清水寺
娘の夫は今も時折通ってきていました。
半月ほど通わなくなってから、また通ってくるようになりましたが、次の訪いはまた半月ほど後、というようにひと月に一度の訪いになってしまったのです。
孝子は他の方からの懸想文が娘に届くことを願っています。
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三位の中将一行の牛車は、梯殿の傍に止まりました。
中将は、⦅さて北の方たちは何時になったら来るだろうか。⦆と待っていました。
少し待った所で、中納言家の牛車がやって来ました。
「あれを見遣れ。あんなご立派な車輪が、折れてしまっているではないか!」
と言って中将一行はまた笑いました。
吉日なので人が多く、中納言家の牛車が着いた頃には梯殿には車を止める場所がありません。
それで、隠れへ回ろうと、中将たちの目の前を通り過ぎて行きました。
中将は惟成を呼びました。
「あの北の方が、どの部屋を借りるのか探り、そこに先回りして居座れ。」
「御意!」
惟成は急ぎ走り、北の方を追い掛けました。
北の方は知り合いの法師を呼びました。
「早く邸を出て参りましたのに……
三位の中将とかいう人が参詣する所に行き会ってしまって、
小競り合いになって車の車輪が折れました。
今やっと着いたのです。疲れ果てました。
部屋はありますか。」
北の方は清水寺に居る知り合いの法師に申し付けて、部屋を借りる約束をしていたのです。
清水寺の法師は、疲れ切った様子の中納言家の一行を見て、気の毒に思いました。
「それはそれは、ご不快でございましたね。
予てよりお伺いしておりました通り、御堂の間を取っておきました。
あの中将殿はどこに部屋を取ったかは存じませぬ。
ああ、本当に大変な夜でございましたね。
さ、早く降りて下さい。
『空いている部屋』と思われて、取られてしまうやもしれませんから。」
と、北の方を促しました。
法師と北の方の会話を聞いた惟成は、また走って帰り中将に報告しました。
「部屋は御堂の間でございます。
『空いている部屋と思われて、取られてしまうやもしれませんのでお急ぎを』
と申しておりました。
女性は色々と時間が掛かりますから、北の方たちが部屋に着くよりも早く、
その御堂の間を若様がお取りになるのは如何でしょうか。」
「分かった。良く探ってくれた。
今直ぐに御堂の間を私達で使わせて頂こう!」
「御意!」
中将は一行の人々を牛車から降ろしました。
その際にも、落窪の君の傍には几帳を立てて誰にも姿を見られないように計らいました。
中将も落窪の君の傍を離れず、大事に大事に身の回りの世話をしました。
中納言の北の方は、「三位の中将が降りる前に早く部屋に入ろう。」と皆で歩いて登って行くと、中将一行が威厳のある様子で衣擦れをそよそよと鳴らし、沓音をはらはらと立てて、惟成を前駆の先頭に立てて、人々に道を開けさせていました。
中納言一行は大急ぎで行こうとしましたが、中将の行列が道を塞ぎ行かせないようにしたのです。
どうしようもないので、暫く群れて立ちんぼになっていると、それを見て中将の供人達が言いました。
「後追いばかりする物詣ででございますね。
いつも先に立とうとなさるようですが、遅れを取られるようで。」
中納言一行は誰もが中将一行を妬ましいと思いました。
中将の行列に道を塞がれてしまいましたので、なかなか部屋に入ることが出来ませんでした。
やっとのことで部屋にたどり着きましたが……。
その御堂の間には見習いの小坊主が一人、先約された部屋が誰かに取られないようにしていました。
その時に立派な人々が部屋にやって来たのです。
その人々を見て、「この部屋の主だろうな。」と思って出て行ってしまいました。
それが、この部屋を取っていた中納言一行ではなく中将一行だとは、小坊主には知る由もありません。
中将一行の人々が全て部屋に入ってしまうと、中将は惟成を呼んで耳打ちしました。
「中納言の一行を笑いものにしてやれ。」と……。
そんなことは露知らず、北の方の一行はここが自分たちの部屋だと疑いもせずにやって来ました。
そして、入ろうとすると「失礼であろう! 中将様がいらせられるというのに。」と言われました。
驚いて立ち竦んでいると、中将の供人達が笑いたてたのです。
「なんて無礼な人達だ。」
「きちんと部屋を案内させた上で、車を降りるべきだろう。」
「こんなうわの空で、部屋があるものか。」
「おやおや、お気の毒に。仁王堂でお勤めをなさられよ、
そこなら十分広いですからね。」
そう言って、知らん顔をして口々に揶揄いの言葉を並べました。
惟成は自分が出ると落窪の君と中将のことが知られてしまいます。
知られてはいけませんので、顔を出すわけにもいかず、裏から供人達を囃子立てて笑わせていました。
そうして中将一行が笑いますので、中納言一行は気まずい思いで仕方がありません。
「泣くにも泣けず、口惜しや。」という言葉でも表現し尽くせないほどです。
北の方たちは暫し呆然と立っていましたが、吉日の今日は人が込み合って騒がしく、押し合いへし合いになって歩き擦れ違って、突っ立っていてもただ邪魔になるだけです。
もしも北の方の一行が中将よりも勢いがあったら、諍いを起こしてでも仕返しをして帰るでしょう。
しかし、北の方一行はお忍びで来たので少数、相手は大所帯でどうしようもないのです。
地に足が着かない心持ちで車に帰って乗り込みました。
「やはり、何も思って居ない人がこんなことをするはずが無い!
大殿のことをよく思っていないのでしょう。
大殿は、これからどんな酷い目に遭うことか……。」
「恐ろしいですわ。」
そのように嘆いていました。
どうしようもないので、とにかく部屋を確保しようと北の方は寺の大徳を呼びました。
「参籠の為に私達が使わせて頂くと決まっていたはずの部屋です。
それを中将の一行が使われています。
どうして、他の方に貸すのです?」
「御出でにならっしゃるのが、遅すぎたのでございます。
あちら様は何と言っても権勢があるお方。
有無を言わさず借り切ってしまわれました。」
「……ならば、他の部屋は空いていませんか?」
「あいにく、全て塞がってしまっております。
お車で夜明かしなさるしか……如何でございましょう。」
「車で!」
北の方だけではなく、三の君も気落ちが酷くなりました。
北の方は諦めきれずに、車へ戻らずに居ました。
しかし、次々と訪れる人に押し退けられました。
仕方なく北の方は牛車に戻りました。
一輌の牛車に六人も乗って来ましたので、体を横たえる場所も無い状態です。
とてもではありませんが、眠れません。
眠れないままに夜が過ぎて朝の光りが差し込んできました。
北の方達は「中将一行よりも早くここを出て帰りましょう。」と供人達を急がせましたが、壊れてしまっている牛車の車輪を結び直している間に三位の中将達は牛車に乗り込んでしまっています。
昨日のような目に遭いたくなかった北の方は遅れて出ようとしました。
中将は、小舎人童を呼び、「あの車のところに行って、『懲りたか』と言っておいで。」と言い付けましたので、小舎人童は車の直ぐ近くまで寄って言いました。
「私の主人が、『懲りたか!』と仰せです。」
「誰が言ったんだい!」
「あちらのお車からです。」
北の方達は、「ああやっぱり、何か思うところがあったからこそ、こんな嫌がらせをするんだわ!」
と囁きあって、⦅何故、中将が嫌うのだろうか?⦆と不思議に思いました。そして、訳が分からないという恐ろしさも感じたのです。
北の方は「何を懲りたかと……私は、懲りてなどおらぬわ! そう申しておったと、其方の主に伝えよ。」と小舎人童に言いました。
小舎人童は、中将の元へ戻ると、「まだ懲りてない、と言っておりました。」と伝えました。
「手に負えない人だねぇ。
性の悪い返事をくれたものだよ。
ここに落窪の君が居るとも知らないで。
小舎人童、其方、今一度、あちらに参れ。
それで、こう言うのじゃ。
『まだ全ての業を担っていらせられないのですから、
死ぬことではござりませぬ。
再び同じような目に遭われますよ。』と……良いな。」
「はい!」
「行け!」
「はい。」
中将がまた小舎人童に言わせました。
「『まだ全ての業を担っていらせられないのですから、
死ぬことはござりませぬ。
再び同じような目に遭われますよ。』と仰せです。」
「なんて人っ! 返事をしてはなりませぬ!」
と他の者を制し、返事をさせなかったので、中将の一行はそのまま帰って行きました。
落窪の君は不安でいっぱいです。
「ああ、心配ですわ。
大殿は北の方から『中将がけしからぬことをした』と聞くことでしょう。
こんなことは、もうお止めあらしゃいませ。」
と言いましたが、中将は落窪の君の心配など気にも留めません。
「あれには中納言は乗っていませんよ。」
とあっけらかんと答えました。
そんな中将を落窪の君は案じています。
「北の方や、姫君達が乗っているのですから、同じことです。」
「今に全ての復讐が終わったら、あちらの心ゆくまでお世話をするのですから。
復讐も、その後のことも………。
私がやると決意したことは一つ違わず全てやり遂げます。」
中将はそう返事をしました。
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孝子に文が届きました。
以前、お仕えしていた姫君の女房からの文でした。
「お変わりございませぬか。
北の方とならしゃいました姫様は、若君をご出産あらしゃいました。
お方様は孝子様にお会いしたいと仰せでござりまする。
御身体が宜しければ、一度、少納言家にお越し下さりまし。
お待ち申し上げております。」
「嬉しい御文を頂戴し、終着至極にございます。
今は退がらせて頂きました身でございまする。
その上、病を得て退らせて頂いたこともございます。
御心を有難く受け取らせて頂きます。
お方様にお祝いの品を贈らせて頂きます。
どうぞ、良しなにお伝え下さりまし。」
その後、その女房と幾度か文を交わすうちに、女房が仕えている少納言家の供人で、北の方を亡くした方を孝子の娘にどうだろうか、という文が届けられました。
その文には早速、懸想文も入っていました。
その懸想文を娘に渡しました。
「この方の御文に返事をするかどうかは其方の思うようにして下さい。」
「はい。」
その頃には通っていた娘の夫は通わなくなっていました。
娘は幾度か懸想文を受け取り、返事を書き送くりました。
そして、懸想文の男性がやって来ました。
孝子は仄暗い廊下を歩く姿は背は低く、とても頼り甲斐があるようには見えません。
娘の行く末を孝子は案じました。
梯殿…池や谷の上に橋のように渡した家です。
隠れ…裏口のことです。
物詣で…神社仏閣に参拝することです。
仁王堂…寺の門のところ。金剛力士像が安置してあるので、仁王堂と呼ばれています。
大徳…高僧など徳行の高い人物の敬称、もしくは一般的に僧侶のこと。
小舎人童…貴族に仕える子どものことです。