乳母と乳兄弟
公廉の指摘を受けた孝子でしたが、落窪の君の名を考えられませんでした。
止ん事無き方々のお名ばかりが浮かぶからです。
「乙牟漏様は、桓武天皇の皇后様で鎌足公の玄孫様。
薬子様……この方は様々なお噂があるお方。
穏子様は、醍醐天皇の中宮様。
あぁ………駄目だわ。高貴な方々のお名ばかり浮かんでしまう。
どうしましょう? 落窪の君の名………。」
そのように頭を抱え込んでいました。
すると、部屋に入って来た公廉が言いました。
「どうしたのかな?」
「落窪の君の名を考えておりました。」
「うん。それで?」
「良い名が思い浮かびませぬ。」
「左様か………良いのではないか。」
「良いのでは、とは如何なことでございましょう。」
「そのまま最後まで落窪の君で。良いではないか。」
「このまま……左様でございますね。」
「それよりも少しは身体を労われ! 休む時も必要ぞ。」
「はい。仰せのように致しまする。」
「ふむ。」
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妻の阿漕から聞いた落窪の君のことは惟成の頭の中に残りました。
何と言っても愛する妻が度々口にし、長々と話すのです。
残るというものです。
ただ……別の想いを惟成は抱きました。
そして、阿漕に言ったのです。
「その姫様のお傍でお仕えする時間は減ったけれども……。
そのお陰で私たちは出逢えたと思う。
だから、私にとっては幸いだった。
阿漕にとっては、どうだった?」
「それは……私も……知り逢えて……こうして……嬉しいわ。」
あんなに勝気な阿漕が頬を染めながらの言葉は惟成をより一層「妻に夢中な夫」にしたのです。
そして……惟成には今を時めく右近の少将・藤原道頼という乳兄弟が居ました。
右近の少将は左大将の家に生まれ、才能が有り人に好かれる明るい性格。
その上、大変美しいお姿なのです。
そして、父君・大将は今の政の中心に近いお方、妹君は天皇の女御として入内されています。
右近の少将ご自身も天皇の覚えも目出度く、将来の出世は約束されているようなお方です。
今を時めく公達の一人です。
その右近の少将はまだ妻を得ていません。
家柄が良い姫君の噂を聞いては詳しい人から聞き出していました。
それは惟成の母である右近の少将の乳母も同じでした。
「惟成。其方が蔵人の少将様のお供で、源中納言家へ参上しておりますね。」
「はい。母上。」
「源中納言家には未だ縁を結んでおられぬ姫君、四の君様がいらっしゃるそうだけ
れど、どのようなお方が知りませぬか?」
「それは、私には無理ですよ。
帯刀の私が源中納言家の四の君様のお姿を拝めるはずなどありませんよ。」
「まぁ、そうね。」
「妻の阿漕から聞いているのは、阿漕がお仕えしている落窪の君様ですね。」
「落窪の君、そんな名の姫君など聞いたことが無いよ。」
「でも、そのお名なのです。若様。」
「阿漕が最初からお仕えしている姫君です。
そして、その姫君は阿漕が話すところによると……
大層お美しいお方でいられるそうです。
実の母君は皇族のご出自だそうでございますが、お亡くなりになられて、
源中納言家に引き取られたそうでございます。
引き取られてからは、継母の北の方に虐められて辛い想いをなさっておられると
か………阿漕はお可哀想だと申しております。
落窪の君の……落窪という名を付けたのは北の方だそうです。
妻の阿漕の名も変えてしまうようなお方ですから……。
住まわれておられる部屋は床が落ちくぼんでいるそうです。
……哀れな御境遇だと聞いています。」
「そんな姫君がいらっしゃるのね。
でも、若様が妻になさるお方ではないですね。
確かに源中納言家の姫君であれば家柄は良いですが……
北の方に疎まれているような姫君を若様の北の方には……出来ませぬ。」
乳母が少将の部屋を出て行った後、惟成と二人になると、少将は「惟成。先ほどの姫君のことを詳しく知りたい。」と仰せになられたのです。
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妻の孝子が作った物語を読むことが日課になった公廉は言いました。
「これは……あり得ないことだな。」
「ええ、あり得ないお話でございます。」
「娘が引き継ぐのは母親の財産。
息子が引き継ぐのは父親の官位。
その息子も長男と次男以下では官位が違う。
長男は父親の官位を引き継げるが、次男以下は父親の官位より下がる。」
「はい。」
「少将は長男か?」
「はい。」
「それでは当たり前の官位の継承になるのだな。」
「はい。」
「その地位の公達なら、地位を守るための財力を欲する。
そのための縁組。
この落窪の君ではその役には適せぬぞ。」
「はい。承知しております。」
「ならば……。」
「吾が君様、これは物語にございまする。」
「そうじゃ。物語よ。」
「ならば、嘘であっても良いのではございませぬか?
ひと時の夢を見るための物語でございまする。」
「ひと時の夢を見るための物語とな。」
「はい。」
「そうか……ならば、それも……そうじゃな。」
「はい。」
言葉を交わして夫と妻は見つめ合い微笑みました。