皮肉り令嬢アローナ・グランツ
「――アローナ・グランツ! お前との婚約を破棄する!」
響き渡る声とともに、舞踏会場の空気が張り詰め、視線は一斉に私へと注がれる。私は裾を揃えて一歩前に進み、深く一礼した。胸の内は不思議と穏やかで、驚きよりも冷静さが勝っていた。
「殿下。そのお言葉、確かに承りました。ただ一つだけ、確認させていただけますか?」
私――アローナ・グランツは顔を上げ、やわらかく微笑んだ。殿下は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
「殿下が仰る“破棄”は、私個人への感情の問題でございましょうか? それとも、グランツ公爵家との政略的な結びつきをも切り捨てる、という国政上のご決断でいらっしゃいますか?」
会場がざわめき、リオネル殿下の唇が震える。
「殿下は、私が冷たいとよく仰いましたね」
私はゆったりと視線を巡らせ、穏やかに声を紡ぐ。
「けれども、私は十年にわたり、毎朝のお手紙を欠かしたことはございません。お体を案じ、政務の成功を祈り、ささやかな感謝を綴った文を。……もしそれをご覧になっておられなかったのだとすれば、それは私の冷淡さではなく、殿下のお机が少々片付いていなかったからにすぎませんわね」
広間に、くすくすと笑いが広がる。
「それに。もし私が本当に冷たく、愛情を欠いていたのであれば……殿下はなぜ十年もの長きにわたって、その“冷たさ”に耐え続けてこられたのでしょう? 十年という歳月は、決して短くはございません。殿下がその間、忍耐強くお務めを果たされたというのなら、それは美徳でしょう。……けれど今さら『冷たいから婚約破棄』と仰るのであれば、十年を無駄にしたのは私ではなく、殿下ご自身ではございませんこと?」
会場に忍び笑いが走り、殿下の顔は赤く染まっていく。
「私は殿下のお幸せを祈っております。反対しているわけではございません。ただ、殿下ご自身が“ご自分の決断の重み”を理解なさっているのかを確かめたいのです」
声は柔らかく、それでいて一言も逃さぬように。
「お、俺は……本当の愛を見つけたのだ!」
ようやく絞り出した殿下の言葉に、会場がまたざわつく。殿下は隣にいた子爵令嬢――メリッサの肩を抱き寄せた。
「メリッサこそが、俺の真実の愛だ!」
私は微笑を保ち、一歩進み出た。
「まあ、それはおめでとうございます。愛は人を強くし、ときに国さえ支える力となりますもの」
私は扇子を口元に添え、軽く首を傾げる。
「けれど、殿下。その“真実の愛”を理由に政略を覆すのでしたら、国王陛下の御前にて、どうぞ堂々と証明なさってくださいませ。愛が国を支えるに足るほど強固であれば、陛下もきっと納得なさるでしょう。……もし納得いただけなければ、その責任は殿下お一人に帰することとなりますが」
メリッサが青ざめて殿下の腕を掴む。
「え、ちょっと待って。私そんな大ごとだなんて聞いてないんだけど……」
その小声が広間に響き、笑いをこらえる声があちこちで漏れた。
「――もうよい」
低く重厚な声が広間を満たした。玉座に座していた国王陛下が立ち上がり、厳しい眼差しで殿下を見下ろす。
「リオネル。お前の言葉、すべて聞いた。……実に愚かだ」
その一言に、広間は静まり返る。
「政略を軽んじ、十年の縁を踏みにじり、己の恋を優先するなど、王太子にあるまじき行為。もしそれが許されるなら、この国の未来はどうなる。……愛を語るのは結構だが、愛を理由に責務を投げ捨てるのはただの逃避にすぎぬ」
殿下は青ざめ、膝を震わせる。
「よって、リオネル・フォン・クラウゼル。お前を王太子の位より外し、この国から国外追放とする!」
「あ、いい忘れてたけど勿論メリッサもだからね?」
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!」
広間にどよめきが走る。メリッサは悲鳴をあげ、殿下は崩れ落ちた。
私は裾を揃え、深く一礼した。
「陛下のご裁断に、心より感謝申し上げます。どうか殿下とそのご新たな愛が、異国の地にて末永く実を結びますように」
その言葉は慈愛に満ちていたが、同時に鋭い刃のようでもあった。広間のあちこちで、押し殺した笑いが響く。
私は背を伸ばし、静かにその場を後にした。
――舞踏会はもう終わった。けれど、私の未来はここから始まるのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
連載版もスタートしたので次話もお楽しみに。
ぜひ評価、感想、ブクマなどをいただけると励みになります。