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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
119/193

百十七話 帝都の陰


百十七話


117-1 帝都の陰



帝都外縁の兵舎街は、早朝になると音が二つに分かれる。


一つは、いつもの音だ。

起床ラッパの代わりに鳴る短い号令。水場の蛇口。食堂へ流れる靴音。整列のために息を呑む若い兵たちの沈黙。

もう一つは、平時に混ざらない音である。荷台の板が閉じる音。工兵用の鉄杭を束ねる金具。仮設柵を積んだ車が、まだ暗いうちから低く唸る音。


紺野健太郎は、その二つの音の境目を歩いていた。

右手が膝の横で一度握られる。

怒りを先に握る癖だ。

だが今朝は、怒りそのものより「前へ出るな」と自分に言い聞かせるための握り方だった。


兵舎街の道は広い。

広いのに、見える景色は狭かった。

通りの角ごとに兵が立ち、交差点ごとに工兵の車列が止まり、路肩にはまだ使っていない仮設柵が積み上がっている。

露骨な展開ではない。戦争の顔はしていない。

そのくせ、ここから先に道路と官庁街と通信局を縛るだけの手数が、もう全部揃っていた。


帝都近衛第二師団。総数約二万人。

その全てが見えているわけではない。見せる必要もない。官庁街、通信・交通拠点、災害予備、工兵、障害物設置。都市の喉だけ押さえる位置に、必要な数だけが置かれている。


見えている兵数が問題ではなかった。

その置き方が、最初から「こちらの止め方」まで読んでいるのが嫌だった。

宗一は別線の照合へ切られた。

東雲もいない。

高倉も真名も、それぞれ別の顔をした異常を見に行っている。


だから、いまここにいるのは紺野だけだった。

一人で来たのは、格の問題ではない。

同時進行の朝に、誰かを連れて歩く時間そのものが値段になる。

いま欲しいのは「斬れるかどうか」ではなく、「ここで誰がどんな顔をして立っているか」だった。


兵舎前の広場で、第一中隊が整列していた。

整列と言っても、出征の整列ではない。災害出動前のそれに見える。背嚢は軽い。銃は携行しているが、弾帯は目立たない。

紺野の目が、列の端に止まる。


同じ制服。

同じ師団章。

同じ敬礼。


そのはずなのに、顔が三種類に分かれていた。


一つ目は、何も知らない顔だ。

本当に防災演習だと思っている。命令文をそのまま信じ、正しい朝の緊張だけを抱えている。


二つ目は、知っている顔だ。

知っているが、悟られないようにしている。目線を動かしすぎない。姿勢が崩れない。落ち着きすぎていて、逆に浮く。


三つ目は、そのどちらのふりをすべきか決め切れていない顔だった。

そして、一番数が多いのは大抵それだ。


「……地に足がついてないな」


呟いてから、紺野はそれ以上歩を早めなかった。

走ると、視線が集まる。視線が集まると、ここは現場になる。現場になった瞬間、向こうの紙が一枚増える。


117-2


広場の端で、若い中尉が気付いた。


気付いたが、すぐ来ない。

まず後ろの大尉を見る。大尉はさらに横の工兵少佐を見る。少佐は通りの角に立つ憲兵と目を合わせる。

そこまで見てから、ようやく中尉がこちらへ来る。

その一連の流れだけで十分だった。

確認が多い。

確認が多いということは、誰も自分の判断に自信を持てていない。


「御親領衛少尉殿」


中尉が敬礼する。

姿勢は綺麗だ。

綺麗だから、余計に初々しい。


「帝都近衛第二師団、第二警備連隊、三浦中尉です。

本区域は総合防災演習に伴う先行警備帯となっています。通行には指揮所の確認が——」

「知っている」


紺野は短く切った。

怒鳴らない。

怒鳴れば、この中尉が“脅された現場”になる。

三浦中尉の喉が鳴る。

若いが、馬鹿ではない。目の前の相手が何者かは分かっている。分かっていて、なお手順を捨てられない。


「確認だ」


紺野が言う。


「お前達の主眼は何だ」


三浦は答えかけて、止まった。

主眼。

そう言い換えられると、途端に今朝受けた命令文の奇妙さが口に引っ掛かる。


「……官庁街への不測事態波及の阻止、です」


官庁街。

帝都の命令文だ。

紺野は視線を少しだけずらす。

工兵少佐の横に立つ別の小隊長が、こちらを見ている。

その目は、三浦中尉の目と違った。

落ち着きすぎている。

つまり、知っている側だ。

紺野はわざと、その男に聞こえるくらいの音量で言った。


「じゃあ、港湾と燃料線は誰の敵だ」


三浦の顔が固まる。


「……港湾、ですか」


知らない。

本当に知らないのだ。

その横で、工兵少佐の眉が僅かに動いた。

知っている。

知っているが、それをここで若い中尉に渡したくない。

渡した瞬間、この広場は同じ師団の中で二種類の戦争を見始める。


「そういうことか」


紺野が低く言った。

三浦中尉はもう答えられない。

答えれば、知らなかったことを認める。認めた瞬間、誰かが後でその顔を使う。


「少尉殿」


今度は工兵少佐が前へ出た。


「本件は災害対策上の配置であり、区域ごとの優先任務は当然異なります」


正しい。そして、その正しさの裏に「味方同士で任務の敵性認識が違う」という最悪の事実が隠れている。


紺野は少佐を正面から見なかった。

肩口だけを見る。

目を合わせると、向こうが対話の書式を作る。


「当然、ね」


紺野が言う。


「だったら、その当然で何人止める気だ」


少佐は返さない。

返せないのではない。返した時点で、自分がどこまで知っているかが露出する。

広場の列が微かに揺れる。

兵たちはまだ整列を崩さない。

崩さないが、耳だけがこちらを向いている。


こういう時に一番嫌なのは、命令を疑い始めた兵ではない。疑い始めた瞬間に、自分の疑いが正しいかどうかを隣の兵へ聞けない兵だ。


味方確認。


それがもう始まっている。


117-3


通りの向こうで、工兵の車列が動き出した。


荷台には鉄柵。

可搬式の遮断杭。

車止め。


災害時の交通制御にしか見えない。見えないのに、その置き方は戦争だった。

道路そのものが少しずつ狭くなって見えた。

車道が削られているのではない。

「通っていい幅」だけが先に決まっていく。

決まった幅に合わせて、あとから兵と車と市民の順番が押し込まれる。


工兵車三台、警備兵八十前後、憲兵混成の監視班が十数名。


数字にすれば多くない。

だが、それで十分に道は死ぬ。

都市を殺す時、必要なのは火力より幅だ。


「兵は武器で立ってるんじゃない」


紺野は小さく言った。

誰に向けた言葉でもない。


「紙と足で立ってる」


広場の端で、それを聞いたらしい三浦中尉の目が僅かに動く。

若い。

だからまだ刺さる。

工兵少佐が一歩寄る。

寄るが、寄り切らない。

この距離が今日の帝都を表していた。近付きすぎれば味方確認が崩れる。離れすぎれば現場が持たない。


「少尉殿。いまここで問題を起こされると、演習妨害として記録されます」


その一言で、腹の奥が一段冷えた。

脅しではない。

実際にそう記録できる書式が、もうどこかにあるからだ。

紺野の右手が強く握られる。

工兵車をここでひっくり返すのは簡単だ。

整列した兵を前から黙らせるのも難しくない。

難しくないから、一番やってはいけない。

知っている顔。

知らない顔。

そのどちらでもない顔。

同じ制服の中に三種類ある朝に、力で踏み込めば、向こうの欲しい絵が一枚で揃う。


「問題は起こさない」


紺野が低く言う。


「お前らが先に起こしてるだけだ」


少佐の表情は変わらない。

変わらないが、視線だけが一瞬後ろへ走る。

後ろに何かある。

いや、後ろにいる誰かへ見られている。

それで十分だった。


同じ師団の中に、もう監視線がある。

上官が部下を見るのではない。

互いが互いを「どちら側か」で見始めている。

工兵車が交差点へ入り、鉄柵を降ろし始める。

まだ完全封鎖ではない。

災害車両通行優先帯。

緊急搬送確保。

言い方は何でもいい。

要は、正しい顔をした幅の削り取りだ。


紺野はその作業を見て、そこでようやく理解した。

敵は兵を増やしているんじゃない。

兵の反応速度を殺している。

味方同士に、誰を信用してどこまで動いていいかを決めさせ、その照合の間に全部の幅を取る。

それは、下手な砲撃よりずっと嫌なやり方だった。


117-4


端末が震えた。


羽場桐妙子からだった。

紺野は工兵少佐から視線を切り、通りの角へ移動して通話を取る。


『羽場桐です』

「紺野だ」

『見えていますか』

「見えすぎて気分が悪い」


紺野は即答した。


「帝都近衛第二師団、官庁街警備と工兵配置。同じ制服の中で、知ってる顔と知らない顔が混ざってる。

下は本気で防災だと思ってる。上は、“どこまで知ってるか”を互いに隠してる」


向こうで一拍。

羽場桐が計算している間だ。


『承知しました。東都周辺でも同じ温度差が確認されています。西都、北都、南都も同様です。各軍、北都主力に同調した地方部隊と、事情を知らない部隊の間で確認が増えています』

「増えてる、じゃねえな」


紺野が言う。


「もう始まってる」

『はい』


羽場桐は否定しない。


『帝都側の正規大部隊は、いまのままでは即応できません。誰がどこまで信用できるかを、指揮線がまだ切り分けられていない』


紺野は通りの向こうを見る。


工兵車。

鉄柵。

整列した兵。


何も始まっていない顔のまま、都市の幅だけが削られていく。


「じゃあ、次は俺たちか」


問いではなかった。

確認でもない。

もう分かっていることを、自分の口で一度だけ重くするための言葉だ。

羽場桐の返答は短かった。


『その可能性が高いです』


紺野は笑わない。

笑える段ではない。

羽場桐が続ける。


『他が信用できないからです。大部隊を動かすには、いまこの国は確認に時間がかかりすぎる。御親領衛だけが、まだその段を短くできます』


短くできる。

それは誉め言葉ではない。

ただ、真っ先に死地へ押し出される条件だ。


「分かった」


紺野は短く返した。


「だったら、次は止める段じゃない。先に入る段だな」

『ええ』


通話が切れる。

右手が、もう一度だけ握られる。

だが、いまはまだ爆発させない。

爆発させるのは向こうが望む時だ。


通りの向こうでは、鉄柵の最後の一枚が立てられた。

朝の光がようやく強くなり、兵たちの影が長く伸びる。

同じ影なのに、同じ軍服なのに、誰を敵だと思って立っているのかがもう揃っていない。

味方を証明している間に、都市は死ぬ。


紺野はその嫌な実感を、喉の奥へそのまま押し込んだ。

そして背を向ける。

まだここで壊す段ではない。

だが、壊さなければ済まない場所が、もうすぐ来る。

それだけは、分かっていた。


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