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十五話 灯の数え方.弐


十五話 


灯の数え方.弐


廊下の灯りが、ひとつ消えた。


消灯そのものに意味はない。軍令部の古い区画では配線の癖で時々ある。誰もがそう知っている。だから普段なら気にも留めない。だが、意味のないはずのものに先に意味を与えてしまった後では、ただの瞬きさえ人の喉を締める。

明灯会の詰所に間借りしている帳場番の男は、帳簿の頁から顔を上げた。上げたというより、弾かれた。手元の筆が止まり、墨が一点に溜まる。黒い点がじわりと紙を汚す。些細な汚れだ。だが今夜に限っては、その小さな滲み方まで悪い兆しに見えた。


「……今の、見たか」


向かいの若い女が頷く。喉を使わず、顎だけで。部屋の中では誰も声量を上げない。善行団体の事務所に似つかわしくない静けさだった。外から見れば寄付台帳と炊き出し記録と生活相談の札が並ぶだけの部屋である。実際、そのどれも嘘ではない。嘘ではないのが厄介なのだ。善いことをしている人間ほど、自分が追われる理由を想像しない。だが、追われる理由を持つ善人もいる。あるいは、善を看板に使う者もいる。今ここにいる連中は、その両方だった。


「二消一灯じゃない」


若い女がようやく声を出した。細い声だったが、細いまま硬い。


「最初の一つだけだ。続きがない」


帳場番の男は筆を置いた。指先に墨が付く。拭く気にもならない。


二消一灯。二つ消えて一つ点く。明灯会の“安全側”からだけ流していた内輪の合図である。見張りが変わる時、荷の動線を一時止める時、末端を退かせる時。要は、善行の帳場の裏で別の帳尻を合わせるための合図だ。そんなものが、今夜は一つしか消えない。

間違いならいい。だが、間違いにしては出来すぎている。ほんの半刻前、別口から戻った小僧がこう言ったのだ。西側の支援倉庫で、炊き出し札の綴り順が逆だった、と。炊き出し札の綴り順など、外の人間には意味を持たない。内部でしか使わぬ印である。その印が崩れていた。


「……誰かが触ってる」


帳場番の男が呟く。言ってから舌打ちを堪える。口にした瞬間、恐怖は形になる。形になった恐怖は仕事を遅らせる。遅れは痕跡になる。

向かいの女は紙束を抱え直した。指先が白い。強く持ち過ぎている。


「表は崩れてない。炊き出しも相談も予定通り。逆に、それが気持ち悪い」


その通りだった。善性が崩れていない。警察が踏み込む時の荒れ方がない。軍が入る時の音がない。だというのに、内部の符丁だけが少しずつ狂っている。これは摘発ではない。包囲だ。それも、紙でやる包囲だ。

本気で分かっている者ほど、この手の包囲を嫌う。剣は見える。銃は聞こえる。だが帳簿は、気づいた時には逃げ道を塞いでいる。


「上に回すか」


女が問う。

帳場番の男はすぐに答えなかった。上に回すとは、背後の神術師に報せるという意味だ。報せれば守りは厚くなる。だが同時に、守りが動いた痕も残る。何より、いまこの段階で“上”を動かすのは、こちらが符丁の破れを認めるのと同じだ。

沈黙が落ちる。外では笑い声がした。表の相談窓口で、誰かが礼を言って帰る声だ。今日も明灯会は人を助けている。助けているからこそ、誰もすぐには疑わない。そこへ合法の紙が来る。寄付台帳の照会。税の確認。医療物資の搬入経路の照合。炊き出し人数と米の出庫数の付き合わせ。どれも正しい。正しいから拒めない。拒めないから遅れる。遅れた分だけ中が焦げる。


「……まだ回すな」


帳場番の男は言った。


「まず、どこまで触られてるか見る。二消一灯を止めろ。今夜から全部口頭だ」


女の顔が強ばる。


「口頭は危ない。末端が覚えきれない」

「覚えきれない奴は使うな」


言い切った後で、男は自分の声の荒さに気づいた。苛立ちではない。焦りだ。焦りは末端に伝わる。末端は焦ると喋る。喋れば守りが剥がれる。剥がれた守りは、あの黒い連中の鼻先にぶら下がる。


その時、扉が二度、軽く叩かれた。


部屋の空気が止まる。合図ではない叩き方だった。内輪の者なら三度目を入れる。三度目が来ない。

帳場番の男は立ち上がりかけて、止めた。向かいの女が首を横に振る。二人とも同じことを考えている。ここで慌ててはいけない。慌てれば、外の“善い部屋”と中の“汚い部屋”の境目が見える。


「どなたですか」


女が表向きの声で問う。柔らかく、少し疲れた相談員の声だ。

扉の向こうから返ったのは、よく通る女の声だった。丁寧で、角がなく、だからこそ逃げ場がない声。


「帝都議会経由の照会文書の件で。明灯会さんの会計責任者の方はいらっしゃいますか。急ぎではありません、ただ今夜のうちに受領印だけ頂ければ」


部屋の中で、帳場番の男の喉が鳴った。

急ぎではない――その言葉が一番急かしてくる。今夜のうちに受領印だけ。中身を読めとは言っていない。読まなくても印は押せる。押した瞬間から効力が出る書面がこの世には山ほどある。そして、この言い回しをする女はたいてい中身を知っている。

向かいの女が唇だけで名前を作った。


羽場桐。


帳場番の男は目を閉じた。ほんの一息だけ。開いた時には、帳場番の顔になっていた。善行団体の古参。人当たりが良く、寄付者の顔と名前をよく覚えていて、数字に強い、ただの中年男の顔だ。


「……おりますよ。少々お待ちください」


声は出た。震えていない。まだ大丈夫だ。まだ、という言い方をしたくなる時点で負けが始まっているのだが、それでも平静を装うしかない。

扉に向かう足取りは遅過ぎても速過ぎてもいけない。こういう時の歩幅まで、人は帳簿に書かれている。いや、書かれてはいない。だが見られている。見られているものは、いつか書ける形になる。

扉の前で一度だけ息を整える。


開ける。


廊下には羽場桐妙子が立っていた。軍装ではない。軍の黒を脱いで、議会照会の外回りに見える色合いの上着を着ている。それでも立ち姿で分かる。背筋の通り方ではない。通し方だ。崩しているのに崩れていない。

その半歩後ろに珠洲原陽鳥がいた。白衣ではない。薄手の外套に記録端末を抱え、にこやかに会釈している。場違いなくらい柔らかい笑顔だが、帳場番の男はその女を知っていた。名前までは知らずとも、種類は分かる。笑っている方が危ない手合いだ。

そして廊下の角の少し向こう、目立たない位置に高倉源三がいた。八百屋の親父にしか見えない。見えないのに、ここにいる時点で八百屋では済まない。肩を丸めて所在なさげに立っているその男が、紙束の運搬台車にさりげなく手を添えている。台車の車輪が微妙に斜めで、いつでも進路を塞げる位置だ。

なるほど、と帳場番の男は思った。

合法の紙だけではない。逃げる足も見ている。

羽場桐が文書封筒を差し出す。封蝋は議会照会の形式。偽造しにくい、しかし偽造できないとは誰も言わない類のやつだ。だから厄介なのは封蝋の真贋ではない。そんな確認をしている時間をこちらに与えない手際の方だった。


「夜分に失礼します」


羽場桐が言う。声音は穏やかで事務的だ。敵意がない。敵意を見せる必要がない側の声である。


「先方も表向きの活動に支障を出したくないとのことで、まずは照会だけです。受領印を頂ければ、回答期限は明後日まで延ばせます」


明後日。短い。短いが不可能ではない。だから断りにくい。断れないように作ってある。

陽鳥が横で小さく笑う。


「炊き出しの人数、最近すごく増えてますよね。物価も上がってるし大変。こういう時、記録が綺麗だと助かるんです」


帳場番の男はその一言で背中が冷えた。

炊き出し人数。そこを見ている。見ているだけならいい。問題は、どこまで“綺麗さ”の意味を知っているかだ。


「ええ、まあ……皆さん苦労されてますから」


帳場番の男は苦笑を作って受ける。自分でもよく出来たと思うくらいの苦笑だった。善人の苦笑。助けたいのに手が回らない人間の顔。何年もやってきた顔だ。顔だけは。

羽場桐は頷き、印受け台を差し出した。


「ありがとうございます。では、こちらに」


扉の内側で、向かいの女が息を潜めているのが分かる。印を押せば始まる。押さなくても始まる。どちらにせよ始まる。選べるのは、どこから崩れるかだけだ。

帳場番の男は印を持つ手を上げた。上げたところで一瞬だけ止まる。

その止まり方を、羽場桐は見た。見たが、何も言わない。急かさない。急かさないこと自体が急かしになっている。高倉は廊下の奥で視線を外したまま立っている。視線を外したまま、逃げ道の角度だけ見ている。陽鳥は笑っている。笑ったまま、帳場番の男の指先の震えを数えているようだった。


印が落ちる。

紙に赤が付く。


それだけのことだ。紙に印が付いただけ。

だが、部屋の奥で向かいの女が小さく目を閉じた気配がした。二消一灯を止めた夜に、別の灯りが点いたのである。こちらの合図ではない灯りだ。法律と形式と期限で出来た灯りだ。消し方を知らない種類の。

羽場桐が封筒の控えを返し、深くも浅くもない礼をする。


「受領ありがとうございました。明後日までにご回答を。もし記録の整理でお困りなら、こちらで様式の確認だけはお手伝いできます」


最後まで善意の形だった。


形が善いほど、断りづらい。断れない善意は包囲になる。明灯会の表看板が善である以上、その理屈から逃げられない。ここが本当にうまいところだ。相手の善性を崩さずに、中だけを締める。崩れれば勝手に焦る。焦れば自分で印を踏み外す。

羽場桐たちは去る。去り際、陽鳥だけが一度振り向いた。振り向いて軽く会釈する。知っている顔への挨拶にしか見えない、ただの仕草だった。

扉が閉まる。


部屋の中の空気が戻らない。

帳場番の男は封筒を机に置いた。置いてから、ようやく息を吐く。遅い。遅いが、吐かなければ頭が回らない。

向かいの女が低く言う。


「……上に回す?」


帳場番の男は封筒の赤い受領印を見た。今夜の自分の印だ。自分の手で押した。誰に強制されたわけでもない。そういう形にされた。


「回す」


今度は即答だった。


「ただし言い方を選ぶ。踏み込みじゃない。照会だ。紙だ。合法だ。だから厄介だと伝えろ」


女が頷く。立ち上がりかけて、また止まる。


「二消一灯は?」


帳場番の男は首を横に振った。


「今夜は使うな。もう向こうの灯りだ」


その言い方が気に入らなかったのか、自分で舌打ちしたくなる。だが言い得ていた。奪われた合図は戻らない。戻すには、こちらの中身を一度焼き直すしかない。焼き直す間にも紙は届く。期限は進む。善行は続く。末端は働く。焦るのは中だけだ。

外ではまだ笑い声がする。炊き出しの礼を言う声だ。救われた人間の声である。その善い声が、いまこの部屋の誰よりも重くのしかかっていた。

善いことをしている間に追い詰められる。

それが今夜の明灯会だった。

そして本部では、おそらく羽場桐がもう次の紙を選んでいる。陽鳥が数字の癖を拾い、高倉が市場の値段から嘘の仕入れ量を削っていく。刀も銃も抜かれないまま包囲が進む。現場で血を見慣れた連中ほど、こういう戦いを嫌う。嫌うが、効く。

効き始めたものは止まりにくい。

廊下の灯りが、今度は二つ続けて消えた。

誰も合図とは言わなかった。もうそれを口に出す段階は過ぎていた。


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