三話 位階
三話 位階
帝都の朝は、妙に澄んでいる。
空が澄んでいるのではなく、音が澄んでいる。人の声も、車輪の軋みも、遠くの鐘も――必要なものだけがこちらに届き、不要なものは最初から存在しなかったかのように薄い。そういう都市だ。天帝の都というのは、呼吸の仕方からして地方と違う。
紺野健太郎は、その澄んだ音の上に、自分の足音を重ねて歩いていた。
制服の黒は、帝都では目立つ色だ。にもかかわらず、誰も目を合わせない。視線は避けるのに、身体は避けない。避けているのは彼ではなく、“近衛”という言葉の方だ。たぶん、帝都では近衛の制服は天気と同じ扱いをされる。晴れているからといって、空を睨みつけたりはしない。嵐なら、なおさら。
軍令部の構内を抜け、外に出る。空が高い。だが高いからといって、紺野の気分が軽くなることはない。今日も仕事がある。仕事は、殺したり、殺さなかったりだ。昨日の列車で口から漏れた言葉を、紺野自身がいまだに反芻しているのだから始末が悪い。
背後から、車のドアが閉まる音がした。
「紺野少尉」
呼びかけは階級だ。軍属同士は階級優先――この国の軍にいる限り、それだけは裏切らない規則だ。
振り向けば羽場桐妙子中尉がいた。いつも通り、背筋が真っ直ぐで、表情は平板に整っている。整いすぎている、と言った方が正しい。人は疲れれば皺が寄るし、苛立てば眉が動く。だが羽場桐の顔からは、それが見えない。あるのは“場を崩さない”という意思だけだ。
「本日の予定を伝えます。――任務ではありません。確認です」
「確認?」
「貴官の位階に関する、最低限の取り扱いです。現場に出れば嫌でも知ることになりますが、知ってからでは遅い類のものがあります」
紺野は頷いた。つまり、面倒なやつだ。
羽場桐は歩き出す。紺野も並ぶ。並ぶと言っても、ほんの僅かに遅れる。習慣だ。上官の半歩後ろ。身体が勝手にそうする。
「紺野少尉。あなたは、位階を“強さ”だと思っていますか」
不意に問われる。
紺野は一拍置いた。こういう質問は嫌いだ。答えが一つではない。答えを間違えると相手の求める“筋”から外れる。だが、羽場桐の問い方には癖がある。彼女は正解を当てる遊びをしない。必要な情報だけを先に置く。
「……強さの指標でしょう。少なくとも実務上は」
「ええ。実務上はそう扱われます。ただ、誤解が多い。だから、今ここで修正します」
羽場桐は歩きながら、まるで事務書類を読み上げるように言う。
「位階は、能力の“派手さ”では決まりません。破壊力でも決まりません。――魂の出力、存在格で決まります。あなたがいま正二位であることは、あなたが何を出来るかより、あなたが“どれだけ重い存在か”で決まっている」
重い。嫌な言い方だ。だが、否定はできない。紺野は自分が重いことを知っている。知っていて、見ないふりをしてきた。
「だから、こういう現象が起きます」
羽場桐が足を止めた。ここは軍令部の外周にある小さな演習区画だった。広くない。むしろ狭い。ここで派手な訓練など出来るはずがない。にもかかわらず、周囲の警戒は無駄に厚い。外象術式の結界が薄く張られているのが、目の端に見える。
そこに、もう一人いた。
護国宗一。近衛少尉。軍属同士なら階級で呼ぶ相手だが、紺野は黙って会釈だけした。護国も同様に最小の礼で返す。彼は常に無駄がない。無駄がないというより、“無駄を許さない”のだろう。
護国の足元に、拘束された男が座らされていた。若い。二十そこそこ。だが目の奥が濁っている。帝都でよく見る濁り方だ。生まれつきの濁りではない。濁らされた濁りだ。
男は顔を上げ、紺野の黒い制服を見るなり、笑った。
「増援かよ。……近衛ってだけで笑えるのに、今日は運がいい。人が多い方が切り甲斐がある」
護国が淡々と言う。
「権利を主張するなら、法廷でやれ。ここは確認の場だ」
「確認? なにを? 俺の方が強いって確認か?」
男が歯を見せる。笑っているのに、眼は笑っていない。興奮だけが先にある。自分が“選ばれた”と思っている顔だ。
羽場桐が言う。
「この者は正四位。正四位としては珍しく、能力の概念が尖りすぎています。本人は自称している。――『何でも切断する』と」
紺野は男を見た。
なるほど。そういう手合いか。
低位の者ほど、能力の説明に酔う。自分の魂の出力ではなく、言葉の派手さに酔う。酔わなければやっていけないのだろう。自分が軽いことを認めたら、世界のほとんどが恐怖になる。
男が紺野を見返す。
「お前が正二位か?」
紺野は答えない。答える理由がない。
男は勝手に続けた。
「じゃあ丁度いい。お前みたいなのを切れば、俺は――」
護国が男の肩を踏んだ。軽く踏んだだけなのに、男の言葉が途切れる。空気が変わる。護国の“冷たさ”は、こういう時にだけ便利だ。情緒が混ざらない。必要な圧だけを出す。
羽場桐が紺野に視線を向けた。
「紺野少尉。あなたはこの者に、触れないでください」
「……触れないで?」
「ええ。触れないでください。あなたが“意識しない状態”を作るためです」
紺野は眉を僅かに動かした。意識しない。つまり、不意打ちの話か。意識しているほど魂の出力が上がる。意識外からなら多少緩む。彼女はそれを、ここで実演するつもりらしい。
「護国少尉。拘束を一段だけ緩めてください」
護国が頷き、拘束具の術式を解除する。完全に解くわけではない。腕は自由になる。足は動かない。逃げられない。だが、能力を振るうには十分だ。
男はその瞬間、笑った。
「馬鹿だろ。……よし」
男が腕を振るう。何かが走った。
見えない線だ。空間に引かれた、薄い、だが確かな線。切断という概念が、そこに“置かれた”。置かれた瞬間、周囲の空気が痩せる。音が細くなる。熱が薄くなる。世界の方が、切られる準備をしてしまう。
――嫌な能力だ。
派手ではない。だからこそ厄介だ。派手な炎や雷なら、見て避けられる。だが“切断”は、見えない。見えないものは、怖い。誰だってそうだろう。見えない刃が自分の首の前に置かれたとき、人はようやく世界の薄さを理解する。
男の切断は、紺野の胸元へ向かっていた。
紺野は動かなかった。
いや、動けなかったわけではない。動く必要がないと判断しただけだ。羽場桐に言われた通り、“意識しない”ために。そういう訓練だろう。そういう確認だろう。
だが、次の瞬間――
──触れた瞬間、切断が死んだ。
男の腕が途中で止まる。いや、止まったのは腕ではない。止まったのは“切断の概念”だ。空間に置かれた線が、まるで水面に落ちた灰のように崩れ、散った。散って、消えた。跡形もなく。
男の顔が歪む。
「……は?」
もう一度腕を振るう。切断を置く。置いたはずなのに、置けない。置いた瞬間に崩れる。崩れる瞬間、男の顔が恐怖で塗り替わる。理解できないものを前にした顔だ。彼が今まで見たことのない種類の敗北。
羽場桐が淡々と言う。
「これが位階差です」
紺野は口を開かなかった。喉が乾いたわけでもない。言葉にする意味がない。だが、胸の奥が冷たくなる。自分の中で当然だと思っていたことが、“現象”として提示されると、別の重さになる。
羽場桐は続ける。
「この者の能力が弱いわけではありません。概念としては凶悪です。ですが、あなたの存在格が上回る。あなたの魂の出力が、その概念を圧し潰す。――あなたが意識していなくても、です」
「……不意打ちでも、ですか」
紺野が言った。口を開かないつもりだったのに、言葉が漏れた。
羽場桐が頷く。
「不意打ちなら“多少は”緩和されるでしょう。魂の出力は戦闘時、意識している時ほど上がるものです。ですが、極端な差は緩和では埋まりません。正四位が正二位を切ることは出来ない。たとえ『何でも切断する』と本人が叫んでも、です」
男が叫ぶ。
「ふざけんな! 切れる! 切れるはずだ! 切れないなら――俺は、俺は……!」
その叫びは、自分に向けられている。紺野はそれが分かる。男は紺野を恨んでいるのではない。世界を恨んでいる。世界が、自分の言葉を許さないことを恨んでいる。
護国が一歩近づいた。男の喉元に軍刀の鞘先を当てる。抜かない。抜く必要がない。
「理解したか」
男は言葉を失い、唇だけを動かす。泣きそうな顔だ。怒りでも憎しみでもない。純粋な敗北の顔だ。自分の価値が軽いと突き付けられた顔。
羽場桐が、紺野に向けて言う。
「あなたがここで覚えるべきは二つです」
紺野は視線を羽場桐に戻す。
「一つ。あなたは“勝てる”のではありません。“負けない”だけです。あなたの勝敗は、あなたの技量ではなく、存在格が決めている。だからこそ、あなたは慢心しやすい」
慢心。紺野は内心で笑いそうになった。自分が慢心?そんな暇があるなら昼寝がしたい。だが羽場桐の言う慢心は、そういう軽い話ではない。
「もう一つ。あなたは“負けない”せいで、世界を壊しやすい。あなたが一度でも間違って力を振るえば、あなたから見ればこの者のような低位の命と心は、抵抗する余地もなく崩れる。――その責任が、高位の義務です」
紺野は目を細めた。
義務。特権。制約。そういう言葉は知っている。だが知っているのと、胃に落ちるのは違う。
男が絞り出すように言う。
「……じゃあ、俺は、何なんだよ。俺の能力は何なんだよ……」
羽場桐が男に向けて、初めて柔らかい声を落とした。
「それでも、あなたは人を殺せます。あなたの位階が低いからといって、あなたが無力だという意味ではありません。――ただ、あなたが“神”ではないというだけです」
男の肩が震える。
紺野はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけざわついた。神、神ではない。神州の国主は現人神と呼ばれる。だが、それは政治的な言葉だ。言葉だが、言葉では済まないものがこの国にはいる。紺野はまだ、そこに触れていない。触れなくていい。触れたくもない。
羽場桐が続ける。
「紺野少尉。あなたは今日、何かを学んだつもりになるでしょう。ですが、あなたはまだ、何も分かっていません」
「……」
「あなたが分かっていないのは、位階の理屈ではありません。あなた自身です。あなたが何を恐れているか。あなたが何を欲しているか。あなたが何に作られたか──」
一瞬、紺野の背中が冷たくなる。
作られたか。誰に、――珠洲原陽鳥の顔が、頭の中で一瞬だけ浮かんで消えた。白衣の女。笑っているのに目が笑わない女性。自分の威圧と攻撃性を、あまりにも自然に植え付けた人間。
紺野は目を逸らした。逸らした先に、拘束された男がいる。彼はもう抵抗しない。抵抗できない。理解したのだ。世界が、自分の言葉を許さないことを。
だが、紺野は違う。
世界が許さないのではなく、紺野が許されている。許されてしまっている。だから怖い。許されている者ほど、間違えた時に壊す。
多くの下位神術師、市井の人間はどう感じるだろうか。羨ましいと思うか。怖いと思うか。
――たぶん、両方だ。人間の感情はいつだって二枚舌だ。
羽場桐が言う。
「では帰りましょう。今日の確認は終わりです」
護国が男を引き上げる。あまりに手際がいい。手際が良すぎる。罪に冷酷になる、という羽場桐の評は正確だろう。正確すぎて、救いがない。
歩き出す三人の背後で、男が小さく呟いた。
「……不平等だ。……こんなの、おかしいだろ……」
紺野は足を止めなかった。振り返らなかった。振り返る理由がない。だが、その言葉だけは耳に残る。
不平等。おかしい。狂っている。
帝都の歪みを語る者は多い。だが、いま男が吐いた言葉には、ただの愚痴ではない重さがある。位階の現実を目の前で叩きつけられた者の言葉だ。理屈ではなく、傷だ。
紺野は思う。
――この国は多分、これからもっと歪む。
そして、その歪みを正すのは政治家でも議会でもない。少なくとも最初は違う。最初に歪みに触れるのは、こういう連中だ。近衛だ。御親領衛だ。災厄と呼ばれる側だ。
紺野健太郎は、ため息を飲み込んだ。
余計な思想は持たない。課せられた役目を過不足無く果たす。それが自分の仕事だ。
――だが、役目は、勝手にこちらを選ぶ。
そして今日、その役目の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなった。
それだけで十分に、不愉快だった。




