百十七話 帝都の陰
百十七話
117-1 帝都の陰
帝都外縁の兵舎街は、早朝になると音が二つに分かれる。
一つは、いつもの音だ。
起床ラッパの代わりに鳴る短い号令。水場の蛇口。食堂へ流れる靴音。整列のために息を呑む若い兵たちの沈黙。
もう一つは、平時に混ざらない音である。荷台の板が閉じる音。工兵用の鉄杭を束ねる金具。仮設柵を積んだ車が、まだ暗いうちから低く唸る音。
紺野健太郎は、その二つの音の境目を歩いていた。
右手が膝の横で一度握られる。
怒りを先に握る癖だ。
だが今朝は、怒りそのものより「前へ出るな」と自分に言い聞かせるための握り方だった。
兵舎街の道は広い。
広いのに、見える景色は狭かった。
通りの角ごとに兵が立ち、交差点ごとに工兵の車列が止まり、路肩にはまだ使っていない仮設柵が積み上がっている。
露骨な展開ではない。戦争の顔はしていない。
そのくせ、ここから先に道路と官庁街と通信局を縛るだけの手数が、もう全部揃っていた。
帝都近衛第二師団。総数約二万人。
その全てが見えているわけではない。見せる必要もない。官庁街、通信・交通拠点、災害予備、工兵、障害物設置。都市の喉だけ押さえる位置に、必要な数だけが置かれている。
見えている兵数が問題ではなかった。
その置き方が、最初から「こちらの止め方」まで読んでいるのが嫌だった。
宗一は別線の照合へ切られた。
東雲もいない。
高倉も真名も、それぞれ別の顔をした異常を見に行っている。
だから、いまここにいるのは紺野だけだった。
一人で来たのは、格の問題ではない。
同時進行の朝に、誰かを連れて歩く時間そのものが値段になる。
いま欲しいのは「斬れるかどうか」ではなく、「ここで誰がどんな顔をして立っているか」だった。
兵舎前の広場で、第一中隊が整列していた。
整列と言っても、出征の整列ではない。災害出動前のそれに見える。背嚢は軽い。銃は携行しているが、弾帯は目立たない。
紺野の目が、列の端に止まる。
同じ制服。
同じ師団章。
同じ敬礼。
そのはずなのに、顔が三種類に分かれていた。
一つ目は、何も知らない顔だ。
本当に防災演習だと思っている。命令文をそのまま信じ、正しい朝の緊張だけを抱えている。
二つ目は、知っている顔だ。
知っているが、悟られないようにしている。目線を動かしすぎない。姿勢が崩れない。落ち着きすぎていて、逆に浮く。
三つ目は、そのどちらのふりをすべきか決め切れていない顔だった。
そして、一番数が多いのは大抵それだ。
「……地に足がついてないな」
呟いてから、紺野はそれ以上歩を早めなかった。
走ると、視線が集まる。視線が集まると、ここは現場になる。現場になった瞬間、向こうの紙が一枚増える。
117-2
広場の端で、若い中尉が気付いた。
気付いたが、すぐ来ない。
まず後ろの大尉を見る。大尉はさらに横の工兵少佐を見る。少佐は通りの角に立つ憲兵と目を合わせる。
そこまで見てから、ようやく中尉がこちらへ来る。
その一連の流れだけで十分だった。
確認が多い。
確認が多いということは、誰も自分の判断に自信を持てていない。
「御親領衛少尉殿」
中尉が敬礼する。
姿勢は綺麗だ。
綺麗だから、余計に初々しい。
「帝都近衛第二師団、第二警備連隊、三浦中尉です。
本区域は総合防災演習に伴う先行警備帯となっています。通行には指揮所の確認が——」
「知っている」
紺野は短く切った。
怒鳴らない。
怒鳴れば、この中尉が“脅された現場”になる。
三浦中尉の喉が鳴る。
若いが、馬鹿ではない。目の前の相手が何者かは分かっている。分かっていて、なお手順を捨てられない。
「確認だ」
紺野が言う。
「お前達の主眼は何だ」
三浦は答えかけて、止まった。
主眼。
そう言い換えられると、途端に今朝受けた命令文の奇妙さが口に引っ掛かる。
「……官庁街への不測事態波及の阻止、です」
官庁街。
帝都の命令文だ。
紺野は視線を少しだけずらす。
工兵少佐の横に立つ別の小隊長が、こちらを見ている。
その目は、三浦中尉の目と違った。
落ち着きすぎている。
つまり、知っている側だ。
紺野はわざと、その男に聞こえるくらいの音量で言った。
「じゃあ、港湾と燃料線は誰の敵だ」
三浦の顔が固まる。
「……港湾、ですか」
知らない。
本当に知らないのだ。
その横で、工兵少佐の眉が僅かに動いた。
知っている。
知っているが、それをここで若い中尉に渡したくない。
渡した瞬間、この広場は同じ師団の中で二種類の戦争を見始める。
「そういうことか」
紺野が低く言った。
三浦中尉はもう答えられない。
答えれば、知らなかったことを認める。認めた瞬間、誰かが後でその顔を使う。
「少尉殿」
今度は工兵少佐が前へ出た。
「本件は災害対策上の配置であり、区域ごとの優先任務は当然異なります」
正しい。そして、その正しさの裏に「味方同士で任務の敵性認識が違う」という最悪の事実が隠れている。
紺野は少佐を正面から見なかった。
肩口だけを見る。
目を合わせると、向こうが対話の書式を作る。
「当然、ね」
紺野が言う。
「だったら、その当然で何人止める気だ」
少佐は返さない。
返せないのではない。返した時点で、自分がどこまで知っているかが露出する。
広場の列が微かに揺れる。
兵たちはまだ整列を崩さない。
崩さないが、耳だけがこちらを向いている。
こういう時に一番嫌なのは、命令を疑い始めた兵ではない。疑い始めた瞬間に、自分の疑いが正しいかどうかを隣の兵へ聞けない兵だ。
味方確認。
それがもう始まっている。
117-3
通りの向こうで、工兵の車列が動き出した。
荷台には鉄柵。
可搬式の遮断杭。
車止め。
災害時の交通制御にしか見えない。見えないのに、その置き方は戦争だった。
道路そのものが少しずつ狭くなって見えた。
車道が削られているのではない。
「通っていい幅」だけが先に決まっていく。
決まった幅に合わせて、あとから兵と車と市民の順番が押し込まれる。
工兵車三台、警備兵八十前後、憲兵混成の監視班が十数名。
数字にすれば多くない。
だが、それで十分に道は死ぬ。
都市を殺す時、必要なのは火力より幅だ。
「兵は武器で立ってるんじゃない」
紺野は小さく言った。
誰に向けた言葉でもない。
「紙と足で立ってる」
広場の端で、それを聞いたらしい三浦中尉の目が僅かに動く。
若い。
だからまだ刺さる。
工兵少佐が一歩寄る。
寄るが、寄り切らない。
この距離が今日の帝都を表していた。近付きすぎれば味方確認が崩れる。離れすぎれば現場が持たない。
「少尉殿。いまここで問題を起こされると、演習妨害として記録されます」
その一言で、腹の奥が一段冷えた。
脅しではない。
実際にそう記録できる書式が、もうどこかにあるからだ。
紺野の右手が強く握られる。
工兵車をここでひっくり返すのは簡単だ。
整列した兵を前から黙らせるのも難しくない。
難しくないから、一番やってはいけない。
知っている顔。
知らない顔。
そのどちらでもない顔。
同じ制服の中に三種類ある朝に、力で踏み込めば、向こうの欲しい絵が一枚で揃う。
「問題は起こさない」
紺野が低く言う。
「お前らが先に起こしてるだけだ」
少佐の表情は変わらない。
変わらないが、視線だけが一瞬後ろへ走る。
後ろに何かある。
いや、後ろにいる誰かへ見られている。
それで十分だった。
同じ師団の中に、もう監視線がある。
上官が部下を見るのではない。
互いが互いを「どちら側か」で見始めている。
工兵車が交差点へ入り、鉄柵を降ろし始める。
まだ完全封鎖ではない。
災害車両通行優先帯。
緊急搬送確保。
言い方は何でもいい。
要は、正しい顔をした幅の削り取りだ。
紺野はその作業を見て、そこでようやく理解した。
敵は兵を増やしているんじゃない。
兵の反応速度を殺している。
味方同士に、誰を信用してどこまで動いていいかを決めさせ、その照合の間に全部の幅を取る。
それは、下手な砲撃よりずっと嫌なやり方だった。
117-4
端末が震えた。
羽場桐妙子からだった。
紺野は工兵少佐から視線を切り、通りの角へ移動して通話を取る。
『羽場桐です』
「紺野だ」
『見えていますか』
「見えすぎて気分が悪い」
紺野は即答した。
「帝都近衛第二師団、官庁街警備と工兵配置。同じ制服の中で、知ってる顔と知らない顔が混ざってる。
下は本気で防災だと思ってる。上は、“どこまで知ってるか”を互いに隠してる」
向こうで一拍。
羽場桐が計算している間だ。
『承知しました。東都周辺でも同じ温度差が確認されています。西都、北都、南都も同様です。各軍、北都主力に同調した地方部隊と、事情を知らない部隊の間で確認が増えています』
「増えてる、じゃねえな」
紺野が言う。
「もう始まってる」
『はい』
羽場桐は否定しない。
『帝都側の正規大部隊は、いまのままでは即応できません。誰がどこまで信用できるかを、指揮線がまだ切り分けられていない』
紺野は通りの向こうを見る。
工兵車。
鉄柵。
整列した兵。
何も始まっていない顔のまま、都市の幅だけが削られていく。
「じゃあ、次は俺たちか」
問いではなかった。
確認でもない。
もう分かっていることを、自分の口で一度だけ重くするための言葉だ。
羽場桐の返答は短かった。
『その可能性が高いです』
紺野は笑わない。
笑える段ではない。
羽場桐が続ける。
『他が信用できないからです。大部隊を動かすには、いまこの国は確認に時間がかかりすぎる。御親領衛だけが、まだその段を短くできます』
短くできる。
それは誉め言葉ではない。
ただ、真っ先に死地へ押し出される条件だ。
「分かった」
紺野は短く返した。
「だったら、次は止める段じゃない。先に入る段だな」
『ええ』
通話が切れる。
右手が、もう一度だけ握られる。
だが、いまはまだ爆発させない。
爆発させるのは向こうが望む時だ。
通りの向こうでは、鉄柵の最後の一枚が立てられた。
朝の光がようやく強くなり、兵たちの影が長く伸びる。
同じ影なのに、同じ軍服なのに、誰を敵だと思って立っているのかがもう揃っていない。
味方を証明している間に、都市は死ぬ。
紺野はその嫌な実感を、喉の奥へそのまま押し込んだ。
そして背を向ける。
まだここで壊す段ではない。
だが、壊さなければ済まない場所が、もうすぐ来る。
それだけは、分かっていた。




