雑舎の攻防
孝子は⦅この物語を書き終えるまでは……。⦆と密かに思っています。
書き終えるまでは健やかに夫と子ども達と過ごす時間を持ちたいのです。
少し床に伏さねばならぬような日には特に祈るのです。
⦅少しでも、この命、長らえますように!⦆と………。
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北の方は落窪の君の元へ典薬の助を通わせるという計略があります。
その計略を成すために、邸の女房たちにいつもより早く灯りを点けさせました。
源中納言に早く寝て貰わねばなりません。
幸いにして中納言はすっかり夜だと思い込んで夕方から床に入り、いつもより早く深い眠りに就きました。
中納言が眠ったことを見た北の方は、典薬の助を落窪の君の元へ通わせるべく動きました。
典薬の助が忍び込めるように雑舎の戸を開ける為です。
⦅落窪め! 今宵こそ目にもの見せて呉れようぞ。
あのぐうたらな叔父の妻に成れば、この邸から出ることは叶うまい。
子が出来たなら、下男や下女にでも使ってやれば良いわ。
そうなれば、誰もお姫様などと呼ぶまいよ。
一生、この邸で縫物だけして暮せば良いのじゃ。⦆
雑舎の戸を引き開けた北の方が、灯を掲げて落窪の君の様子を見ますと、落窪の君は伏せって激しく泣いていました。
「どうしたのです。どうしてそんなに苦しそうなの。」と北の方がわざとらしく優しく言いますと、落窪の君は「胸が痛みますので……。」と息を切らして辛そうに答えました。
「あら、それはいけないわね。食べ過ぎじゃないかしら。」
満足な食事も与えずに、北の方はにやりと笑って、いけしゃあしゃあとそう言ったのです。
そして、北の方は「典薬の助は医者ですから、診て貰いなさい。」と言い、典薬の助を呼びました。
落窪の君は北の方の計略に気づくと、さっと顔を青ざめ慌てました。
「いいえ、診て頂か無くとも結構でございます。
きっと、風邪でございます。
お医者様にご足労頂くほどのことではございません。」
「風邪と其方は言いますが、胸の病は恐ろしいもの。
叔父様、典薬の助殿。参られませ。」
「お継母様!」
「呼びましたからね。安堵なさいまし。」
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そこへ典薬の助がいそいそとやって来ました。
北の方との打ち合わせ通りに雑舎にやって来たのです。
「ここなる姫さんが、胸を病んでいるやもしれまへんのや。
どうぞ、診てやっておくれやす。」
「お姫さん、私が典薬の助や。
今から診て進ぜましょう。私を誰よりも頼りにしてくれはったら、ええのや。」
「ほな、宜しゅうお頼申します。」
北の方は典薬の助に目配せして雑舎から出て行きました。
典薬の助と二人きりにされてしまった落窪の君は恐怖に震えています。
診ると言った典薬の助は、皺だらけの手を遠慮なく落窪の君の胸元に差し入れて肌に触れました。
落窪の君は激しく泣き続けました。
幾ら泣こうが典薬の助を止める人は居ません。
どうすれば良いか分からない落窪の君は泣き続けました。
「泣いても誰も来やへん。お姫さんは私の妻になったんや。
大殿様もご承知の上や。」
「……お待ちあらしゃいませ。」
「待て、言われてもなぁ……今宵は二人だけや。」
「夫を迎えられて頼もしいと思うてます。
けど、今は苦しゅうて苦しゅうて……。」
「そないに苦しいんか? それはいけまへんなぁ。
私が代わってやれるもんなら、変わってやりたい。」
そう言って典薬の助は落窪の君を抱き抱えました。
その頃、北の方は、⦅典薬助が居てはるから、案じんでもええわ。⦆と雑舎に錠を鎖さないで部屋に戻り、ぐっすりと眠ってしまいました。
阿漕は邸中が寝静まるのを待ちかねて、落窪の君の元へ急ぎ向かいました。
遣戸が細く開いていて灯りが漏れています。
⦅錠が下りてないんや! 開いているんやわ!⦆
阿漕は心臓が飛び跳ねるほど嬉しくて、意気揚々と遣戸を引き開けて部屋に入りました。
すると、目の前に典薬助が姫を抱きかかえて座っている姿が………。
⦅何てことやの!
物忌やと言うたのに! 部屋に入るやなんて!⦆
「今日は物忌やと申し上げてましたやろ。
お姫さんは今日一日、身を清めて部屋に一人で籠ってあらしゃいますのに!
そやのに、なんでお入りあらしゃいました!」
「其方は何を言うのや!
私は北の方に頼まれましたのや。
お姫さんが胸が痛いと仰せあらしゃるよってにな。
私はまだ夫らしいことしてまへんがな。
ただ、痛いと仰せあらしゃったから、さすってあげてましたのや。
まだ、ええ仲にもなってへんものを……。」
少し怒った様子の典薬の助の姿を阿漕は見ました。
典薬の助は、まだ衣は着たままで紐も解いていなかったのです。
阿漕は安堵しました。
落窪の君は終わりが来ないと思われるほど泣き噦っています。
阿漕は、このように泣いてばかりいる落窪の君を見て、あまりの頼りなさに少しばかり先が思いやられました。
⦅ああ! も少し強うあらしゃいませんと……。
泣かはるだけやったら、どないもなりまへんのに……。⦆
阿漕は落窪の君に向かって話しました。
「どないでございましょう?
温石をお当てにあらしゃいましたら……。」
「温石……! そやね、当ててみとうございます。」
「典薬の助様、お姫さんは温石を御所望あらしゃいました。
どないですやろ? 典薬の助様、御自ら温石を御造りあらしゃいまして
お姫さんに差し上げあらしゃれば、夫らしい行いやと思います。
こんな夜中ですよって、私が頼んでも誰も何もしてくれはりまへん。
そこは、典薬の助様やったら用意してくれはると思います。
今、頼れるのは典薬の助様お一人さんであらしゃいます。」
「そやな! 温石はええわ。
ほな、お姫さん、行って参じますよって、待っとおくれやす。
私の胸の火で石を熱うしますよって。」
典薬の助が急いで雑舎を出て行きますと、阿漕は落窪の君を抱きしめんばかりにして言いました。
「ここ数年の北の方様のお姫さんへの酷い行いの中でも、
今宵は殊更辛く酷い行いや思います。」
「私はあのお方が傍に来はったら、怖うて怖うて仕方ないのや。
阿漕、その遣戸につっかえ棒でも填められまへんか?
誰も入れへんようにして欲しいのや。」
「そないなこと……典薬の助さんを怒らせるだけやと思います。
上手に煽てて何も起きへんように、今宵は部屋の中にあらしゃいまして……
夜が明けましたら右近の少将様にお知らせ致します。
今、少将様はお嘆きならしゃいまして、お姫さんを案じてあらしゃいます。
けど、今は助けを頼れまへん。誰も頼れまへん。
それに、今はお近くに寄ることすら叶いまへん。
お姫さん、お心の中で、神や仏にお祈りあらしゃいませ。」
阿漕の言う通り、落窪の君には姉妹にすら頼れる人が居ません。
落窪の君はとても悲しくて、ただ流す涙と案じてくれる阿漕だけです。
落窪の君も阿漕も泣いていると、典薬の助が温石を包んで持って来ました。
さきほど恐ろしい目に会わせた典薬の助を相手に、落窪の君の手づから温石を受け取るのは、大層恐ろしいことでした。
典薬の助は衣の紐を解いて横になり、姫を抱き寄せました。
「吾が君様、お止めあらしゃいませ。
誠に痛みが強うて……。
こないして起きて温石を当てて押さえてな痛みが引きまへん。
後々のことをお思いあらしゃいまして、今宵は早うお寝りあらしゃいませ。
ああ、痛い、痛いわぁ……。」
落窪の君はそう言って床に伏しませんでした。
阿漕も典薬の助に言いました。
「今宵ばかりのことであらしゃいます。
今日は落窪の君の忌日でございますよって………
典薬の助様はお一人お寝りあらしゃいませ。」
と上手く調子を合わせています。
⦅そない言われたら、そないなんやろなぁ……。⦆と典薬助も納得しました。
「起きていてあらしゃった方が楽かなんやな。
ほなら、私に寄りかかって早うお寝りなはれ。」
そう言い、典薬の助は落窪の君の前に横になりましたので、落窪の君は渋々寄りかかり泣いていました。
阿漕も典薬の助が憎らしく思っています。
⦅けど、この好色な典薬の助のお陰で今宵は落窪の君のお傍近くに……。
嬉しいわぁ~~。⦆
とも思っています。
典薬助はほどなく眠りに落ちて鼾を掻き始めました。
落窪の君は優しい少将を思い出して、目の前の老人を憎らしいと思いました。
阿漕は何とか落窪の君を連れ出そうと策を巡らしていました。
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公廉も子ども達も何かにつけて孝子の部屋を訪うようになりました。
公廉は孝子が帰って来て以来続いていますが、子ども達は母が床に伏している姿を見るのが耐え難くて、初めは父から話を聞いていただけでした。
長男と次男が官位の話をしたのも、父に!でした。
心の奥深くに母に頼りたいけれども頼ってはならないと思っても居たのでしょう。
そして、起き上がって物を書いていると聞いたからでした。
物を書けるなら、息子たちのことに心を砕くことも叶うやもしれぬと思ったのです。
でも、今はそのような気持ちも薄れて、何時しか頭の中から消えてしまったようでした。
孝子の夫も子ども達も「落窪の君」を案じています。
その姿を見て、孝子は安堵しました。
⦅皆、優しい子に育ってくれたのですね。
母が傍に居なくとも……。⦆
孝子はそんな心持ちになっていきました。
温石とは、焼いた石を布で包んだカイロです。