石見川越駅
わたしの柔らかな部分を生成した場所……。
わたしは忘れない。
三江線を。
広島県三次駅~島根県江津駅を結ぶ長い長い夢の旅路、三江線が廃線になるとテレビで知った2018年、わたしは故郷広島に何年も帰っておらず大阪に暮らして居た。
三江線廃線の知らせを知り、テレビの前で泣き崩れた夕方を、忘れられない。鮮やかに憶えている。
三江線、駆け抜ける緑の風の中には、妖精が棲んでいた。
小学生の妹とわたしは、開け放たれた車窓から鉄橋を見下ろし、垣間見えるせせらぎに胸躍らせた。水の妖精もいるんだなと。
木漏れ日は涼やかで優しく、『汽車』を明るく照らした。ディーゼル車である。
わたしと妹は子どもだけれど、ママに三次駅のホームまで送ってもらい、姉妹だけで島根県の石見川越駅を目指した。ワクワクする。
石見川越駅に到着すれば、ひいじいちゃんが自転車で迎えに来ているのだ。
清々しく、ドキドキする夏休みを満喫するために、わたし達姉妹はお姉さん気取り。とても嬉しい。
あの風景。
三次駅から石見川越駅までの小旅行は探検。山の中を走って行くディーゼル車はあんまり人が乗っていなく快適だった。
今思えば……あの時だって、もっと乗客があれば、三江線は存続したのだろうか……と残念な気持ちにもなる。
ディーゼル車が発車する時の音は独特だ。電車のように静かではなく唸るのだ。ステキに旅気分を刺激する。
もう現存しない、石見川越駅に着くまでの駅すべてが、今のわたしにとって愛おしい。
ほとんどの駅が無人駅だったように記憶する。
当時の石見川越駅は、木造のまさに小屋のような雰囲気だった。
でも、わたしが子どもだったせいか、天井は高く感じられ、木の長椅子があった。
無論自動改札機などない時代。駅員さんが切符をもらってくれたかな?
ひいじいちゃんが待ってくれていた。
自転車で一人で来ている。
「後ろに荷物を載せんさい」と言う。
ハンサムで無口なひいじいちゃん。
妹とわたしとひいじいちゃんは、左に広がる畑を見つつ大きな道路を40分は歩いた。
畑は広大で、その向こうに竹藪があり、その奥は川原で大きな川が流れている。
お家に着くとひいばあちゃんが『ごっつぉ(ごちそう)』を準備して待ってくれている。
ごっつぉと言っても、お肉やお菓子ではなく、色の付いた冷や麦や、出汁のために入っているイリコの姿がそのまんま入っている極上の味噌汁だ。何杯、この味噌汁をおかわりしたことだろうか。
「よー、来たのぉ。上がりんさい」
土間のあるひいばあちゃん宅。
木造引き戸の玄関も大きな窓もすべて開け放たれている。
縁側でスイカを食べ、種を飛ばしキャッキャと言った後は、神社へ向かって妹とかけっこだ。
その神社はいつも優しかった。『神聖』と言う言葉もまだ知らぬ幼いわたしに、神聖さを教えてくれた場所。
ひいじいちゃんとひいばあちゃんは農家だ。養蚕もしていた。
プレハブにはお蚕さん達が居て、扉を開けると「バリバリバリバリ!」とプレハブの屋根を大粒の雨が叩くような音がする。
それは一斉にたくさんの蚕が桑の葉をはむ音だ。
妹とわたしは何もかもに興味津々だった。
もいで食べたトマトは太陽の味がし、ほっぺがとろけた。
好奇心旺盛だった姉妹が唯一恐ろしかったのは……外にあるぼっとん便所だ。それも大きな大きな長四角の穴。裸電球1個……。
その近くには五右衛門風呂があり、ひいばあちゃんが湯加減を訊きながら木をくべてくれた。
鉄におしりや背中が当たるとアチチで、わたし達はそれすらも楽しみ大はしゃぎだった。
一週間ぐらいひいばあちゃん宅で宿題をしたり、遊んだり、畑について行ったり……存分に伸び伸びしたあと、姉妹は三次へ帰る。
今度は大きな川を右に見つつ、石見川越駅をひいじいちゃんと言葉少なに目指す。
駅に着く。
「また来んさい」とひいじいちゃんが言う。
「うん!」
元気に二人で返事をするけど、駅舎が来た時よりも少し寂しい風景に見えた。
わたし達姉妹は、中学生になるまでひいばあちゃん宅へ泊まりに行っていた。
入れ歯をガポーッと外し、笑わせるチャーミングなひいばあちゃん。石見川越駅で首を長くしてひ孫を待ってくれていた、照れ屋のひいじいちゃん。
行きと帰りで違って見えた、あの駅。
ニュースで廃線を知り、泣いたあの日、わたしは想い出が大事すぎてボロボロ涙を流すばかりだった。
伝えられていなかった。
石見川越駅さん、たくさんの「こんにちは」「バイバイ」を見守ってくれてありがとう。お疲れさまでした。
三江線のすべての駅へもお礼を言うよ。幸せな時間をありがとう!
ありがとう!




