百七話 壊さないための訓練
百七話
107-1 壊さないための訓練
御親領衛本部の訓練場に、朝から全員いる。
それだけで、十分に異様だった。
近衛御親領衛は、定員十二名と少ないが、日常で全員が揃うことはまず無い。そもそも、この部隊は「全員で動く」ために作られた組織ではない。現場に応じて一人か二人、せいぜい四人を切り出し、残りは好きにしている。好きにしている、という言い方が最も正確だ。軍隊らしい統率や結束を期待する方が間違っている。
その御親領衛が、硯荒臣を除いて十一名、朝から訓練場に並んでいた。
半屋内の広い訓練場だ。床は耐衝撃の石板。天井は高く、梁には結界補助の符が何枚も埋め込まれている。殺すためではなく、壊さないための設備だ。
だからこそ、今日ここにいる面々には似合わない。
羽場桐妙子中尉が、中央の白線の内側へ一歩進んだ。
「危機感の共有、という言葉は好きではありません」
開口一番、それだった。
いつもの丁寧な声だが、今日は柔らかさがない。
「共有した時点で満足する人間が出るからです。ですので、共有ではなく確認とします」
誰も口を挟まない。
志摩龍二ですら、腕を組んだまま黙っている。
羽場桐は手元の紙を見ない。見る必要がない。今日の文面は、昨夜のうちにもう身体へ落としてある。
「現在、複数の現場で、演習名目の書式を用いた運用改変が確認されています。紙・物流・誘導・通信。その全てが“事故に見える形”で動いています」
紺野健太郎少尉の右手が、膝の横で一度握られた。
怒りを先に握る癖だ。
羽場桐は続ける。
「こちらの止め方、残し方、割り込み方も見られている前提で動いてください。よって本日は、総員で制御訓練を行います。目的は一つ。壊しすぎないことです」
そこで初めて、訓練場の空気が少しだけ動いた。
樋道芳芙美が露骨に顔をしかめる。
支倉真名が小さく息を吐く。
護国綾瀬は眉も動かさない。
三木一葉・双葉・三葉は互いの袖を掴み直した。
羽場桐が、順に名を呼ぶ。
「二席、羽場桐妙子、正三位。《胡蝶転帰》」
「三席、紺野健太郎、正二位。《深澱の首領》」
「四席、護国宗一、従三位。《無足無刃》」
「五席、樋道芳芙美、正三位。《分子円塵》」
「六席、東雲丈雲、正四位。《形影不如》」
「七席、志摩龍二、正四位。《逆鱗静域》」
「八席、護国綾瀬、従三位。《碗獄断糸》」
「九席、高倉源三、正四位。《欠落補填》」
「十席、支倉真名、正四位。《輝陽星陰》」
「十一席、三木一葉・双葉・三葉、従四位。《三叉炉心》」
「十二席、珠洲原陽鳥、従二位。《万想狂花》」
淡々と読み上げられた能力と位階が、朝の空気に釘みたいに打ち込まれていく。
確認というよりは判決だった。
「今日の訓練では、能力の最大値は見ません。見たいのは最小単位の制御です。各自、自分の能力が“どこまでなら人を殺さずに済むか”を、嫌でも測ってください」
そこでようやく、樋道が口を開いた。
「嫌でも、って言い方最悪じゃない? ボクこういうの、ほら、繊細だからさ」
「知っています」
羽場桐が即答する。
「その繊細さが、現場では遅いとも知っています」
訓練場の端で、東雲が静かに笑いもしない顔をした。
今日は、そういう日だった。
107-2
最初に切られたのは、樋道だった。
白線の内側に、石板が三枚立てられる。
中央の一枚にだけ、人が一人通れる幅の長方形が白墨で引かれていた。
「そこだけ抜いてください」
羽場桐が言う。
「周囲を壊さず、粉塵を外へ飛ばさず、床の白線も残すこと」
樋道が肩を落とす。
「いきなり地味……」
「五席、樋道芳芙美、正三位。《分子円塵》」
羽場桐が改めて言う。
「あなたが一番派手だからです」
樋道の掌に、乾いた輪が生まれる。
分子の結び目をほどき、形そのものを崩す術。広げるほど楽で、広げた瞬間に街が死ぬ。
最初の一歩で輪が広がりかけ、東雲が低く言った。
「縁を作れ。中を抜くな。先に“残す側”を固定しろ」
樋道が舌打ちを飲み込み、息を沈める。
二度目で、長方形の内側だけが綺麗に抜けた。
抜けた瞬間、樋道の額に汗が浮いた。大技より疲れる。制御とはそういうものだ。
次は護国綾瀬。
従三位。《碗獄断糸》。あり得た未来軌道から不可視の斬撃糸を引く術だ。
白線の向こうへ、木柱が五本。
そのうち二本だけに赤布が巻かれている。
「赤布だけを切ってください」
羽場桐が言う。
綾瀬は無言で頷き、指を軽く立てる。
空間に細い震えが走り、赤布だけが二つ、音もなく落ちた。木柱には浅い擦過痕すら無い。
宗一が、ほんの僅かに目を細める。兄としてではない。現場指揮代行としての目だ。
志摩龍二には、別の意味で地味な課題が来た。
正四位。《逆鱗静域》。運動も温度も思考も感情も減衰させる、扱いを誤れば味方ごと殺す術。
白線内に置かれたのは、燃えかけの蝋燭三本。
「炎だけを弱めて、芯は消さないでください」
志摩が露骨に顔をしかめる。
「性格悪ぃだろ……」
だが、やらない訳にも行かない。
空気が一段だけ粘り、炎がすっと縮む。芯は赤いまま残る。
減衰は、強ければいいわけではない。足りなくても駄目で、効きすぎれば終わる。
高倉源三には、空の木箱と、片方だけ足りない滑車。
正四位。《欠落補填》。不足を前借りで埋める術。
「滑車の欠けだけ埋めて、箱そのものは補強しないでください」
高倉が頭を掻きながら前へ出る。
「こういうのは勘定が嫌なんだよな……」
だが勘定を嫌う男ほど、生活の歪みをよく知っている。
滑車だけが一瞬だけ正しい回転を取り戻し、箱はそのまま軋んだ。
足したのではない。不足だけを借りた。それで十分だ。
東雲丈雲、正四位。《形影不如》。
感覚を共有する実体影を生み出す術。最大五体。壊されれば自分へ返る。
今日は影を増やさない。
一体だけ。
しかも視覚だけを借り、訓練場の梁の上へ置く。
「数を出さない訓練ですね」
東雲が言うと、羽場桐は静かに返した。
「六席、あなたは出しすぎると場が整いすぎます。今日は整えすぎないでください」
東雲の影が一体だけ生まれ、梁の上へ滑る。
その一体だけで、訓練場の死角が一つ消えた。
消えた死角の分だけ、場の緊張が上がる。
107-3
真名は広い床の中央へ立たされた。
正四位。《輝陽星陰》。
関心と無関心を押し付ける術。単純で、だから強い。単純で、だから雑に使えば一瞬で群衆を潰せる。
白線の外側に、訓練用の標識が三本立てられる。
一つだけを“見られなく”し、残り二つへの関心を均等に流す。
均等、が難しい。人は一点に集まりたがるからだ。
真名は軽く顎を引き、視線の流れを作る。
一本が、空気の中で“背景”へ落ちる。残り二本が、舞台で照明を浴びたように立つ。
立つが、立ちすぎない。
それが、現場で人を死なせない境界だった。
宗一の番になると、訓練場の空気が変わった。
従三位。《無足無刃》。
限定因果操作の斬撃。護国宗一の術は、避けるためにあるのではない。避けさせないためにある。だからこそ、止める訓練がいる。
白線の向こうへ、鐘が三つ吊られる。
「一つ目の紐だけ切ってください。鐘本体と、後ろの梁は残すこと」
宗一は頷き、右手を軽く振る。
音は鳴らない。
だが、一番左の鐘だけが揺れ、紐が切れた。梁は残る。隣の鐘も静かなままだ。
それを見ていた紺野が、ほんの僅かに口の端を動かした。
感心ではない。
「普段からそれでやれよ」という、半分だけ本気の顔だ。
「紺野少尉」
羽場桐が呼ぶ。
訓練場が少しだけ静まる。
正二位《深澱の首領》。
部屋にいる誰もが、その出力帯の意味を知っている。だから黙る。
床へ運ばれてきたのは、鋼板一枚と、その奥に置かれた木製の人形。
「鋼板だけを削ってください。人形には触れないこと」
難しい、どころの話ではない。
破壊と捕食に見える黒い奔流は、本来“残す”ためのものではないと、紺野自身がずっと思ってきた。
だからこそ、ここでやらせる。
紺野の右手が膝の横で握られる。
一度。
それから前へ出た。
黒い流れが薄く伸びる。
鋼板の表面へ触れた瞬間、音もなく金属の一部だけが失せた。
穴ではない。切断でもない。
“そこに厚みがあった理由”だけが消えたような削れ方だ。
奥の木人形は、微動だにしない。
一拍。
訓練場の誰も、すぐには喋らなかった。
紺野が舌打ちを飲み込み、低く言う。
「……やはり面倒だな」
羽場桐が即答する。
「知っています。ですが今の一手で、次に壊さずに止められるものが増えました」
紺野は返事をしなかった。
しなかったが、もう一度右手を握ることもしなかった。
最後に陽鳥。
従二位《万想狂花》。
この場で、一番軽く扱ってはいけない術だった。
最低でも正四位以上の神術師でなければ、まともな対処の土俵に立てない。数十体の自爆など、従四位程度なら致命的な精神負荷、最悪即死に至る。
彼女はそんな虫を、内側に億単位で抱えている。
だから、訓練内容も別になる。
白線の内側に置かれたのは、感応遮断用の小型標柱三本。
「侵入ではなく、観測だけ。二本で止めてください」
陽鳥が端末を開き、淡々と言う。
「回りくどくて嫌」
「承知しています」
羽場桐が返す。
「今日は“嫌な方”でお願いします」
二体だけの子機が走る。
一本目は柱の縁を舐め、二本目は床の罅を沿う。
侵入しない。観測だけ。それだけで、訓練場の空気が一段薄くなった。
虫は少なくても虫だ。格差は数で消えない。
陽鳥が端末を閉じる時、喉の奥を一度だけ押さえた。
消耗は隠しているが、完全には隠し切れていない。
107-4
最後は三木一葉、双葉、三葉だった。
従四位《三叉炉心》。
三人で一人。三人で魂を共有し、各自の出力をそのまま加算する術。
そして、一人の影響は全員に返る。
だから今日の訓練は、威力の確認ではない。
位置だ。
白線の上に、三つの円。
「この位置から一歩も出ないでください」
羽場桐の指示は、それだけだった。
一葉が不満そうに眉を吊り上げる。
双葉は既に泣きそうな顔。
三葉は妙に明るく笑いかけて、東雲の視線に止められる。
「位置で止まる」
東雲が低く言った。
「今日はそれだけでいい。いや、それだけじゃない。それが一番難しい」
三人は顔を見合わせ、頷いた。
能力を回す。空気が少しだけ濃くなる。三人の呼吸が揃う。
揃うが、誰も円の外へ出ない。
それを見届けて、羽場桐はようやく全体を見渡した。
汗の匂い。焦げていない空気。壊れていない床。
そして、普段よりずっと静かな十一人。
「以上です」
誰もすぐには動かなかった。
「本日の訓練で確認したのは、最大出力ではありません。最小制御です。今後、皆さんは“壊せるのに壊さない”を要求されます。それは弱さではありません。むしろ逆です。壊す方が楽だからです」
羽場桐の言葉が落ちる。
「そしてもう一つ。これだけ全員が揃っても、少将閣下は出てはいません。出ていないという事実も値段として理解してください」
その一言で、訓練場の温度がまた少しだけ下がった。
荒臣がいない、それは不在ではない。
まだ、そこまでではないという判定だ。
まだ、という言葉が一番怖い。
紺野が最初に背を向けた。
陽鳥は端末を閉じたまま、彼の半歩後ろを歩く。
宗一は白線を見ている。
東雲は三つ子の位置を確認する。
樋道は「めちゃくちゃ疲れた」とぼやき、真名は「群衆の方がまだ楽」と嘘を吐く。
志摩は黙って煙草の箱だけ弄り、高倉は床の傷を見て溜息をつく。
綾瀬は誰にも聞こえない声で「遅い」と言い、一葉は双葉の袖を引き、三葉は笑って誤魔化す。
いつもの御親領衛だ。
いつもの御親領衛なのに、今日だけは少し違う。
全員が、自分の能力の壊さない値段を一度見た。
見てしまった以上、次からはそれを知らなかった顔ができない。
訓練場の天井は高い。
高いのに、朝の空気は妙に低く垂れ込めていた。
危機感の共有ではない。
確認だ。
そして、その確認だけで十分なくらい、外はもう始まりかけていた。




