嘆き悲しむ心
このところの孝子は公廉との日課になっていた散策も出来ずに居ました。
床に就く日が、時間があるようになったのです。
公廉は出来得る限りのことを成そうと、薬師を招き、加持祈祷もしようとしました。
それを孝子は拒みました。
「孝子、何故に拒む。」
「吾が君様のお傍に置いて頂けるだけで充分でございます。」
「何を言う。」
「吾が君様、私はまだまだお傍におりまする。」
「孝子………。」
「逝きませぬ故。案じて下さいますな。」
「孝子………。」
公廉は孝子の手を取り、己が額に当てて「逝くなよ。」と小さな声で言いました。
そんな公廉を孝子は微笑んで見つめていました。
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何も知らない右近の少将が夜になって落窪の君を訪いました。
謹慎の身ではありましたが、阿漕は急ぎ少将に【落窪の君の身に起こったこと】を全て泣きながら話しました。
少将は落窪の君に逢える喜びで浮足立っていた我が身を恥じたのです。
「なんということ……。
私の為に姫君はそのような非情な目に遭っていらせられたのか……。
阿漕、姫君は食事も摂らせて貰えず、大事無いのか?
阿漕、一目につかぬように夜の闇に紛れて探ってきておくれ。
戸の外から話が出来れば……頼む。姫君に伝えておくれ。
貴女に会いたいと想い焦がれて来ましたが、まるで悪夢のような話を聞いて、
私も気が遠くなるような思いです。
どうか一人ではないと思召されて、私がおります。
………そう言づけておくれ。」
「はい。必ずやお伝え申し上げます。」
阿漕は裾が長くて衣擦れの音が立つような衣を脱ぎ、袴を引き上げて、密やかに落窪に君が閉じ込められている雑舎に向かいました。
わざわざ下廂をぐるりと回って落窪の君が閉じ込められている雑舎へと辿り着きました。
「もしもし。」と、そっと戸を叩きましたが、雑舎の中からは何の音も返って来なかったのです。
「姫様、もう、お休みあらしゃいました?」
「……あ…こぎ?」
「はい。阿漕でございまする。」
「阿漕……其方は無事だったのですね。」
「姫様、私のことなど案じて下さって……。
姫様、さぞや、心細い思いであらしゃいます。
人目を避けるために直ぐに参れませんでした。申し訳ございません。」
「阿漕、良いのです。今こうして来てくれたのだから、ね。」
「姫様、どうかお気を確かになされませ。」
「阿漕、お父様は、なんで、こないなこと、なさるのであらしゃいましょう。」
「北の方様が有らぬことを大殿様に仰せあらしゃいました。
ですので、今はどのようなお話もお聞きにあらしゃいませぬ。
姫様、あちらに右近の少将様がいらせられます。」
「少将様が?」
「姫様、お心を確かに持たれませ。
少将様はこの事態を大層驚かれておられます。
少将様よりのお言葉を承って参りました。良くお聞きくださりまし。
お伝え致します。」
「少将様の……。」
「貴女に会いたいと想い焦がれて来ましたが、まるで悪夢のような話を聞いて、
私も気が遠くなるような思いです。
どうか一人ではないと思召されて、私がおります。」
「少将様が………。」
「姫様、どうかお気を確かに持たれて少将様は姫様を愛おしく御想いです。」
「阿漕、少将様にお伝えしておくれ。」
「はい。お伝えいたします。」
「何も考えられなくて、何も申せませぬ。お逢いすることは……。
嫌な臭いの物ばかりが並んでおり、見苦しくて苦痛でございます。
私などが生きておりまする故に、このような目にも遭うのでございましょう。
「消えかへり あるにもあらぬ わが身にて 君をまた見む こと難きかな」
⦅私の命は消えてしまい、死んでいるような状態の私が貴方に再び会うことは難
しいことです。⦆……そうお伝えを……。」
という和歌を詠んで、阿漕に委ねました。
阿漕はまた密やかに音を立てないよう部屋に戻りました。
落窪の君からの返事を待っていた少将に、その返事を伝えました。
少将は落窪の君の悲しみに胸を衝かれたようでした。
落窪の君への想いが溢れて、直衣の袖に顔を押し当てて崩れ落ち、激しくむせび泣いたのです。
暫くの間、躊躇っていた少将でしたが、阿漕に再び頼みました。
「阿漕、もう一度姫に伝えてくれ。
『愛しい我が姫、私も悲しみのあまりにこれ以上言葉もありませぬ。
「あふことの 難くなりぬと 聞く宵は 明日を待つべき 心こそせね」
⦅逢うことが難しくなったと聞いたこの夜、絶望のあまりに明日を待つ気になれ
ないのです。⦆
私も、そして貴女もきっとこのような心持ちでしょう。
でも、そうは思わず、お互い希望を持ちましょう。』と。」
阿漕は再び落窪の君の元へと急ぎました。
急いでは居ても音が立たないように密やかに向かいました。
気をつけていたのにも関わらず、少し音が………。
すると、 北の方が目を覚まされたようで、「そこに居るのは誰だえ?」と声がしました。
阿漕は息を殺して、より一層音が立たないように気をつけながら向かいました。
雑舎の戸口で、阿漕は泣く泣く少将の伝言を伝えました。
「私も……これが私の想いだと、少将様に伝えておくれ。」
「短しと 人の心を 疑いし わが心こそ まづは消えけれ」
⦅貴方の愛情が一時のものだろうと疑っていた私の心こそ、
まずは死んで消えるべきなのですね。⦆
阿漕は北の方に見つからないように急ぎ戻りました。
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息子達も、娘も案じてくれて、幾度も訪ってくれています。
⦅幸せとは、このように家族に恵まれることなのですね。そんな当たり前のことを今更ながら思うなど……私は恵まれ過ぎて気付かなかったのですね。⦆と感じました。
そして、⦅落窪の君にも家族を……。⦆と思いました。
「孝子、書いておるのか……。
起きても大事無いのか?」
「吾が君様……心に懸けて頂き誠にありがとうございます。」
「大事無いのか? 無理をしては成らぬのだぞ。」
「もうご案じくださいますな。良いように成りましてございまする故。」
「そうか……そうか、良かったのう。」
「吾が君様がお待ちの物語も少しずつ認めて参ります。」
「無理はするなよ。」
「はい。」
父と母の話を聞いていた娘は微笑みながら言いました。
「誠にお父様とお母様は仲睦まじくいらせられて……
私も見習いたいと思っております。」
「親を揶揄うでないわっ!」
「揶揄うなどと……。」
「吾が君様、お叱りは私が受けまする。」
「叱ってなど、無いわ。」
「まぁ……左様にござりまするか?」
「左様だ。」
「本当に仲睦まじくていらせられる。」
「其方……もう、良いわ。」
「まぁ……おほほ……。」
「おほほ……。」
「二人で笑うでないわ。」
妻と娘が笑っている姿は公廉が⦅何時までも続いて欲しい。⦆と願う幸せでした。
下廂とは、下働きが使う下屋の廂です。