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六話 志摩


六話


志摩


志摩龍二は、現場に立つだけで空気を悪くする。

人格の話ではない。場の質が変わるのだ。

逆立てた髪、崩した制服、口端にかけた笑い。路地裏の入口に背を預ける姿だけ見れば、軍人というより喧嘩帰りの不良だ。帝都の夕方はまだ明るいのに、そこだけ妙に薄暗い。日が届かないからではない。届く光の元気が削られている。


「志摩。勝手に動くな」


護国宗一少尉が低く言う。


「へいへい、宗一アニキ。わーってるって」


軽い返事のわりに目だけが冴えている。冴えた目は周囲の温度を削る。笑っていても、何をどこまで止めるべきかだけは計っている目だ。

紺野は志摩を見なかった。見れば分かる。分かれば判断が増える。判断が増えれば手が先に動く。勝手に動く手が何を呼ぶか、紺野自身が一番よく知っている。

路地裏の先、古い雑居ビル。空室が多いのに人の出入りだけはある建物だ。

羽場桐が帳簿を作り、護国が線を引き、東雲丈雲が逃走経路を潰し、最後に志摩が照合に立つ。御親領衛の仕事は派手な戦闘より、こういう噛み合わせの方が恐ろしく精密な時がある。

東雲が静かに言った。


「今日は確保が主目的じゃない。志摩の減衰と外から乗ってる減衰の差を見る。証拠を拾って持って帰る。それだけだ」


退役した男の声だが、軍人よりも現場の終わり方を知っている声でもある。


「証拠って目に見えねえだろ」


志摩が笑う。


「見えないから見るんだ」


東雲はそれだけ返した。現場では言葉を伸ばさない方がいい。喋るほど場が壊れ、壊れるほど根が逃げる。

紺野が腕時計を見る。予定時刻まで三分。

護国が囁いた。


「……来る」


ビルの角から子供が一人出てきた。十歳前後。小柄で足取りは軽い。軽いのに目は軽くない。誰かの指示を待つ目だ。

子供は入口まで歩いて止まり、そのまま動かない。待機という行為は命令がなければ長続きしない。命令が見えない時、命令は見えない場所から来ている。

護国が志摩へ視線を送る。

志摩は笑って頷いた。


「じゃ、やるわ」


一歩踏み出す。


──瞬間、夕方が鈍った。


色が変わったのではない。世界の反応速度が落ちる感覚が先に来る。

俯瞰すると路地の空気の揺れが止まり、遠くの車音が痩せ、衣擦れの立ち上がりが丸くなる。温度も動きも、その場に薄く貼り付く。あらゆるものが少しだけ億劫になる。


事象減衰。

志摩龍二の能力「逆鱗静域(アンチパレード)


重要なのは、彼が狙ってそれを止めていることだ。止められるほど危険であり、危険だと知った上で使っている。

志摩の顔から笑いが消える。

笑いが剥がれると年相応の必死さが出る。


「重いな……これ。重い」

「自分に掛けるな」


護国の声が飛ぶ。


「掛けてねえよ。掛かってくんだよ。くそ、やっぱ“上”がいる」


志摩の言葉の途中で、子供が首を振った。拒絶ではない。合図だ。

その合図と同時に、空気がさらに薄くなる。

冷えたというより、希釈された。志摩の減衰が「削る」なら、今のそれは「薄める」。抵抗や感情や判断を水で伸ばすように全体へ均していく。

護国が小さく息を吐く。


「……二重だ」


東雲が壁へ手を当てる。影を出さない。出せば壊れ、壊れれば返る。だから触れるだけで違いを測る。


「志摩の波形じゃないな」


東雲の声は低い。


「似てるが方向が違う。志摩は減らす。これは薄める。場を均して従わせる手つきだ」


操るための前処理。そういう匂いが濃い。

子供が口を開く。開いたのに声が遅れて来る。鼓膜ではない。言葉へ乗る意志の方が遅れている。


「……こっち」


子供はビルの扉に手をかけた。鍵は掛かっていない。掛ける必要がないからだ。入ってきても出ていけなくなるなら、それで足りる。

護国が前へ出ようとした瞬間、紺野の腕がそれを止めた。


「待て」


護国が紺野を見る。


「行かせるのか」

「今止めると根が飛ぶ」

「根を追うなら踏み込むしかない」

「踏み込む。俺が先だ」


紺野が前へ出る。「先」という言葉だけが妙に子供っぽく聞こえる。守りたいものが増えるほど彼はそうなる。守りたいのに守り方が分からない。分からないから前へ出る。壊れると知っていても出る。

その一拍で胸の奥が鳴った。

鼓動ではない。魂の底が空腹を思い出した音だ。

喰えば終わる。

終わるが終わり方が悪い。

悪い終わり方は次の地獄を作る。それを理解しているのに喉の奥で別の声が囁く。喰え、と。

紺野は奥歯を噛み、現実に戻る。戻れなくなることが一番怖い。そこだけはまだはっきりしている。

ビルへ入る。

廊下は暗い。暗いのに目が慣れない。光量の問題ではない。見えるはずのものが見えないよう均されている。

視界の端で東雲が己の影を一体だけ出した。


形影不如(オルタナティブフロウ)


最大五体まで出せるが壊されればその反動が己に帰る呪詛。老獪なこの男が最小を選ぶ。その選択だけで場の危険度が分かる。


「……いる」


東雲の影が角を曲がった直後、空気が裂けた。

刃ではない。認識で裂かれた感覚だ。


「やめろ」


声がした。

壁から、床から、天井から。つまり誰の口からでもない声。

志摩が呻く。


「うわ……これ俺の縄張りじゃねえ。上書きされてる」


護国が舌打ちする。


「精神干渉か」


紺野は答えない。答えた瞬間に思考が止まり、止まった隙に相手が逃げる。今は正体の輪郭だけでも取る。

突き当たりの半開きの扉を押す。


──世界が軽くなった。


軽いのに立てない。痛くないのに怖い。

この順番が最悪だった。

俯瞰すると部屋は妙に整っている。椅子一つ、机一つ、壁の白紙。何も書かれていない紙ほど不気味なものはない。そこに何を書けるかを想像できてしまうからだ。

机の向こうに人影があった。輪郭が曖昧なのは煙ではない。薄さの方へ均されている。


「……喋ったらだめって言ったのに」


声の主の性別が判別できない。判別できないのに言葉だけが優しい。優しい言葉は往々にして刃になる。

紺野の手が刀にかかる。

抜けば切れる。切れば終わる。終わるのは現象だけだ。根は残る。根が残ればまた子供が喋れなくなり、また血が出る。度し難い、そう思っているのに抜けない。

護国が一歩前へ出た。その瞬間、護国の判断が半拍遅れる。目ではない。判断そのものが伸ばされた。薄められるというのはそういうことだ。義務も倫理も反射も、全部同じ濃度へ均される。


「護国、止まれ」


東雲が言う。


「ここは場だ。相手の本体は居ない」


志摩が歯を食いしばったまま吐き出す。


「アネゴに言われたんだよ。呼ぶなって。なのに呼ばせた。呼ばせるために子供を運ばせた」


誘導だ。こちらの反応を見るための誘導。反応が取れれば次の殺し方を組める。

机の向こうの輪郭が笑った気配を出す。嘲りではない。怒りでもない。ただ結果を知っている側の笑いだ。


「……紺野少尉」


名を呼ばれた瞬間、胸の空腹が跳ねた。魂の縁を舐めるように広がる。世界が喰えるものに見え始める。見えてしまうから怖い。

紺野は一度目を閉じ、開く。


「……俺は、ここでは喰わない」


低い声だった。低いが揺れている。恐怖を混ぜたまま言い切るのが今の紺野の限界だ。


「そう。偉いね」


褒め言葉に吐き気がした。褒める行為は評価だ。評価は支配の入口になる。


「帰るぞ」


東雲が切る。


「ここで粘るほど相手の思う壺だ。今日は輪郭だけでいい」


護国が悔しそうに息を吐く。志摩が舌打ちする。


「くそ。ここ嫌いだわ。頭が削れる」

「それが狙いだ」


紺野が返す。自分の声が少し遠い。だからもう一度、短く言う。


「……帰る」


四人が部屋を出ると廊下の空気が戻った。生ぬるい。だが吸える。吸えるだけでありがたいと感じてしまう時点で半分負けている。それでも生きている。

路地へ出ると夕方の光が戻る。眩しいが嬉しくない。薄められた世界の味がまだ舌に残っている。

護国が問う。


「証拠は」


東雲が答える。


「志摩の波形とは違う。薄める系統。力場形成。呼ばせる誘導。……十分だ。羽場桐中尉なら扱える形にする」


志摩が笑いを戻そうとして失敗する。


「アネゴ、怒るかな」

「怒るだろうな」


紺野が即答した。即答した自分に少し驚く。怒られる、守られる、そういう幼い基準がまだ胸のどこかに残っている。

戻りの車内で紺野は窓に映る自分の顔を見る。軍人の顔だ。だが目だけが現場に残っている。

その目が一瞬、別の色を拾った気がした。



──灰色。



瞬きひとつの間、座席の向こうに誰かが立っていた気配。

見間違いだと思う。そう思わなければならない。追えば次が始まる。次が始まれば、終わりは近づく。

紺野は窓から目を外した。

胸の奥の空腹がようやく黙る。消えたわけではない。黙っただけだ。それでも今日はそれでいいことにする。


勝てる相手には勝て。勝てない相手には生きろ。

その言葉だけが、帰路の中で妙に重く残った。


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