七話 点検日
第七話
7-1 点検日
御親領衛本部の朝は、忙しい者の足音よりも先に、忙しくない者の欠伸で始まることがある。
軍の施設としては致命的な欠陥に聞こえるかもしれないが、残念ながらここでは珍しくない。そもそもこの部隊は、整列と号令で強さを作る場所ではない。各々が勝手な方向に尖り過ぎた結果、辛うじて同じ屋根の下に押し込められているだけの集まりである。言い換えれば、秩序が仕事をしているのではなく、秩序役が過労で支えている。
その秩序役が、今朝も机に向かっていた。
羽場桐妙子中尉は帳簿を閉じると、机上の呼鈴を一度だけ鳴らした。高くも低くもない乾いた音が部屋の空気を切り、廊下の向こうで何かが倒れる音がした。何が倒れたのかを確認しに行かないあたり、この本部に勤める者は全員が学習済みである。
ややあって扉が開く。
「……羽場桐中尉、呼びましたか」
最初に顔を出したのは護国宗一少尉だった。軍装は乱れなく、声も落ち着いている。朝からこの男だけは常に完成している。完成している人間は時に安心を呼ぶが、同時に他人の未完成を容赦なく照らすので、場によっては厄介でもある。
「呼びました。点検日です」
羽場桐は淡々と言う。
「本部内の外象術式補助機構の定期点検に、技研から立会いが入ります。最低限、人間の形をしていてください」
護国は僅かに目を伏せた。了解の意味でもあり、既に手遅れを悟った顔でもある。
「……樋道と支倉ですか」
「それに志摩君と三木さん達です」
「無理ですね」
「無理でもやってください」
会話としては成立しているが、内容は敗北宣言と命令である。
その時、廊下の奥から樋道芳芙美の声が飛んだ。
「やだーッ! ボクまだ顔作ってないんだけど!」
間を置かず別の声が被さる。
「顔はいつも作ってるでしょ。今日は“人間のふり”の方をちゃんとしてって言ってんの」
支倉真名だ。朝から声だけは妙に通る。能力抜きで人の注意を引く資質がある人間は得だが、こういう場所では不意に火種にもなる。
さらにその向こうで三つの小さな声が連鎖した。
「東雲さんがいないー」 「いないとやだ」 「さがす!」
護国が額を押さえる。
「……三木さん達は誰が見ています」
羽場桐は書類をめくりながら答えた。
「見ていません。見ていたら今ここに居ます」
それはそうだ、としか言えない話である。
紺野健太郎少尉が入ってきたのは、その騒音が一通り本部を巡ってからだった。寝坊した顔ではない。むしろ朝から妙に醒めた顔で、黒の軍装だけが無駄に隙なく整っている。人に見せるためというより、自分の輪郭を保つための整え方だ。
「何だ」
開口一番それである。
羽場桐は視線だけ向けた。
「“何だ”ではありません紺野少尉。点検日です」
「聞いてない」
「今言いました」
紺野は短く息を吐くと、部屋の壁際に立てかけてあった訓練用木剣を一瞥した。朝のうちに軽く体を動かしていたのだろう。仕事の熱意が高いわけではない男だが、動けなくなることには敏感だ。高位の神術師が己の鈍りに無頓着でいられるほど、この国は優しくない。
「で、俺は何をやる」
羽場桐は一枚の紙を差し出した。
「見回りです。三木さん達の回収。志摩君の確保。あと樋道君と支倉さんの口喧嘩が能力事故に発展しないよう監視」
「雑用だな」
「御親領衛の平時任務としては上等です」
紺野は紙を受け取ると、内容を一瞥して眉を僅かに動かした。
「志摩を“確保”って何だ」
羽場桐の返答は早い。
「昨夜から本部裏の倉庫で寝ているそうです」
「寮はどうした」
「“廊下で三木さん達が追いかけっこを始めて眠れない”とのことです」
護国が珍しく沈黙した。否定できないからである。
羽場桐はそこで一度ペンを置いた。
「紺野少尉」
「何だ」
「今日は事件の報告はありません。警察からの要請も現時点では無しです」
紺野は紙から目を上げる。羽場桐の言いたいことを測りかねた顔だった。
羽場桐は続ける。
「だからこそ、雑に済ませないでください。平時を保つ仕事は、戦うより面倒です」
その言葉に説教の温度はない。ただ事実だけがある。事実だけで人を動かせるのがこの中尉の厄介なところで、同時にこの部隊が崩れずに済んでいる理由でもあった。
紺野は返事の代わりに紙を折り、胸ポケットにしまった。
「……分かった」
それだけ言って部屋を出る。
護国も続こうとしたが、羽場桐に呼び止められた。
「護国少尉。あなたは私と記録の整理です」
護国が一瞬だけ固まる。現場より机仕事が嫌いという顔ではない。むしろ護国はどちらも出来る。出来るからこそ逃げ場がない。
「了解しました」
羽場桐は頷き、次の書類を開いた。
扉の外では既に樋道の「ちょっと待って前髪が」と支倉の「待たない」が交錯している。軍の朝として正しい光景ではない。だがここでだけは、それが平時の証明でもあった。
7-2
本部裏の倉庫は、軍の施設らしく整然としているはずの場所だった。
はず、というのは現実がそうでないからだ。木箱は積まれているが几帳面ではなく、資材は分類されているが誰が見ても一度は投げ置かれた痕跡がある。管理が杜撰なのではない。管理する人間が御親領衛の出入りを完全には想定していないのである。嵐の通り道に植木鉢を並べるような真似を何度もしていれば、いずれ諦めるのが自然だ。
その木箱の影に、志摩龍二は本当にいた。
リーゼントは潰れていない。そこだけは妙に律儀で、上着を畳んで枕にして寝ている姿は不良というより野営慣れした兵に近い。もっとも口を開けば昭和の街角からそのまま迷い込んだような調子になるのだが。
紺野が足を止めると、志摩は目を開けた。寝起きの反応にしては鋭い。
「……ああ、紺野三席か」
「少尉でいい」
「ここじゃ御親領衛だろ」
志摩は上体を起こしながら言う。口調は崩れているが頭は起きている。学力の高い不良という設定をわざわざ説明する必要はない。こういうところで勝手に滲む。
紺野は壁にもたれたまま用件だけ告げた。
「点検日だ。羽場桐中尉が人間の形をしていろって言ってる」
志摩は鼻で笑った。
「そりゃオレじゃなくて樋道と真名に言う台詞だろ」
「お前にもだ。倉庫で寝るな」
「寝られねえんだよ本部。三つ子が夜中に能力で“東雲さんどこー”って探し始めると、廊下の空気が変になんだろ」
紺野は短く黙った。東雲丈雲が本部に顔を出さない日が続いている。退任の話が形になり始めてから、三木一葉、双葉、三葉の三人は目に見えて落ち着かない。子供だから仕方ないで済ませるには、この部隊で彼女達が持つ能力は重すぎた。
志摩は木箱に肘を乗せ、少しだけ声を落とした。
「……あの三人、東雲さんいなくなるの分かってんだろうな」
「分かってる」
紺野が答える。分かっている、としか言えない。理解していると、受け入れているは別だ。まして相手は子供である。
志摩は立ち上がると制服の裾を払った。
「行くか。アネゴに怒られるのは嫌だし」
羽場桐妙子を前にした志摩は、普段の不良口調のままでも一線を越えない。恐れているのとも少し違う。制御の難しい自分の能力を、彼女だけは最初から“危険”として正しく扱っていると知っているからだ。雑に腫れ物扱いされるより、よほど信頼になる。
歩きながら紺野が言う。
「昨日の夜、能力使ったか」
志摩は片眉を上げた。
「使ってねえよ。……いや、正確には“使わないようにしてた”って方が近いな。寝不足だと漏れる」
「漏れたらどうなる」
志摩は少し考えてから肩を竦めた。
「周りのやつが、まあ、色々どうでもよくなる。音とか怒鳴り声とか焦りとか。便利っちゃ便利だけど、止めどころ間違えると、起きる理由まで薄くなる」
軽く言っているが軽い話ではない。事象減衰は物理だけを削る能力ではない。思考や感情まで巻き込むから厄介なのであり、志摩龍二という人間が御親領衛に居る理由もそこにある。強いからではない。強くて扱いづらく、しかも使いどころがあるからだ。
本部棟へ戻る途中、三つ子のうちの一人、一葉が廊下の角から飛び出してきた。
「紺野さん! 志摩さん! 双葉がまた泣いてる!」
「また、とは何だ」
紺野が言うと、一葉は少し言い淀んだ。
「……さっき、白い人の夢みたって」
志摩と紺野の足が同時に止まる。
白い人。
子供の夢は輪郭が曖昧だ。だが、曖昧だから切り捨てていいものでもない。この国では特に。
紺野は視線を細める。
「双葉はどこだ」
「食堂。三葉がついてる。ふたりで泣いてる」
「一葉は泣いてないのか」
一葉は胸を張った。
「私は泣いてない!」
志摩がぼそりと漏らす。
「一番泣きそうな顔してんのに」
「してない!」
そのやり取りに紺野は何も言わず踵を返した。急ぐ足ではない。だが迷いのない足だった。
平時の雑用のはずが、少しだけ別の色を帯びる。御親領衛の日常では珍しくない。珍しくないから困る。
7-3
御親領衛本部の食堂は、軍施設のそれとしてはやや広い。
正しく言えば、広く作っておかないと困る時があるから広い。普段は空いている。隊員の生活時間が揃わず、そもそも全員が本部で食事を取る日も少ない。だが一度に人が集まると、人数以上の密度になる。会話量ではなく、存在の濃さのせいでだ。
その食堂の隅で、双葉が泣いていた。
三葉が隣で背を擦っているが、慰め方が楽観的すぎて半分は逆効果である。
「だいじょうぶだよ、夢だもん」
「でも白かった……」
「白いのはお米もだよ」
「お米は喋らない……」
会話として破綻しているようで、子供同士だと成立してしまうのが不思議なところだ。
紺野が近づくと、双葉が顔を上げた。泣き腫らした目のまま、紺野の顔を見て少しだけ呼吸が落ち着く。紺野は子供の扱いが上手いわけではない。むしろ得意ではない。だが少なくとも、余計な慰めを口にしないので信用されやすい。
「何を見た」
紺野はしゃがまず、そのまま訊いた。目線を無理に合わせないのは、相手を子供として甘やかさないためでもあり、自分がそういう振る舞いに慣れていないからでもある。
双葉は鼻をすすりながら言う。
「……白いひと。ここにいないのに、いるみたいで。こわいのに、さみしそうで」
紺野の胸の奥に薄く冷えたものが残る。
こわいのに、さみしそう。
言い回しが妙に似ている。誰に似ているのかを考えるまでもない。自分が何度か見た灰色の少女の印象そのものだった。
志摩が横から口を挟む。
「能力の夢じゃねえのか。三叉炉心の残り香とか」
双葉は首を振った。
「ちがう。いつもの夢じゃない」
「いつもの夢って何だ」
「三葉が勝手にプリン食べる夢」
「それ現実!」
三葉が抗議し、一葉が横から「それ昨日もやった!」と追撃する。泣きの空気が少し崩れた。志摩がわざとらしく肩を竦める。
「ほら、戻ってきた」
減衰ではない。笑いの方だ。志摩龍二は能力が厄介なだけで、人間としては案外こういう仕事が出来る。場の温度を読んで少しずらすのが上手い。本人は多分、自覚していない。
紺野は双葉にもう一つだけ訊いた。
「その白いのは、何か言ったか」
双葉は目を閉じて考えた。考える間が長い。適当に答えていない証拠だ。
「……名前、ないって」
名前.....?
紺野は一瞬だけ息を止めた。
すぐ隣で志摩がその変化に気づく。気づいたが訊かない。訊かない方がいい時の勘がある。
その時、食堂の入口から羽場桐の声が入った。
「紺野少尉。志摩君。回収ご苦労様です。三木さん達、泣くのは終わりましたか」
終わりました、と一葉が即答し、双葉と三葉が同時に「まだ」と言った。羽場桐は目を閉じて一拍だけ間を取り、それから食堂全体を見回した。
「では半分終わりです。残り半分に移ります。点検の立会いが来ました。皆さん、最低限の言動を心がけてください」
食堂の空気が一斉に重くなる。
樋道はいつの間にかカウンターの向こうに居て「最低限ってどのくらい?」と真顔で訊き、支倉が「あなたは黙ってるのが最低限」と切って捨てた。護国は既に点検表を持って入口脇に立ち、東雲丈雲は今日は珍しく本部に顔を出していて、少し離れた位置から三つ子を見ている。見守るというより、離れる練習をしている人間の目だった。
そして部屋の奥、いつの間に入ってきたのか、硯荒臣少将が食堂の壁にもたれていた。
「良いな。平和だ」
誰にともなくそう言う。声は軽い。だがその言葉をただの感想として受け取る者は、この部隊には居ない。
平和とは結果ではなく管理だ。この国では特に、放っておけば勝手に保たれるものではない。帳簿を付け、現場を走り、末端の血を拭き、口を閉ざす者の沈黙を数え、それでも零れたものを次の日に持ち越す。その果てに辛うじて残る薄い膜の名前を、平和と呼んでいるに過ぎない。
荒臣は紺野を見た。
「少尉。顔が悪いな」
「元からです」
「違う。考え事の顔だ」
紺野は返さない。返さない代わりに、双葉の言葉を胸の内で反芻していた。
名前がない。
名を持たないものは、この国では珍しくない。呼ばれぬまま消える末端もいる。記録に残らぬまま処理される事件もある。だが、名を持たないことそのものが気配になる存在は、そう多くない。
羽場桐が手を叩いた。強調したい場所だけに置かれる、短い音だった。
「整列は不要です。散らばらないでください。それだけ守ってください」
御親領衛の食堂にしては、十分に立派な命令だった。
誰も返事をしない。だが誰も逆らわない。これもまた、この部隊なりの秩序である。
紺野は食堂の窓際へ目を向けた。昼の帝都は明るい。明るいが、時々そう見えるだけのことがある。そういう都で生きる者は、光を見てもまず影の位置を確かめる癖がつく。
今日の任務は点検立会いだ。報告書に書ける事件はひとつも起きていない。起きていないはずだ。
それでも胸の奥には、名のない違和感が残る。
平時は、往々にしてそういう形で次の問題を連れてくる。




