落窪の君
朝から夜が更けるまで孝子は文机の前に座っていました。
それを公廉は大変案じていました。
部屋の前で声を掛けます。
「孝子、ひるくごの刻限や。」
「あ……もちと……どうかお先に召し上がり遊ばしませ。」
「いいや、其方を待つ。待っておる。」
「……はい。」
⦅あぁ……若かった頃は『吾が君さん』と呼んでくれていたのに……。
今は、公廉さん……も一遍、あの頃のように呼んでくれへんやろか……。⦆
寂しく妻の部屋から離れていく夫のことなど眼中にない孝子でした。
孝子は物語を進めます。
その筆から若い人の活き活きとした様子が綴られます。
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その方は、幼い頃に母君を亡くして乳母が育てておりました。
乳母が亡くなってから、その方の父君・中納言の源忠頼は、その方をお引き取りになられました。
父君が新しく妻に迎えた後妻・北の方。
その方は継母に虐められて育ったのです。
乳母亡き後、その乳母の娘・阿漕が唯一の味方でした。
その方は広い屋敷の中で継母により、畳が落ち窪んだ部屋に住まわせられて、その部屋に押し込められたました。
そして、【落窪】と呼ばれたその部屋に押し込められたその方を……屋敷の者皆が【落窪の君】と呼びました。
「落窪、まだ出来てへんのか?」
「お継母さん、申し訳ございません。先に御申しつけのこちを…。」
「何を言うてはるのや!
この衣装は三の君の婿である蔵人の少将がお召し遊ばされるのや。
他の物は後に回し、こちを早うお仕立てやっしゃ。」
「はい。お継母さん。」
急ぎ落窪の君に北の方が縫わせているのは三女・三の君の婿である蔵人の少将が着る袴でした。
北の方が産んだ娘は4人。
上から大君、中の君、三の君、そして四の君です。
男の子は3人です。
上から太郎君、次郎君、そして最後に生まれた男の子が名を三郎君と付けられた愛らしい子です。
三郎君は琴を習っていたことから、琴が上手な落窪の君と仲良くなりました。
落窪の君にも琴を習っている三郎君です。
落窪の君にとって、広い屋敷で唯一の心許せる異母弟です。
北の君は落窪の君の名前を誰にも呼ばせませんでした。
それどころか……女房達にも「お姫さん」と呼ぶことを許さず、「落窪の君」と呼ぶように言いつけました。
阿漕も屋敷の人の前では「お姫さん」と呼べず……「落窪の君」と呼ぶしかありません。
北の方は落窪の君の母親が残した調度品も奪いました。
几帳も何もかも奪われて、形見の品は僅かに残った調度品しか落窪の君の手元に残らなかったのです。
唯一の味方である阿漕をも北の方は奪いました。
見目麗しい女房を仕えさせることが公家の姫君にとって大切なことでしたので、見目麗しく気働きが優れている阿漕を北の方は三の君の女房にしてしまったのです。
阿漕は、三の君の女房としての仕事の合間に……落窪の君の元へ会いに行っていました。
継母に虐められる辛い日々の中……落窪の君は和歌を詠みました。
「日にそへて 憂さのみまさる 世の中に 心尽くしの 身をいかにせむ」
⦅毎日辛いことばかりの世の中で、先が思いやられるこの身をどうしたらいいのでしょう。⦆と嘆く落窪の君。
落窪の君のことを心から案じている阿漕は、「お姫さんにも、通う公達がいらせられたら……けれども、お姫さんお一人だけを大事になさって下さるお方でないと! そして、この邸から連れ出して下さるお方……どこぞに居らせられたら……ええのに……。」と気に病んでいたのです。
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⦅あぁ……これから先をどない進めましょう……。⦆と先を進めている時に、また声がしました。
「孝子、もうおそそもじや。
早うひるくごを召し上がりなされや。」
「あっ! 失念しておりました。」
そう言って部屋から出ると、案じていた様子の夫が目の前に居ました。
「公廉さん……申し訳ございません。」
「……ええのや……それはそうと………あの……。」
「何でございますか?」
「其方……もう呼んでくれへんのか?」
「はぁ? 何をであらしゃいますか?」
「私の……あの……あれ……。」
「……はい?」
「昔は呼んでくれていたやないかっ!」
「何のことでござりますか?」
「私のことやっ!」
「公廉さんのこと……であらしゃいますか?」
「それやない!」
「はい? ほな……何でございますか?」
「……あ……あが……吾が君さん!……そう呼んでくれてた……やろ。」
「あっ!……公廉さんでは…あかんのでございますか?」
「あかん……のやない……けど……。」
「はい。」
「………呼んでくれへんか?……その昔のように……吾が君さん!と……。」
「うふふっ……。」
「何が可笑しいのや!」
「もう若うありませぬ。」
「別に、ええやないかっ!」
「ほな。二人だけの時に………吾が君さん、参りましょう。」
「!……参ろう。」
嬉し気に先を行く夫の後姿を見ながら、孝子は⦅公廉さんの妻になれて宜しおした。⦆と思ったのです。
ひるくご…昼食。