面白の駒
公廉の所へ息子が訪いました。
「父上、此度は官位を授かり、都を出ることと相成りました。」
「そうか……。」
「私はその地で終えても良いと思っております。」
「うむ。その覚悟で行けば良い。」
「はい。」
「其方は共に都を出てくれる女人はおらぬのか……。」
「はい。」
「そうか………。」
「私も母上のような妻を……と願っております。
私だけの妻になってくれる……ような……。」
「あちらで巡り逢えるやもしれぬな。」
「そうであれば楽しいでしょう。」
「達者で暮らせ。」
「はい。父上、母上は床に伏しておられるのですね。」
「ああ……そうだ。」
「では、ご挨拶をせずに赴任地へ参ります。」
「顔だけは見ていけ。万が一、もう再び……やもしれぬからのう。」
「はい、直ぐに私は帰って来られないと思いますので……。
お休みにならしゃっているお姿だけ、この目に留めてから参ります。」
「うむ。」
息子は頭を下げて父に別れを告げ、そして、母の部屋に向かった。
⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂
妻である落窪の君から「北の方への仕返しはお止し遊ばしませ。」と言われた右近の少将ですが、北の方への憎々しく思う気持ちは消えていません。
その頃、源中納言家では、例の使いが「少将が『承知しました』と仰せでござりました。」と伝えに来ましたので、邸中が喜んでいます。
北の方は式の準備を始めました。
縫い物が多く、北の方は落窪の君が失踪したことを非常に残念に思っています。
⦅あぁ、落窪が居れば、この縫い物を難なく縫えていただろうに……。
神様、仏様、何卒、落窪が生きていたら、この邸に帰らせて下さりませ。
蔵人の少将も、『着物の仕立てが悪い』と仰せになるようになられて……
邸に出入りをする度に不平を仰せにならしゃります。
出来が悪くて袖を通しもしない時もあるようにならしゃって……
そんな時は惨めで仕方がありませぬ。
あぁ、誰でもいいから裁縫が上手い人が居れば……。⦆
婿取りの日は十二月の朔日五日に決めて、十二月の晦日の頃から準備を急ぎました。
三の君の婿の蔵人の少将は、新しい婿が誰だか気になり、三の君に尋ねました。
「誰を婿に取るのですか?」
「左大将殿の息子、左近の少将殿とか聞いております。」
「それは大変結構な相手です。
私も彼と一緒に語らいながらこの邸に出入りできると思うと、
大層、楽しみですよ。」
「まぁ、右近の少将様と仲が宜しいのですね。」
「親友と言っても差し支えない友です。
だから連れ立って通えたら嬉しいのですよ。」
「まぁ、左様でございますのね。私も嬉しゅうございますわ。」
そう言った蔵人の少将は、四の君と右近の少将との露顕の儀を心から楽しみにしています。
邸中の者が四の君と右近の少将との露顕の儀を自慢して喜んでいます。
進められて行く露顕の儀を不安に思っている方がおられます。
少将が本邸を訪れた際に、少将の母が少将を呼び止めました。
「二条邸に女性を迎え入れたと聞きましたが、本当ですか?
本当であれば、何故、中納言家との縁談に『承知した』と答えたのですか?」
「二条邸のことは、そのうち申し上げようと思っていたのですよ。
なに、誰も住んでいない間だけちょっとお借りしているのです。
その女性のことですが、中納言に伺いました。
すると、『他に妻がいても良い。』とのことでした。
『男は一人の女だけを生涯愛するものだろうか、他の女とも語らいなさい。』
と仰せにならしゃいました。」
少将が本心を隠してそう言いましたので、少将の母は二条に居る女性をとても心配しました。
「何て憎らしい子なのでしょう。
良くお聞きなさい。数多の女性を妻に持つということは、
数多の嘆きをも一緒に背負うということなのですよ。
勿論、其方も苦しむでしょう。
そんな自分の首を自分で絞めるようなことはお止めなさい。
その二条邸の女性を気に入っているのなら、四の君との露顕の儀は
お断りなさい。」
二条邸に女性が居ると知って直ぐに、少将の母は落窪の君へ文や贈り物を贈りました。
その折りにお礼状を受け取りました。
そのお礼状を少将に見せて、少将の母は言いました。
「其方が二条邸に住まわせている方から受け取った文を読みました。
美しい字を書かれますね。奥ゆかしい文章で、人柄も優れて……
優しい方とお見受けしましたよ。
どこの姫君なのですか?
この方を妻として世間へご披露なさい。
そうすれば、身を固めたと中納言家のお話を断れます。
そうなさい。私も娘を持つ身です。
二条邸の方の親の御心労を推し量ると私まで辛くなります。」
「二条邸のは二条邸で、四の君は四の君で気に入っています。」
「其方はお父上に似ない浮気者ですね。
中納言家での露顕の儀は、十二月五日ですよ。
分かっているのですか? 本当に、その日、行くのですね。」
「分かっています。」
「二条邸の方はお気の毒ね。
其方が他の方と露顕の儀を執り行うと知ったら
どんなにか嘆かれることでしょう。
このことは当面はお知らせせずにね。」
「はい。分かりました。」
⦅母上、どうか見守って下さい。息子を信じて……。⦆
阿漕は女房を纏める役をするようになり、名を衛門と改めました。
そして、月が替わり十二月になりました。
少将と四の君の露顕の儀が間近になりました。
「明後日なのですよ。分かっているのですか?」
「分かっております。母上。ご案じ召されませぬように。」
⦅母上、ご懸念には及びませぬ……でも、可笑しい……。⦆
少将は心を定めていました。
計画も練り上げており、後は実行するだけになったのです。
そこで、少将は少将の母の叔父の治部卿の邸を訪いました。
治部卿は性根がひね曲がっていると有名で、人と交じることもありません。そして長男に兵部の少輔が居ます。
少将は邸に入ると、「少輔はいらせられるか。」と尋ねました。
すると父の治部卿が出て来ました。
「息子はまた部屋にこもっておるだろう。
人が笑うからと言って、部屋から出て来ないのだ。
少将、あれを連れ出して、人付き合いが出来るようにしてやってはくれまいか。
人の噂も七十五日とかいうではないか。
日が経てば噂する者も居なくなるであろう。
さすれば、宮仕えをすることも可能になるはずじゃ。」
「どうして私が見放すなど出来ましょうか。」
と少将は言い、少輔の部屋へ行きました。
部屋を覗くと、何と少輔はまだ眠っていたのです。
「さあさあ、起きた起きた。
話があって来たんです。
さっき、君の父上にもご挨拶しましたよ。」
そう少将が声を掛けると、少輔は手と足を揃えて大きく伸びをして、ようやく起き出して手を洗いました。
「どうして、私の所へ来ないのです?」
「それは、その……女房達が私を見て『ほほほ。』と笑われる。
笑われるのが恥ずかしくて……。」
「疎遠な邸に遊びに行くなら恥ずかしい思いもするでしょうが……
私の邸なら何も構われること無く来られるのでは?」
「行けません。」
「何故に?」
「行くと笑われます。
………それに、道頼さんのこと……聞きました。」
「私のことですか?」
「はい。このように邸から出なくとも入って来る話もあります。」
「それで、私の何を知ったのですか?」
「源中納言家の……四の君……と……話が進んでいると聞き及びました。」
「あっ! そうですか。もう少輔のお耳に入ったのですね。」
「おめでとうござります。
……私が左大将の御邸に……道頼さんに会いに行くのは……ご迷惑をお掛けしま
す。
道頼さんと私とは違い過ぎます。」
「そんなこと……。それに、迷惑などと思っていませんよ。」
「君がそう言ってくれても、世間は違いましょう。
あの面白の駒が今を時めく右近の少将と親しく……は、目出度いお話の邪魔に
なります。」
「君って人は……。そんなこと思って貰いたくないですよ。」
「お目出度い話が進んでいられるのに、申し訳ない。
ところで、もう、決まったのですか?」
「あぁ、四の君との露顕の儀は明後日に迫った。」
「明後日………。」
少輔は自分とのあまりの違いに溜息を吐きました。
それで、少将は急いで言いました。
「否、四の君との露顕の儀は、君が出るのだよ。」
「私が? 何故に私が?」
「落ち着いて聞いてくれ給え。
相手は私ということで話は進んだが、それは表向きなのだ。
だから、当日、行くのは少輔、君だよ。」
「それは、どういうことなのでしょう?」
「つまり、私の名を語って君が忍び込み、そして、私に成りすまして、
露顕の儀に出るのだ。
実は私には、もう既に妻が居てね。他の人を迎える気が無いんだよ。
だから、君が四の君に想いを寄せていると聞いて嬉しいのだ。
君に私の替わりに婿になって貰えたら……と思うのだ。」
「四の君もご存知なのですか?」
「否、知るはずなど無い。」
「御存知では無い! ならば、お断り致します。」
「何故に?」
「何も知らぬ姫君を騙したくありません。」
「少輔、君が真面目だと知っています。
君はこのままで良いのですか?
このまま邸に閉じ籠って過ごすのですか?
妻を得ることが出来れば、きっと君は今まで以上に働くと思います。
どこかの姫君に近づけますか?
今のままならば近づくことさえも出来やしない。違うかな?」
「それは……その通りです。」
「………実は、私は、君の為ではなく、私の為にこのことを考えました。」
「どういうことでしょう。」
「私は妻以外の姫君と縁を結びたくなかったのです。
それなのに、源中納言家が酷く急いで進めた話で押し切られた……ようなもの。
私以外の人を婿にしてしまおうと乱暴に考えるに至りました。」
「乱暴です。お相手であらせられる四の君の御心を少しは想って頂きたかった。
――出ないのですか? 私が断っても、出られないのですか?」
「出ない、そう決めました。
君が断ると、他の誰かに頼まねばなるまい。」
「それは酷いです。四の君の御心も、それに第一、道頼さんが大切になさっている
お方もお辛いことと思います。
お止め下さい。そのようなこと……
真心でお伝えしたら、きっと、四の君との縁は断れます。
お断りなさい。それが一番です。」
「それが、出来ないのだよ。」
「出来ないなどと……。」
「頼む。君に頼むしかないのだ。
私を助けてはくれまいか?」
「無理です。私の顔を笑わない人は居ない。
君も笑いたいのを我慢して居るんだろう?
こんなに色は白く、首は長く、顔つきはただただ駒にそっくりで、鼻息も荒く。
今にもヒヒンと嘶いて、馬蹄を引きずって駆け出して行きそうな顔です。
人から『面白の駒』と呼ばれているのですよ。
そんな私が姫君の……四の君の心を射止められるはずなどありません。」
「少輔、君は優しくて良い夫になる。
私はそう思っているのだよ。
君と妹背の契りを結ぶ姫君は幸せだと思うのだ。
真心を持って話せば……四の君にも、源中納言家の人々にも……
君という人を知って貰えるよ。
知って貰えさえすれば、良い方に向かうよ。」
「それは……。」
「このまま、こうして籠っているのですか?
たった一度の機会です。
これを好機と捉えて頂きたい。
私は君にも妻と呼べる姫君の元へ通って貰いたいのだよ。
さすれば、君は邸に閉じ籠ることが無くなるだろう。
仕事にも精が出るだろう。
自信が生まれるだろう。」
「道頼さん。」
「君は優しく真面目な良い夫になる。
だから、いいですか? 私が言う通りにして下さい。
さすれば、源中納言家にも四の君にも通じましょう。」
「騙さねばならないではありませんか?」
「騙すのではありません。君も私に誑かされたのです。」
「道頼さん……。」
「悪いのは私だけ! 君は悪くないのだ。」
「少輔、耳を……。」
「はい。」
少将は少輔の耳元で何かを囁きました。
四の君との露顕の儀は明後日です。
⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂
息子は母の部屋の戸を開けて中に入ると、ゆらり揺れている灯りを頼りに母の顔を見ました。
この邸に戻ってきたころと比べると少し血色が良くなっているように見えました。
それでも、先日会った時と比べると……息子は母の命の灯を消すことなく点し続くことを願いました。
「母上、行って参ります。
生きて再び……再び、母上の御尊顔を拝したく存じます。
どうか、どうかお健やかにお暮し下さい。」
寝ている母に話し掛けているだけで涙が頬を伝わり流れ落ちました。
小さな囁くような声で別れの言葉を述べた息子は、手を付いて頭を下げて「行って参ります。」と最後に言って部屋を出て行きました。
孝子が息子のことを聞いたのは、翌日でした。
涙する孝子の肩を優しく抱き締めた公廉でした。
朔日…上旬のことです。
晦日…下旬のことです。
治部卿…治部省の長官。正四位下です。
兵部の少輔…兵部省の次官。正五位下です。
駒…馬のことです。