発覚
孝子は娘のことを気に掛けていましたが、娘の婿君よりも息子が北の方を迎えました。
その迎えた北の方の名を聞いて、孝子は驚きました。
「あの方ではないのですね。」
「はい。……あれから縁がありまして……。」
「そうなのですか。……あの方は如何なされておいでです?」
「恙無く暮らしております。」
「これからも通うのですか?」
「それは……分かりませぬ。」
「そうですか……。先般、赤子を失われました。」
「はい。短い命でございました。」
「その方に……話したのですか?」
「はい。話さねばならぬことでございます故。」
「そうですか……。お辛い時に……お辛いことを……。」
「止むを得ませぬ! 私も持て成して下さる家の姫君でないと……。」
「そうですね。申し訳ございませぬ。口を挟むべきことではございませぬ。」
「……いいえ、母上。」
帰って行く息子の後姿を見送った孝子は思いました。
⦅あの子は決して心から喜んで北の方を決めたのではない。
それでも、私は捨てられたような想いでいらせられるお方が気になってしまう。
それは、同じ女だからやもしれぬ。⦆
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恋する二人が二人だけで過ごす夜は、楽しい時が流れます。
落窪の君は縫物をしています。
ようやく下襲を縫い上げました。
今度は袍に折り目を付けようとしましたが、一人では折ることは出来ません。
落窪の君は阿漕も少納言も居ないので、困っています。
「私がお手伝い致しましょう。」
「少将様が? でも、殿方にそのようなこと………。」
「まぁ、見ていて下さい。私は腕っこきの職人ですよ。」
少将は落窪の君と向かい合って布を引っ張り、折り目を二人で付けていきます。
阿漕に手伝って貰う時よりも時間が掛かりますが、落窪の君は美しい笑顔です。
「四の君との縁でございまするが、誠にお断りにならしゃいましたの?」
「何を仰せにならしゃるのか……もし、交野の少将が貴女を妻に迎えたなら
私も公然と四の君の婿に収まりますよ。」
少将とそのように言いあって笑い合いました。
暫くの間、二人で折り目を付けていましたが、やがて夜になりました。
「ずいぶんと夜が更けてしまった。そろそろ寝たらどうです?」
「今少しで出来上がります。
少将様こそ早くお休み下さいませ。もう縫い終わります。」
「おや、一人で起きているつもりですか?」
そのように落窪の君が起きていますので、少将も付き合って寝ずに手伝いました。
その頃、北の方は落窪の君が縫物をしているかどうか気になっていました。
そっと落窪の君の部屋へやって来ました。
部屋に近づくと、微かに男の声が聞こえて来たのです。
驚いた北の方は足が止まりました。
戸がほんの少し開いていました。
北の方はそっと覗いて、我が目を疑いました。
一瞬、息をするのさえ忘れて、部屋の中を見ました。
戸に背を向けているのは落窪の君です。
その向かいに座り、縫物を落窪の君としているのは、女房の少納言ではなかったのです。
阿漕でもなく、若い男です。
⦅もしかしたら……。⦆と思っていた帯刀の惟成ではなかったのです。
見知らぬ男。
それも、品の良い白い袿を着て、艶やかな山吹色の掻練を一襲着て、他の衣は女が裳を着る時のように腰に引きかけていて、気品高い身なりで寛いでいます。
灯りの明るい火影に照らされた顔はいつまでも見ていたいような美しい顔立ちで、どこか親しみやすい茶目っ気も感じさせます。
その笑顔は快活で、知性溢れる表情です。
⦅一体、何者?
どこの誰だか分らぬが、高貴な公達に違いない。
並の身分ではあるまい……もしや、蔵人の少将より上の……。
ああ――っ! 腹が立つ!
もし……もし……あの男が落窪を連れ出してしまったら………
もう、源中納言家に美しく仕立てられる針子が居なくなるじゃないかっ!
それは、困るのじゃ。何とかして落窪を、この邸から出さぬようにせねば!⦆
落窪の君を忌々しく思う北の方は悔しさで、もう縫い物のことなど忘れて聞き耳を立てて覗いています。
「慣れないことをして疲れてしまいましたよ。
貴女も眠そうだ。もう途中でも構わないじゃありませんか。
そのままで抛って寝ましょう。」
「私は御叱りを受けるのが辛うございます。」
「北の方が勝手に怒っているだけですよ。
怒らせておけば良いのです。」
「でも……御叱りを受けるのが恐ろしいのです。」
落窪の君は、そう言いながら縫い続けています。
少将は擬しく思い、灯を扇で扇いで消してしまいました。
途端に辺りは真っ暗になりました。
「困りますわ。片付けも出来ません。」
「そんな物は几帳にでも引っかけておけば良いのです。」
少将は自ら縫物を几帳に引っかけました。
そして、落窪の君を抱きしめて……二人は休んだのです。
北の方は憤懣遣るかたない思いで自室へ戻って行きました。
⦅あの男……『怒らせておけば良いのです。』とか申しておった。
落ち窪め! あの男に私のことを悪し様に言いおったな。
それに! 大切な急ぎの装束を……『そんな物』とはっ!⦆
北の方は横になりましたが、悔しくて眠れません。
⦅おのれぇ―っ! 落ち窪め、どうしてくれよう……。
大殿様に言いつけて……否、あの男が落窪を連れだしたら……。
金子が要らぬのに、あんなに腕が立つ針子は居ない。
いつまでも、落窪をこの邸に留め置き、一生働かせるのじゃ。
その為には、どうにかして、あの男と別れさせねばならぬ。
如何に……。⦆
北の方は考えを巡らせました。
⦅そうじゃ! 帯刀の惟成! あの者を使おう。
大殿様に落窪が帯刀の惟成と通じておった、と嘘を吐けば良い。
落窪の部屋が遠い……私の目が届かなかった。
今度は、部屋に閉じ込めて監視をすれば良いのじゃ。
文のやり取りも出来ぬようにすれば、きっと男も離れるだろう。
そうじゃ、落窪のことなど忘れてしまうだろうよ。
高貴な公達と見た。
そんな男が、貧しい落窪のことなど思い出すことも無かろう。
それだけでは、甘いな……そうじゃ!
うふふ……あははは………。
私の叔父上がいらせられたわ。
叔父上、典薬の助に通って頂ければ良い。
そうじゃ。典薬の助の妻に成れば良いのじゃ。⦆
典薬の助は、齢60くらいの老人です。
貧しい故に、姪の北の方が住まう邸に身を寄せています。
居候の身ですが、宮中の医療や薬を司る役所の次官です。
その役職名が典薬の助なのです。
典薬の助は、年に似合わぬ落ち着きの無さで……しかも好色なのです。
そんなことは露知らず、少将は落窪の君と仲睦まじく語り明かしました。
そして夜が白みかけた頃に少将は帰って行きました。
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公廉は孝子よりも先に聞いていました。
「幼子を失ったあの方を、出来得る限り気に掛けるように言っておいた。」
「ありがとうございまする。」
「其方が礼を言うことではなかろう。」
「同じ女故……。」
「そうじゃな。」
「……吾が君様は………。」
「うん? なんじゃ?」
「……いいえ……何でもございませぬ。」
「そうか………。」
沈み気持ちの二人を月明かりが包んでいました。
掻練とは、襲の色目の名です。表裏ともに紅で、冬から春まで用いました。