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十三話 見えぬ糸の置き場


十三話


見えぬ糸の置き場


朝の校門は、いつも同じ音で始まる。

革靴の底が石を打つ乾いた音、友人同士の笑い声、遅刻寸前の駆け足、教師の叱声。国立景道院の正門前には毎朝それだけの雑多があり、そして綾瀬にとっては、それだけで充分だった。雑多であるということは、自分に焦点が当たっていないということでもある。

護国綾瀬は、群れの流れに混ざるように歩く。

姿勢は正しい。歩幅は一定。視線は正面。制服の乱れもない。そういう所だけ見れば、模範的な生徒に見えるだろう。実際、教師の多くは綾瀬を「優秀」と評価する。成績が良く、規律を破らず、実技でも抜きん出ている。口数が少ないことを欠点と見る者もいるが、少なくとも表に出る種類の問題は起こさない。

表に出る種類の、という但し書きが必要なのは、この学校が普通の学校ではないからだ。

異能を持つ子供は、凡庸な学力より先に、自分が他人とどれほど違うかを覚える。しかもそれが数字だけではなく、事故や怪我や恐怖として身体に刻まれるとなればなおさらである。良くも悪くも、ここにいる者は全員、自分の「届く範囲」を知っている。そして他人の「届かない範囲」も、薄々知っている。

綾瀬はそこから一つ飛び抜けていた。

廊下でぶつかった拍子に机を切断した一年生の噂話はもう半年前のものだが、未だに名前だけは残っている。訓練場の的の支柱を、狙っていないのに「ついで」で落としたこともある。見えない糸があるとしか思えない角度で、訓練用の障壁に線が走ったのを見て、教官が数秒黙ったこともある。

だから距離を取られる。

正確には、礼儀正しく距離を取られる。

誰も露骨には避けない。避けないが、隣には座らない。班分けでは一瞬間が空く。話しかければ返事は返る。返るが、それ以上は続かない。綾瀬が悪いことをしたわけではない。ただ、同じ年頃の子供にとって「何をしたら壊れるか分からない相手」と一緒にいるのは疲れるのだ。

それを綾瀬は理解している。

理解しているから余計に、腹が立つ。


「護国さん」


教室に入る直前、担任の女教師に呼び止められた。


「今日の午後の実技、組み替えが入るかもしれません。先に言っておくけれど、あなたのせいじゃないからね」


綾瀬は足を止めて振り返る。


「……何かありましたか」

「昨日、二年の子があなたと同じレーンに入るのを嫌がったの。あなたを名指ししたわけじゃないのよ。.....ただその、怖いって」


綾瀬は一拍置いて、頷いた。


「承知しました。配慮ありがとうございます」


教師は少し困ったように笑った。たぶんこういう時、年相応に不満を言う生徒の方が扱いやすいのだろう。綾瀬は不満を言わない。言わない代わりに、内側で固くなる。


「護国さん、あなたはよくやってるわ。実技の制御も以前よりずっと――」

「授業に遅れますので、失礼します」


礼はした。言葉も荒げていない。充分に丁寧だ。

ただ、その丁寧さの縁が少しだけ冷えたことに、教師も気づいたらしい。引き止めなかった。

教室の席に着く。窓際、後ろから二列目。悪くない位置だ。外が見えるし、前も見える。誰にも気を遣わずに済む。

机の上に教本を置き、開く。文字は目に入る。意味が入ってこない。昼の実技のことを考えているわけでも、教師に言われたことを引きずっているわけでもない。ただ、身体のどこかが薄く尖ったまま戻らない。

綾瀬は右手の指先を、机の裏に当てた。

もちろん能力は使わない。ただそこに、自分の手がどこまで届くかを確認するみたいに触れる。

見えない糸は、置き場を間違えると人を傷つける。

その感覚だけは、誰よりも知っているつもりだった。


昼の実技は結局、組み替えになった。

表向きの理由は「レーンごとの習熟度調整」だったが、そんなものは誰も信じていない。信じていないが、口にしない。学校とはそういう場所だし、ここはなおさらそうだ。

訓練場の床に引かれた白線の内側で、綾瀬は呼吸を整える。

今日の課題は「持続展開と範囲管理」。単純な課題であるほど、誤魔化しが利かない。綾瀬にとって難しいのは発動そのものではなく、むしろ発動しない範囲を作ることだった。

教官が声を上げる。


「開始」


綾瀬は右手を軽く振る。


――瞬間、何も起こらない。


少なくとも、見た目には。

だが、訓練用の標的三つの周囲の空気が変わる。正確には、変わったように見える。あり得た軌道が重なり、そこに見えない線が張られる。本人にしか分からない角度で、斬撃の概念が数本、静かに置かれる。

綾瀬は一本だけ外した。

わざとだ。制御のために。

置けることと、置かないことは違う。能力の強さより先にそこを見ろと兄は言った。あの人は戦う時でもそういう言い方をする。勝てとか倒せではなく、線を引けと言う。

教官が別の生徒の方へ向いた、その刹那だった。


後方のレーンから、短い悲鳴が上がる。


綾瀬の肩が先に動いた。頭で考えるより早く、視線が飛ぶ。

二年の男子生徒が、展開中の外象術式を暴発させていた。盾のはずの術式が反転し、自分の腕に熱を返している。大きな事故ではない。大きな事故ではないが、躊躇すれば火傷が深くなる類の事故だった。

教官も動く。だが一歩遅い。

綾瀬はレーンの外へ踏み出しかけて、足を止める。

ここで自分が能力を使えば早い。早いが、訓練場全体に張っている線のどれかが予期せぬ角度で干渉する可能性がある。事故を止めるために別の事故を作れば意味がない。

一瞬、迷う。

迷いの中で、教官の術式が間に合った。暴発した熱が逸れ、生徒の腕をかすめて壁の遮熱板に吸われる。訓練場に焦げた匂いが広がった。

大事には至らない。見れば分かる。分かるのに、綾瀬の心拍だけが戻らない。

教官が怒鳴る。


「持続展開中に意識を切るな!」


叱責を受けた生徒は青い顔で何度も頭を下げる。周囲の生徒達は安堵半分、怯え半分の顔をしている。事故それ自体より、事故が起こり得る場所に自分達がいることを思い出した顔だ。

その視線の一部が綾瀬に向く。

お前なら止められたんじゃないか、という目ではない。

お前が動かなくてよかった、という目だ。

綾瀬はその意味を正確に読み取ってしまう。読み取れてしまう自分がさらに嫌になる。

授業が終わる頃には、訓練場の空気は元に戻っていた。戻っていたが、綾瀬の中の尖りは朝より少し深くなっていた。


放課後、校門の外に黒い軍用車両が停まっているのを見た時、綾瀬は露骨に眉をひそめた。

隠すつもりはない。隠したところで兄には分かる。

運転席の窓が下りて、護国宗一が顔を出す。


「乗れ」


挨拶より先にそれだった。

綾瀬は鞄を持ち直しながら言う。


「事前連絡がありませんでした」

「今決まった。帝都方面で小件が一つあったが、出動は不要になった。帰り道が同じだから拾うだけだ」

「私は一人で帰れます」

「知ってる」


宗一はそれだけ言って、さらに何かを付け足すでもなく前を向いた。

この人はこういう所がずるいと綾瀬は思う。命令するなら命令しろ、心配するなら心配だと言え、と思うのだが、兄は大抵その中間を選ぶ。拒絶しづらい線だけを残してくる。

結局、綾瀬は後部座席に乗った。

車両がゆっくり動き出す。窓の外を校門が流れ、制服姿の生徒達が遠ざかっていく。

しばらく沈黙が続いたあと、宗一が言った。


「今日は組み替えだったらしいな」


綾瀬は即座に返す。


「誰から聞いたんですか」

「教師の知り合いがいる」

「兄さんは顔が広すぎます」

「お前が狭すぎる」


言い返され、綾瀬は口を閉じた。

宗一はハンドルを切りながら続ける。


「気にするな、とは言わない」


綾瀬は窓の外を見たまま、小さく笑った。笑いというより息に近い音だった。


「珍しいですね。そういう言い方」

「気にするなと言われて気にしなくなるなら、誰も苦労しない」

「……なら何を言うつもりですか」

「お前は自分で線を引けてる。そこは誇っていい」


綾瀬の視線が、ようやく前へ戻る。

宗一の言葉は飾りがない。慰めようとしている言い方でもない。事実の確認として言っている。だから逆に刺さる。


「今日も、止められそうな事故がありました」


綾瀬はぽつりと言った。


「でも止めませんでした。止められなかったじゃなく、止めなかった。私が動いた方が危ないかもしれないと思ったから」

「正しい」

「でも周りはたぶん、私が動かなくてよかったと思ってます」


宗一は少しだけ間を置いた。


「それも正しい」


綾瀬は唇を噛んだ。

正しい、が続くと逃げ場がなくなる。自分の不快さが誰の間違いでもないと分かってしまうからだ。

宗一は横目で一度だけ妹を見て、また前を見る。


「綾瀬。お前が求めてるのは“評価”じゃなくて“同席”だろう」


綾瀬の肩が小さく揺れた。

図星だった。図星すぎて、反発の言葉すら出ない。


「怖がられても仕方ないのは分かってる、でもそれで終わるのは嫌だ。違うか」


綾瀬はしばらく黙っていたが、やがて低く答えた。


「……違いません」

「なら急ぐな」


宗一の声は相変わらず静かだった。諭すというより、線を引く時の声だ。


「お前の能力は強い。強い能力は便利だが、強い能力に最初から“安心”はつかない。先につくのはだいたい恐怖だ。そこは順番の問題だ」

「順番」

「そうだ。恐怖のあとに、ようやく信用が来る。たまに来ない。来ない相手は切る。全部取ろうとするな」


綾瀬は窓に映る自分の顔を見た。思っていたより幼い顔をしている。兄から見ればまだ子供なのだろうし、実際子供なのだろう。だが、自分の能力は子供の大きさでは扱ってくれない。


「兄さんは、最初から信用されていたんですか」


問うと、宗一は珍しく鼻で笑った。


「まさか」


車が赤信号で止まる。短い静止の中で、宗一が続けた。


「俺は今でも“便利だから使う”と思われてる時がある。軍では特にな」

「……兄さんでも」

「俺でもだ」


宗一はそこで一拍置いた。


「だから、お前がそれで傷つくのは当然だ。傷つくなとは言わん。ただ、その傷で刃を振るうな」


綾瀬は目を伏せた。

その言葉の意味は分かる。分かるし、過去に何度かやりかけた覚えもある。棘のある口調で相手を切るのは簡単だ。実際、綾瀬はそれが得意な部類だろう。能力が見えない糸なら、言葉の方は見えているぶんだけ余計に切れる。


「……努力します」


綾瀬が言うと、宗一は首を振った。


「努力はいらない。覚えてろ。切る前に一呼吸置け」

「それを努力って言うんです」

「そうかもしれん」


信号が変わり、車が再び走り出す。

会話はそこで途切れた。途切れたが、綾瀬の中の尖りは朝より少しだけ丸くなっていた。消えたわけではない。そんな都合のいいものではない。ただ置き場が変わった。それだけで呼吸が少し楽になる。


御親領衛本部に着く頃には、空は夕方の色に変わっていた。

綾瀬は車を降り、鞄を肩に掛け直す。宗一も降りる。兄妹で並んで歩くのは久しぶりだったかもしれないと、ふと思う。

玄関を入ると、受付の若い軍属が一瞬だけ目を丸くした。


「護国少尉と……あ、妹さん」


綾瀬は軽く会釈する。宗一が先に言った。


「少しだけ顔を出す。荒臣少将には話を通してある」

「承知しました」


本部の廊下は相変わらず静かだった。静かだが、学校の静けさとは種類が違う。こちらは本当に、何かが起きる前の静けさだ。

部屋の扉を開けると、羽場桐妙子が帳簿を見ていて、東雲丈雲が三つ子に囲まれていて、高倉源三が誰かの差し入れらしい菓子箱を開けていた。樋道芳芙美は鏡を見ていて、支倉真名はその横で呆れた顔をしている。志摩龍二は壁にもたれ、たぶん内緒で没収された煙草の行方を考えている。紺野健太郎は窓際に立ち、珠洲原陽鳥はその少し後ろで笑っていた。

硯荒臣は紙の山の向こうにいる。

視線だけが先に綾瀬を捕まえた。


「おや」


荒臣が言う。


「珍しい客だな。どうした護国兄妹、喧嘩の仲裁か」

「違います」


綾瀬は即答した。宗一より先だった。

部屋の何人かが小さく笑う。笑いは悪意のないものだった。学校の教室で向けられる視線とは違う種類の軽さがある。ここでは綾瀬は「危ない生徒」ではなく「護国少尉の妹」で、同時に「御親領衛の出入りする高校生」だ。充分変だが、それでも役割がある。

羽場桐が手を止めて言う。


「綾瀬さん、来るなら先に言ってください。来客記録を遡って修正する仕事が増えます」

「すみません、急でした」

「宗一さん経由で通達済みなので今回は問題ありません。……一応」


最後の一言だけ少し疲れていた。高倉が菓子箱を綾瀬に差し出す。


「食うか。うまいぞこれ」


綾瀬は一瞬ためらったが、受け取った。


「ありがとうございます」


樋道が鏡越しに言う。


「学校帰りの制服、ずるいなぁ。真名ちゃん、見習って?」

「誰に何を」


真名が即座に返す。志摩が横から綾瀬を見る。


「よう優等生。今日は誰切ってきた」


宗一が志摩の頭を軽くはたいた。


「そういう言い方をするな」

「痛ぇ。冗談だって」


三つ子の一葉が綾瀬のそばまで寄ってきて、じっと制服の袖を見る。


「綾瀬ちゃん、今日も糸あるの」

双葉が続く。

「あるに決まってるよ……たぶん」

三葉が言う。

「見えないの、ずるい」


綾瀬は少しだけ考えてから答えた。


「今日は少なめです」


それを聞いて、一葉がなぜか満足そうに頷いた。

東雲がそのやりとりを見て、小さく笑う。


「少なめ、か。いい言い方だ」


綾瀬はそこでようやく、自分が自然に喋っていることに気づいた。学校では使わない種類の言葉だ。説明でも防御でもない、ただ場に合わせた返事。

居心地が良いとはまだ言えない。言えないが、学校で感じていた尖りが、ここでは少し違う形になる。ここにも危険はある。むしろこちらの方がよほど危険だろう。それでも、危険であることを前提に席がある。

それは思っていたより、救いに近い。

荒臣が紙の山の向こうから言う。


「綾瀬」

「はい、硯閣下」

「君は強い。だから疎まれることもある」


綾瀬は姿勢を正す。部屋の空気が少し静まる。荒臣の声は軽い時ほど、何を言うか分からない。

荒臣は赤い目を細めたまま続ける。


「だが安心しろ。ここでは強いだけでは足りん。面倒で、偏っていて、ろくでもない所まで揃ってようやく一人前だ」


部屋のあちこちから小さな抗議が上がる。


「少将、それ一人前の条件として終わってません?」 「ボクは可愛いも揃ってるよ」

「ろくでもないは余計だろ」

「いやだいたい合ってる」


荒臣は笑った。


「ほらな。良い職場だろう」


綾瀬は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

兄が隣でそれに気づいている気配がしたが、何も言わない。言わないでくれることがありがたかった。

見えない糸の置き場は、たぶん一つではない。

学校では学校の置き方がある。ここにはここの置き方がある。どちらも間違えれば人を傷つけるし、どちらでも孤立する日があるだろう。それでも、置き場を増やせるなら、そのぶんだけ切らずに済む。

綾瀬は受け取った菓子を一つ口に入れる。

甘かった。思っていたより、ちゃんと甘い味がした。


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