三郎君(さぶろうぎみ)
孝子は物語を書いている時だけ自由でした。
物語の中の登場人物は、皆、健やかです。
健やかだと自由なのです。身体が自由。
それは、孝子の願望です。
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部屋に戻り、右近の少将に落窪の君の言葉を伝えました。
「申し訳ございません。
北の方様が目を覚まされまして………
姫様の言葉を十分に承ることが叶いませんでした。」
阿漕から聞いた少将は⦅今直ぐに北の方を打ち懲らす! そして、姫君を救いたい!⦆と思いました。
しかし、この邸にも警備をする侍や下人達がいます。
少将には惟成の他には牛飼いの少年、従者は二人ほどしか居ないのです。
無謀なことは出来ません。
⦅姫君、今直ぐにお救い出来ぬ私の真心を貴女は疑われるでしょう。
でも、今は動けませぬ。
無謀に動けば、貴女と私は引き裂かれましょう。
どうか、私が全てを整えるまでお待ちください。
必ずや! お救い致します。⦆
その夜は、少将も阿漕も惟成も落窪の君を思って嘆き明かしました。
夜が明けて帰ろうとするその前に、少将は阿漕に言いました。
「阿漕、一先ず私は帰る。
姫君を助け出す好機を逃さず、直ぐに知らせておくれ。
出来得る限り早急にこちらも姫君を受け入れる手筈を整えておく。
姫君はどんなに苦しい思いをしていることだろう。
こんな所から救い出すのだ。」
「はい。」
「惟成、其方は如何する?」
「私は姫様と密通していたという嘘を中納言もお聞きにならしゃいました。
もう肩身も狭く、この邸には居られませぬ。
このように、この邸に居る所を見られれば、何をされるか分かりませぬ。
今直ぐに出て行きます。」
少将と惟成は一目につかないように、密やかに出て行きました。
阿漕は何とかして落窪の君に食事を届ける手立ては無いかと思案しました。
ご飯を誰にも気づかれないように、それと分からぬように、さり気無く包んで落窪の君が閉じ込められている雑舎に持って行きましたが、戸には錠がおりていて、渡すことが出来ません。
困ってしまった阿漕は、三郎君という幼い弟君のことを思い出しました。
阿漕と日頃親しく話している齢十歳の弟君で、落窪の君に琴を習っており、「お姉ちゃま」と呼んで大層懐いています。
三郎君に話しました。
「三郎君、いつも貴方様を可愛がっていらせられる落窪の君様が
あのような所に閉じ込められてしまいました。
三郎君は御気の毒だと思われませぬか?」
「うん。思うよ。お姉ちゃま、お可哀想だ。」
「ならば、お願いでございます。
このご飯と御文を姫様にお届けして頂きたいのでございます。」
「うん、いいよ。でも、錠がおりているし、忍び込めそうな所が無いよ。」
「三郎君様でなければ成しえぬことでございます。
それは………。」
阿漕は三郎君に耳打ちをして策を授けました。
三郎君の眼は輝き、ご飯と文を懐に入れた三郎君は急いで雑舎へ走って行きました。
雑舎に着くと、三郎君は戸をどんどん叩きました。そして、大きな声で………。
「ここ開けてよ! ここ、開けて! 早う、早う、開けて!」
騒ぎ出した三郎君を聞きつけた北の方は、何事かと叱りつけました。
「何をしているのです!」
「お母様、ここ、開けて!」
「ここは開けられません。」
「沓をこの中に入れてあるんだよ。」
「後で、ついでの時に取ってあげます。」
「嫌だぁ―っ! 嫌だい! 今、欲しいんだよぉ―っ!」
「また、駄々を捏ねる。」
北の方に叱られて三郎君は身体毎、戸にぶつかりました。
大きな音がしました。
「開けてくれなきゃ、この戸、壊しちゃうぞ!」
騒ぎが大きくなって、源中納言もやって来ました。
中納言はこの末子を大層可愛がっています。
「大人のように沓を履きたいのだろう。 開けてやりなさい。」
「そのうちに、開けた時で良いではありませんか。」
「言い出したら聞かない子だから……開けてやりなさい。」
なかなか開けようとしない北の方は、哀れな落窪の君の姿を見たら、中納言の気が変わってしまうことを恐れていましたが、三郎君が可愛くて仕方ない中納言は手ずから錠を開けました。
戸が開くと直ぐに、三郎君は雑舎に飛び込みました。
三郎君は薄暗い雑舎の中で沓を探さずに、落窪の君を探しました。
小さな声で……「お姉ちゃま、どこ?」と探しました。
落窪の君を見つけると、驚いている落窪の君に手早くご飯と文を渡し、尚も辺りを探す振りをしてから出て行きました。
「可笑しいなぁ、なかったよ。ここじゃないや。」
「何のつもりで、ここを開けさせたの? 何をしようとしたの?
全く……この子は……。 沓を履きたいからと……。」
北の方は逃げる三郎君のお尻を叩きました。
三郎君は大声で泣き出しました。
遠ざかって行く中納言と北の方、三郎君。
三郎君の泣き声を聞きながら、隙間から洩れ入る日の光を頼りに文を読んだ。
文には外の様子が書かれていて、それにご飯が添えられていました。
阿漕からの文は優しい慰めの言葉と励ましに満ちていて嬉しく思いましたが、気分が悪くて落窪の君は食欲が出ず、ご飯は手付かずのままでした。
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公廉は今日も孝子が書いた物語を読んでいます。
「この三郎君は良き子じゃ! 誠に良き子!
だが、食べられなくては落窪の君は病を得るやもしれん。
それは、嫌じゃなぁ……。」
「左様でございますね。」
「孝子、必ずや、落窪の君を救い出してくれまいか。」
「これから先もお読み頂ければ……。」
「まだまだ続くのじゃな。」
「はい。まだまだ続きまする。」
「この物語を終えるまでは……否、何でもない。」
「吾が君様、私は姫様にお仕えしていました頃より、随分健やかに過ごしておりま
すわ。」
「そうか……そうなのじゃな。」
「お待ち下さりまし。書いて参ります。これからも……。」
「うむ。」
健やかに暮らせる日々、穏やかに流れる日々、孝子は幸せを感じています。
三郎君とは、三男のことです。