阿漕
孝子は公廉の理解を得て活き活きと過ごしています。文章を綴りながら……。
今日も文机で筆を走らせています。
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落窪の君と呼ばれるようになってから姫様の本当の名前を父君さえもお忘れになったようです。
日頃、落窪の君のお部屋に足を向けられることは無く、父君から忘れ去られたと言っても良いような姫様でした。
ある日、長らく顔を見ていなかった娘のことを思い出されたのでしょう。
落窪の君の部屋に訪れられました。
「落窪、其方、息災か?」
「はい。」
「震えておるのか?」
「いいえ………。」
「綿入れ……持っておらぬのか?」
「……………。」⦅どうしましょう。話したらお継母様に叱られるわ。⦆
「酷い物を着ているね。」
「…………。」⦅あぁ! どうしたら………。⦆
「何も答えぬのか……。」
そう呟かれた父君の言葉は落窪の君に聞こえませんでした。
「私も其方のことは気に掛けておるのだ。
だが、今は北の方の子らの世話をしなければならない。
……悪く思わないでくれまいか。
いつか、良い話が来たら……
「後朝の文」を交わし、「三日夜餅」を食せたら良いと思うておる。
そのような日が来たら……其方の好きなようにして欲しい。
こんな落窪で、そのような姿で縫物ばかりをしているのは哀れに思う。」
「はい。お父様。」
父君が部屋を出られてから、落窪の君は思いました。
⦅私には何も出来ない。本当のことをお父様に話せない。
寒くても、この部屋に火を起こせない。
寒くて炭火に当たろうとするとお継母様から叱られる。
贅沢だと叱られる。
衣服もお継母様が与えて下さらないのに、それを言うと酷く叱られるわ。
何も出来ない……何も変わらない。⦆
その頃、阿漕に心を寄せる男性が居ました。
落窪の君の異母姉妹である三の君の夫・蔵人の少将の帯刀です。
名は惟成という若者です。
惟成は三の君の元へ通う蔵人の少将の供として、源中納言家へ通っているうちに、三の君の女房である阿漕に恋をしたのです。
阿漕は一番美しい女房です。
黒々とした流れるような長い髪、きびきびとした聡明そうな美少女。
それが阿漕です。
惟成は心を込めて愛を囁きました。
惟成は口説きます。
「私がお仕えしている蔵人の少将様からのお覚えもいいと思っています。
それに、私の母は今を時めく右近の少将様の乳母です。
だから、身を立てられると思っている。
苦労はさせないから……妻になってくれまいか。」
「私は二人の姫様にお仕えしています。
だから、忙しくて………。」
「私のことを少しは想ってくれているとばかり……。」
「それは……そうですけど……。」
「では! 私の妻に……。」
「でも、三の君様ではない姫様にお仕えするには今のままの方が良いの。」
「どうして!」
「姫様をお守りしたいからよ。」
「それは私の妻になってからも出来るはず。」
「そうね……そうかもね。」
「そうだよ。」
「私の妻に。」
「ええ、なるわ。」
阿漕は姫様より早く夫を待つ身になったのです。
阿漕の⦅姫様に申し訳ない。⦆と思う気持ちを姫様が優しく消してくれました。
「そう……おめでとう。嬉しいわ。」
「姫様……ありがとうございます。」
落窪の君の心からの祝辞……たった一言の「おめでとう。」が阿漕は大変嬉しかったのです。
姫様の性格を熟知している阿漕ですから、その言葉が心からの言葉だと信じられました。
阿漕は源中納言家の邸の中の小さな一間を与えられていましたので、その一間が阿漕と惟成の新居でした。
妻・阿漕の元へ通うようになった惟成は、阿漕への想いが深まったことを感じました。
共に過ごす時間が多くなればなるほど、「こんなに好きになるなんて……もう他の女など目に入らない。勝気だけど聡明で気働きが優れていて、その上優しい……。こんな妻、他には居ない。」と惚気るほどでした。
ただ惟成が気に入らないことは一つあったのです。
それは阿漕が忙し過ぎて二人きりの時間が少なくなることでした。
そして、阿漕の口から幾度も出てきたのは落窪の君でした。
「元々は姫様だけに母とお仕えしていたの。
それが、母が亡くなってから姫様がこの邸に引き取られられて……。
それから、北の方が三の君様にお仕えするよう言いつけられたの。
悲しかったわ。私は姫様だけにお仕えしたかったの。
それにね。私の名前まで変えられてしまったの。北の方に……。
元は後見が私の名前だったのよ。
それを北の方が『三の君に仕えるのに不都合だ。』と……。
何が不都合なのか私には分からないわ。」
「本当だな。後見も良い名なのにな。」
「そうでしょう。」
「酷いお方だな。」
「とっても酷いお方なのよ。
それからね。姫様の調度品を奪ったのは北の方なのよ。
僅かに残った調度品は鏡と櫛、それから鏡を入れる箱。
それらは立派で大変美しい蒔絵なの。素晴らしい物なのよ。
お母上様の形見の品が手元に僅かしか残らなかったの。
お可哀想な姫様……。」
「そうなんだ。」
「姫様とは異母姉妹であられる三の君様も酷い言葉を仰ったのよ。
蔵人の少将様のお着物を縫っていらっしゃるのは姫様なの。
異母姉妹と言えど血が繋がった姉妹なのに……
三の君様は姫様のことを『針子』と……酷過ぎるわ。
暇様がお可哀想で、お可哀想で………。」
「そうなんだ……。」
落窪の君の話になると長くなりました。
そんな阿漕を優しい眼差しで見つめている惟成でした。
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部屋で文章を綴っていて気付くのが遅かったのです。
夫・公廉の声で孝子は気が付いたのです。
「この姫様に名前は無いのかい?」
「まぁ………吾が君様、お読みになられたのでございますか?」
「いけなかったかい?」
「いいえ………驚いただけでございます。」
「名前は考えてないのかい?」
「ええ、そうですわ。今は…………。」
「そうか………なかなかに面白い物語だな。」
「吾が君様にそう言って頂けると嬉しゅうございます。」
「さて、夕餉の時刻だよ。」
「はい。」
「参ろう。」
「はい。お供致します。」
今日も夫の後姿を見ながら廊下を歩む孝子でした。
帯刀は護衛の役職名です。