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十話 紙の匂い

十話


10-1 紙の匂い


御親領衛本部の空気は、血の匂いより先に紙の匂いがする日がある。


現場帰りの泥や焦げよりも、乾いた繊維と墨の匂いが強い朝だ。そういう日は大抵、誰かが死ぬ一歩手前まで行っていない代わりに、誰かが人を死なせる段取りだけを済ませている。目に見える騒ぎがないからといって穏やかだと思うなら、それは外から見た軍の話である。ここは違う。静かな時ほど、手遅れの形が整っていく。


羽場桐妙子中尉は机の上に積まれた帳簿の束を見下ろしていた。


警察からの押収物記録。商会の納品控え。寄付金の流れ。診療所の会計。炊き出しの物資受領票。紙の表題だけ見れば、どれも帝都の善良さを証明するものばかりである。困窮者支援。少年保護。職業斡旋。生活再建。言葉はどれも美しい。美しい言葉ほど、帳簿の数字は冷たい。


部屋の向こうで樋道が何か騒いでいたが、羽場桐は顔を上げなかった。騒音は御親領衛では背景である。背景をいちいち見ていたら、前景の歪みを見落とす。


「高倉さん」


呼ばれて顔を上げたのは、机の端で湯呑を両手に包んでいた高倉源三だった。くたびれた八百屋の親父にしか見えない男だが、御親領衛にいる時点で見た目は当てにならない。むしろ見た目が当てになりすぎる者ほど危ない場所である。


「はいよ、中尉」

「この帳簿、見てください」


羽場桐が差し出したのは、明灯会の支出帳だった。市井で名の知れた救済団体である。炊き出しをし、仕事を斡旋し、低位の神術師を保護している。評判だけ聞けば、今の帝都で最も必要とされる種類の善意だろう。だからこそ厄介だった。悪党の帳簿なら最初から疑える。善人の帳簿は、人が自分から目を逸らす。


高倉は湯呑を置き、帳簿を開いた。紙を捲る指が遅い。遅いが迷いがない。市場で毎日数字を見ている人間の手つきだ。仕入れ値、売値、痛み、歩留まり、掛け、回収。生活の数字は桁が小さい代わりに嘘が利かない。利かないものを毎日見てきた人間は、大きい帳簿の嘘にも妙に鼻が利く。


「……綺麗すぎるな」


高倉が言った。

羽場桐が頷く。説明を求める顔ではない。言語化の確認だ。


「どこが」

「まず端数が少ねえ。寄付も仕入れも運賃も、こんだけ数動いてて端数が綺麗に消えるのは変だ。誰かが後で丸めてる。それと」


高倉は一頁戻す。爪が紙の端で止まる。


「野菜の単価が季節に合ってない。こっちは安すぎる日が続いてるのに、その次の週は逆に高すぎる。市場で買ってねえ。別口だ」


羽場桐は短く書き留めた。


「別口、ですか」


「うん。善意の寄付で集めたか、あるいは帳簿にしかない品だな。どっちにしろ市場の流れじゃない」


部屋の空気が少し締まる。高倉は数字を大袈裟に語らない。語らない人間が「変だ」と言う時は、だいたい本当に変である。


そこへ珠洲原陽鳥が入ってきた。白衣の裾を揺らし、片手に薄い端末、もう片方に紙束を持っている。笑っている。いつも通りの笑い方だが、羽場桐はその笑みを見ても安心しない。安心しないようにしているのではない。安心できる種類の人間ではないと知っているだけだ。


「いい匂い。お茶?」


「仕事の匂いです」


羽場桐が言うと、陽鳥は肩をすくめた。


「それ、たぶん一番まずい匂いよ」


机に紙束を置く。研究局経由で回したという物資流通の照合記録だった。羽場桐が一瞥するより先に、陽鳥が指先で頁を弾く。


「明灯会の倉庫周り、運送の経路だけ抜いて見た。表の業者は三つ。実際に同じ時間帯に出入りしてる車両は倍ある」


「未登録車両ですか」


「番号はある。番号はあるけど、積載記録がない。綺麗でしょ」


綺麗、という言い方をする時の陽鳥は大抵ろくな話をしていない。綺麗に揃った数字。綺麗に消えた記録。綺麗に処理された証拠。人が手を入れた痕は、手馴れた者ほど美しく見せる。

高倉が腕を組んだ。


「倉庫で一回混ぜてるな。寄付と仕入れと別口の品。混ぜりゃ見えにくくなる」


「高倉さん正解」


陽鳥は楽しそうに言う。正解を言われて嬉しいというより、話が早い相手を見つけた顔だった。


「で、その“別口”だけど。お金じゃなくて人で払ってる可能性がある」


羽場桐のペン先が止まる。


「説明を」


陽鳥は机の端に腰を預けた。


「明灯会が拾ってる低位の子たち、保護名簿の出入りが不自然。入る数に対して、定着する数が少なすぎる。逃げたにしては追跡記録がない。就労に回したにしては雇用先の控えが薄い。なのに炊き出しと保護の実績だけは増えてる」


「見せ金、いえ見せ人頭ですか」


「そう。数はあるように見せる。でも実体が足りない。足りない分はどこかへ流れてる」


高倉が低く唸る。


「子供を荷みてえに言いやがる」


「荷より悪いよ」


陽鳥の声から笑みが消えたのは一瞬だった。消えた瞬間だけ妙に冷える。次の瞬間には戻る。戻せる人間だ。だから怖い。


「荷なら市場に出せる。でもこれは帳簿にしか出してない。現場に出すのは別の使い方」


羽場桐は帳簿を閉じた。音は小さい。小さいが、その一音でこの場の仮説がひとつの線になったことが分かる。


「明灯会は、低位神術師を保護しているのではなく、選別している」


誰もすぐには返事をしなかった。言葉にした瞬間、善意の看板が別の顔になる。こういう時、最初に沈黙するのは臆病だからではない。言葉の重さを測るためだ。

高倉が先に口を開く。


「選別して、売るのか」


「売る、使う、流す。言い方はいくらでもあるわね」


羽場桐が言う。


「重要なのは用途です。低位を集める意味があるなら、背後に低位ではできない運用をしている者がいる」


陽鳥が笑う。今度は薄く。


「ようやく帳簿が人の顔になってきたね」


9-2


昼を過ぎても本部の奥は薄暗いままだった。

外は晴れているはずなのに、御親領衛本部の窓は光をよく通さない。防護の都合もあるし、そもそもここで働く人間の多くは陽の下で機嫌が良くなる種類ではない。そういう設計なのだろうと紺野は思ったことがある。今日は本部詰めではない彼も、資料運搬の名目で呼び戻されていた。


部屋に入るなり、紺野は紙の山と、その前に並ぶ三人を見て眉をひそめた。

羽場桐は帳簿。陽鳥は照合記録。高倉は仕入れの相場表。やっていることは地味だが、顔つきだけなら前線より危ない。前線は殴れば終わることがある。机の上は殴っても終わらない。


「戻りました」


紺野が告げると羽場桐が顔だけ上げた。


「紺野少尉、ちょうどいい。現場の押収品にあった名簿の写しを」


紺野は封筒を差し出す。羽場桐が受け取り中身を広げる。陽鳥が横から覗き込んだ。


「字が汚い」


「殴り書きですから」


「殴ったのは誰」


「書いた方です」


陽鳥はくすりと笑い、すぐ紙に目を落とした。高倉は横からじっと見ていたが、やがて指で一箇所を示す。


「この印、八百屋の品札に似てるな」


紺野が見る。名前の横に小さな記号が付いている。丸、三角、縦線。子供の落書きにも見えるが、高倉の目はそう見ていない。


「何の印だ」


「質だよ。市場でもやる。痛みやすい、日持ちする、足が早い。言い方は違っても考え方は同じだ」


紺野の顔が硬くなる。

人間に品札を付ける。言葉にすればそれだけのことだが、実際に紙に書かれた印を見ると胃の奥に残る。低位の子供たちが、保護対象ではなく在庫として並べられている手触りがある。

羽場桐は感情を表に出さず印を写し取った。


「高倉さん、この印の分類、仮で構いません。読みを立ててください」


「分かった。だが当たりゃ気分悪いぞ」


「外れればそれでいいです」


こういう返しができるから羽場桐はこの部屋を回せる。希望を言わない。外れればいい、とだけ言う。希望は報告書を曇らせることがある。

陽鳥は名簿の裏面を光にかざした。紙を透かして見る仕草は妙に丁寧だ。


「ねえ羽場桐中尉。これ、同じ帳場で書いてない」


「筆跡ですか」


「筆跡もだけど圧のかかり方。上半分は急いでる。下半分は落ち着いてる。時間が違う。たぶん一回清書してる」


「誰のために」


陽鳥が紙を戻す。


「上に出すため。見せる帳簿ってそういうものでしょ」


高倉が鼻を鳴らした。


「商売でも同じだ。見せる帳簿と、飯食う帳簿は違う」


紺野は黙って三人を見ていた。自分には見えないものがこの三人には見えている。位階の話ではない。これは生活と仕事の話だ。羽場桐は軍の帳簿で嘘を見抜く。陽鳥は記録の構造で手口を読む。高倉は市場の数字で実体を嗅ぎ分ける。


御親領衛は強い者の集まりだと外からは思われている。間違いではない。だが本当に厄介なのは、こういう種類の強さが混ざっているところだ。刀や異能だけで人は狩れない。帳簿で先に首を締めることができる人間がいる。


「紺野少尉」


羽場桐の声で思考を切る。


「明灯会の保護施設、現場の空気はどうでした」


「空気?」


「数字では拾えないものです」


紺野は少し考えた。


「……静かだった。静かすぎた。助けられた人間のいる場所の静けさじゃない。怒鳴る声も泣き声も足りない」


高倉が小さく頷く。


「腹が減ってる場所は静かにならねえからな。多少飯が入っても、人が溜まれば揉める。揉めねえのは、揉める余裕がねえ時か、揉める気を抜かれてる時だ」


陽鳥が机の上で指を止めた。


「揉める気を抜かれてる、ね。いい言い方」


羽場桐はその言葉も書き留めた。


「精神干渉の可能性、補助線として採用します。断定はしません」


陽鳥が横目で見る。


「慎重ね」


「必要です」


「知ってる」


短い会話だが、そこに棘はない。棘がないのに緊張はある。この二人の間では、それが平常だった。


部屋の奥で書類を捲る音がした。硯荒臣少将がいつの間にかこちらを見ている。頬杖をついたまま、赤い目だけが動いていた。


「明灯会、か」


若い声だ。若いが軽く聞こえない。


「良い名前だな。灯を明らかにする。善意の看板としては満点だ」


羽場桐が敬礼するほどでもない距離で姿勢を正す。


「現時点では疑義の段階です」


「分かっている。だから面白いと言っている」


荒臣は紙を一枚抜いて眺めた。


「善意は集金に向く。正義は統率に向く。どちらも人を集める力だ。人を集められるなら軍の真似事はできる。……で、その真似事を誰が教えた」


その問いは部屋に落ちたまま、すぐには拾われなかった。


誰が教えた。そこが根だ。末端を何人潰しても、その問いに届かなければ終わらない。


紺野は刀の柄に触れたが、握らなかった。握る話ではないと分かっている。今日は紙の日だ。紙の日に刀を握ると、大抵ろくなことにならない。


9-3


夕刻が近づく頃、仮の線が一本引かれた。


明灯会の帳簿には寄付と救済の記録がある。市場の相場とは合わない仕入れがある。保護名簿には品定めの印がある。運送には未登録の積載がある。施設の空気は静かすぎる。低位神術師の集団犯罪は増えている。末端は喋れず、喋れば壊れる。


ひとつひとつは証拠にならない。だが並べると顔になる。羽場桐はその「並べる」作業をやっていた。陽鳥は構造を見つけ、高倉は数字の嘘を剥ぎ、紺野は現場の手触りを持ち帰る。東雲や護国が今この部屋にいなくとも、その不在にも役割がある。現場を押さえる者がいるから机が生きる。


羽場桐は確認票ではなく新しい紙を引き寄せた。正式報告ではない。出動判断前の内部整理だ。軍の言葉に直せば「扱える形」にする前の草案である。


「読み上げます」


誰に向けてともなく言う。荒臣も聞いているし、聞いていないふりもしている。


「明灯会は低位神術師保護を名目に人員を集積。帳簿上の物資流通および人員移動に複数の不整合あり。末端集団への統率供給源である可能性が高い。背後に精神干渉系、またはそれに類する統率補助が存在する疑い」


一拍置く。


「ただし現時点で明灯会本体を直接摘発するには証拠不足。先に流通経路の実体を押さえる。倉庫、運送、出入り名簿、保護名簿の対応表を取る」


高倉が口を挟む。


「市場側から当たれる先、二つある。名前出せば明日には噂になる。裏から行くなら今夜だ」


羽場桐が頷く。


「今夜動きます」


陽鳥が笑う。今度の笑みは薄い膜みたいなものだった。


「ようやく外に出る話になったね。帳簿は好きだけど、紙だけだと人の顔が見えない」


「顔が見えたら見えたで、あなたは壊しに行くでしょう」


「中尉は私を何だと思ってるの」


「外部顧問です」


陽鳥は声を立てずに笑った。否定しないのが答えに近い。

紺野は壁から背を離した。


「俺は」


羽場桐が先に言う。


「今回は本部側です、紺野少尉」


不満ではなく確認として、紺野は眉を動かした。


「現場じゃないのか」


「現場に出る前の段階です。明灯会の帳簿がどこまで繋がるか、あなたにも見ておいてほしい。末端を切るだけでは終わらないと、実感として持ってください」


それは命令であり、同時に教育でもあった。

紺野は一瞬だけ口を閉じ、やがて頷いた。前線の方が性に合う。だが性に合う仕事だけやっていては、いずれ同じ末端を何度も踏むことになる。そういう話だと分かる程度には、彼ももうこの部屋に馴染み始めていた。

荒臣がそこで初めて紙から目を上げる。


「良いな」


それだけだった。短い許可だ。短いが、逆らう余地はない。


「羽場桐中尉。今夜の人選は任せる。だが一つだけ」


赤い目が細くなる。眠たげな少女の顔のまま、部屋の温度が少し下がる。


「明灯会の看板を先に壊すな。看板は泳がせろ。看板の後ろの手を取れ」


言葉は平坦だった。平坦なのに重い。誰かを赦すとか赦さないとか、そういう温度の話ではない。優先順位の話だ。どこを切れば国の損が少ないかという話を、この少女はいつも先にする。

羽場桐は敬礼した。


「了解しました」


高倉が湯呑を持ち直しながらぼそりと言う。


「善いことしてる顔した連中ほど、看板だけ立派だからな」


陽鳥がそれを聞いて、机の上の帳簿を指で軽く叩いた。


「じゃあ、剥がそうか。丁寧に」


紙の音がした。

小さい音だった。だがその小さな音の積み重ねが、末端で血を流す子供の喉に刺さった杭へ、ようやく逆向きの力を掛け始めていた。


帝都は相変わらず歪んでいる。明灯会の炊き出しには今夜も列ができるだろう。善意の顔も、飢えた顔も、同じ灯の下に並ぶ。


その灯が誰のためのものか。

それを決めるのは、綺麗な言葉ではない。最後はいつも、帳尻である。


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