手を見た。夢の中で伸ばしかけて止めた手だ。もちろん灰は付いていない。傷もない。あるのは、握ってほどいた時の筋の痛みだけだった。
「寝てない顔」
背後から声がした。
振り向くと、陽鳥が中庭の戸口にもたれていた。白衣ではない。昨夜のままに近い上着で、髪だけが朝の薄い光を拾っている。いつから見ていたのか分からない顔だ。
「……起きてたのか」
紺野が言う。
「起きたの」
陽鳥は肩を竦める。
「健ちゃん——」
言いかけて、止まる。少しだけ声の温度が変わりかけたのを、自分で戻した。
「紺野少尉、外で寝ぼけると風邪ひくよ」
いつもの軽口に寄せている。だが、目は紺野の手を見ていた。手を握って開いた後の、わずかな強張りまで見ている目だ。
紺野は視線を外し、空を見た。
「夢を見た」
陽鳥の返事は一拍遅れた。
「……そう」
「変な夢だった」
紺野はそれ以上言わない。少女のことも、灰の停車場のことも、まだ言葉にする気になれなかった。言葉にした瞬間に、どこへ落ちるか分からない種類の夢だったからだ。
陽鳥も踏み込まない。
踏み込まないまま、中庭の石畳へ目を落として言う。
「今日は先に一個、外で言う」
昨夜までの約束の続きみたいな声だった。
「寄せてくる線と、言わない理由」
「朝から仕事の話か」
紺野は鼻で息を吐く。
「朝だから」
陽鳥は小さく笑う。今度の笑いは薄い。
「寝起きの顔、いちばん嘘つけないし」
その言い方に、紺野は返しかけてやめた。
夢の中で少女が言った言葉が、喉の奥にまだ引っかかっている。
——先に、言って。
誰に、何を、どこまで。それはまだ決めきれない。だが、少なくとも今の自分には、その言葉を無視できない程度の重さだけが残っていた。
東の空が少し明るくなる。本部の中で、湯を沸かす音がした。多分、東雲あたりが起きたのだろう。そのうち始まる。紙の匂いと茶の匂いと、今日の順番がまた動き出す。
紺野は中庭の冷たい空気を一度だけ深く吸って、戸口へ向き直った。
夢の話はまだ机に持ち込まない。持ち込まないまま、今日の問題に先に手を伸ばす。
灰の少女の声は、消えたわけではない。
ただ、いまは喉の奥のざらつきに混ざって、まだ薄いまま残っていた。




