御文―その壱―
孝子が乳母をしている年月、公廉は孝子に会うことは叶いませんでした。
幼い子ども達も母と離れざるを得ず、寂しい想いをさせたと公廉は思っています。
その子ども達も成人して、それぞれに朝を共に迎える人を持てたのです。
今や娘の婿を迎える身の公廉と孝子です。
「一人で良かった。」
「何がでございますか?」
「娘が一人で良かったと思うておるのじゃ。」
「それは……その通りでございますね。」
「娘の数が多いと、婿殿に十分なことが出来ぬからな。」
「はい。」
「だから、其方が書いた物語の……この父親の気持ちがほんの少し分かるのだ。」
「そうですね。」
「言っておくが、ほんの少しだぞ。ほんの少しなんだからな。」
「はい。承知しております。」
「そうか……良かった。」
婿殿を迎える時の孝子の気働きは素晴らしく、公廉は妻を自慢したくて仕方ないのです。
ただ、自慢する相手がおりません。
それが残念でならない公廉です。
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右近の少将の文が届けられる頃の落窪の君は、寒くても炭火も無く、綿入れの着物も持っていないのです。
そんな落窪の君の部屋に父君が珍しく御出でになられてから、暫くして北の方が言いました。
縫物を持って来て言ったのです。
「これを見事に仕立てたら、ご褒美を上げましょう。」
「ご褒美でございますか?」
「ええ、綿入れの着物をあげます。
これは蔵人の少将様の礼装の袴です。
いつもより綺麗に丁寧に縫っておくれ。」
「はい。」
綿入れの着物というご褒美を貰えることが落窪の君にとって大変嬉しかったのです。
綺麗に丁寧に仕立て上げた袴は、蔵人の少将様に褒められました。
勿論、会うことさえない三の君の夫である蔵人の少将から直接頂いた言葉ではありません。
それでも落窪の君は嬉しかったのです。
辛い日々に、褒めて貰えない日々に、貰った言葉はひと時の幸せを運んだのです。
そして、その頃のことでした。
阿漕の夫・惟成が右近の少将の文を携えて阿漕の所へやって来たのです。
「阿漕、其方が案じていた姫様に右近の少将様からの御文だ。
右近の少将の御文を預かって来たんだ。」
⦅えっ? 本当に?……本当ならこんなに嬉しいことは無いわ。⦆
「姫様はまだ先のことをお考えではないわ。
それに、少将様は大層浮ついていらっしゃるという噂よね。
遊び心で御文を下さったのなら、お断り致します。
もう一度言うわ。
姫様お一人だけを大切になさって下さる方でないと……そうでないなら、
私は何もしません。」
「それは……私には約束出来かねる。」
「それじゃあ、無理よ。」
「あのな、阿漕。会ってみないと分からないだろう。
会うための御文なのだから……。」
「そうかしら?」
「だからね、少将様の御文の取り次ぎだけはしてくれないか。頼む。」
「浮ついたお気持ちのお取り次ぎはしたくないわ!」
「少将のお気持ちが誠のものになるかもしれない。
浮ついたお気持ちでの御文ではなくなるかもしれないだろう。
……それに、お返事を頂いて参れと私に御命じになられたのだ。
頼む。御文を取り次いでくれまいか。」
「……分かったわ。
……今すぐには難しいけれども、姫様のお気持ちを伺っておくわ。」
「ありがとう。助かったよ。阿漕。」
本当は大変嬉しかったのですが、阿漕は少し勿体ぶりました。
それは全て落窪の君の為です。
女房は少しでも使える姫君が「高嶺の花」という印象を与えるのも務めだからです。
「高嶺の花」の姫君だと思うほど、公達は姫君に恋焦がれます。
そう思った阿漕は少し勿体ぶったのです。
惟成が安心して帰って行きました。
それから、阿漕は右近の少将の御文を持って、落窪の君の部屋へ向かいました。
向かっている間中、阿漕は嬉しくて仕方なかったのです。
⦅やっと姫様に春が訪れてくれたのだわ。やっと……幸せが……。⦆
「姫様っ! お喜び下さいまし。やっと、やっと春が訪れます。
姫様に御文が届いておりまする。」
「御文!………いいえ、春は訪れないわ。
お父様もお継母様もお許しにはならないでしょう。」
「姫様、お許しを得ずに御文をお読みくださいませ。」
「そのようなこと……許されません。」
「姫様、このままこの寒い部屋で一日中縫物をしてお暮しになられるのですか?
どうか、それだけは………姫様を心より大切に想うお方なら……
そのお方のことは御邸の者皆に秘めてお会いになられることも出来まする。」
「阿漕……そんなことをしてお継母様に知れたら、どんなに叱られるか……。」
「姫様、どうか、どうかお読みくださいませ。」
二人が話している時に北の方の声がしました。
「阿漕、阿漕! 三の君に顔を洗う水を差し上げなさい。」
「阿漕、早く。お継母様の所へ行きなさい。」
「阿漕! 早くしなさい。阿漕!」
「はい……今すぐに参ります。」
阿漕は右近の少将の文を置いて、大急ぎで北の方の所へ行きました。
阿漕がどの公達からの文を持って来ても、落窪の君が色よい返事をするはずが無かったのです。
「世の中に いかであらじと 思へども かなはぬものは 憂き身なりけり」
⦅何とかしてこの世からいなくなりたいと思うけれども、思い通りにならず、辛い我が身です。⦆
落窪の君は自ら命を絶つことが出来ないけれども、この世を儚んで「居なくなりたい。」と願っているのです。
そのような心を阿漕にも伝えられず、毎日を暮らしている落窪の君に公達との縁を結ぶことなど考えられません。
右近の少将の文を読むことなく時間だけが過ぎ去っていきました。
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孝子は「母親が亡くなった後の娘の末路」を思いました。
財が無ければ朽ち果ててしまいます。
「母親」という強い後ろ盾がなくなると娘は貧しさの中に身を置きます。
そんな世の中を、せめて物語の中でだけ「貧しい娘にも幸多い未来」を書きたくなったのです。
その想いを公廉に話すと、「其方は優しいな。」と言いました。
夫の言葉で思わず頬を染めた孝子です。