三日夜の餅
健やかになったといっても、まだまだ床に就く日がある孝子です。
公廉は孝子の身体を案じています。
帰って来た当初は祈祷も薬師も頼みましたが、今は頼んでいません。
何も頼まずとも孝子は恙無く暮らせています。
床に就く日があれども、その時間は短く……息が荒いこともありません。
穏やかに過ぎていく日々なのです。
この日々は「物語を書く」ということが運んでくれたと公廉は信じています。
⦅孝子が好きな物を書くことが健やかな日々をくれたのだ。
このまま、ずっと……この穏やかな日々を過ごしたい。孝子と……。⦆
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源中納言の邸に着くと、右近の少将と惟成はやっとのことで門を開けて貰いました。
少将と惟成は阿漕の部屋で女童に「先ず、水を……。」と頼み、泥濘みを歩いて来た少将の足を洗わせました。惟成も足を洗いました。
汚れた衣も水で洗いました。
二人があまりにも汚れていましたので、女童は大わらわです。
阿漕は落窪の君の部屋にいるようで、姿が見えません。
「惟成、明日は夜明け前、特に早くに起きるように。
こんな姿で朝の光の中、外を歩けないではないか。
無様な姿を私は晒したくない。
今の私は見事なほど無様な姿であることよ。」
そう笑って言い、少将は洗ったばかりの濡れた衣を身に纏い、姫の部屋の格子を忍びやかに叩きました。
落窪の君はその時、物思いに耽って涙を流していました。
少将が今宵忍んで来ないと分かり、それが悲しいというよりも、⦅少将との逢瀬が人の口にのぼって、北の方の耳に届いたら何といわれるだろうか。⦆と恐ろしくて身を震わせていたのです。
⦅楽しいことは、あっという間に過ぎ去ってしまい、辛いことの方が長いのね。⦆と思うと悲しくなってしまいました。
阿漕は⦅折角、用意した三日夜の餅……この雨のせいで……お流れになってしまったわ。⦆と思うと、恨めしくて落窪の君の部屋に行き愚痴を言ったり、慰めたりしていました。
そのうちに、落窪の君は世の中の辛いことばかり思い乱れて、涙を流し泣き伏してしまったのです。
その姿を見た阿漕は⦅姫様はお休みになられたみたいだわ。⦆と思い、疲れた体を癒すかのように落窪の君の傍で脇息に寄り掛かり眠りました。
すると、妙な音に目を覚ましました。
格子が鳴る音がしたのです。
驚いて阿漕は格子の傍に行きました。
「私だ。少将だ。開けよ。」という声がしました。
驚いて格子を引き上げると、そこには、ずぶ濡れの少将が立っていたのです。
⦅歩いていらしたのだわ。少将様は不実なお方ではなかった。⦆と阿漕の喜びは一入ではありません。
「まぁ、こんなにお濡れになられて………御召し物をお脱ぎ下さりませ。
御身体に毒でございます。どうか姫様の衣を代わりに御召下さいませ。」
「惟成が『阿漕に叱られる。』と頭を抱えていたのだよ。
見ていられないほど可哀想だったからね。
二人で徒歩でやって来たのだ。
見よ。指貫の裾の括りを脛まで上げて来たのだ。
だが、転んで泥が付いてしまった。」
「本当に良くぞ良くぞ御出で下さりました。
御召し物を乾かして参ります。」
阿漕は喜びに溢れて、いそいそと部屋を退りました。
阿漕が退りますと、少将は几帳を押しのけて落窪の君の傍へ行きました。
「『こんな姿になってまで、よくぞいらしてくれました。』と言って、私を抱きし
めて下さったのならどれほど嬉しいことでしょう。
でも、姫君はどうして私を見て下さらないのでしょうか?」
そうして少将は手探りで落窪の君を抱きしめようとすると、落窪の君の衣の袖が少し濡れていることに気が付きました。
⦅私が来ないと思って泣いていたのか。⦆と思うと、少将は姫を愛しく想うのです。
「何事を 思へるさまの 袖ならむ」
⦅何を思って流した涙で濡れた袖なのでしょう。⦆
そのように少将が上の句を読めば……落窪の君は、その上の句に応えて……
「身をしる雨の しづくなるべし」
⦅貴方が来ない、という我が身の悲しみを思い知る涙の雨に濡れたのでしょう。⦆
……と下の句を読んだのです。
そして、恥ずかしそうに笑う落窪の君を少将は、いじらしく可愛く思いました。
「姫君が思い知らされるのは、辛いことではありませぬ。
私の貴女への、この想いです。」
少将は落窪の君を優しく抱きしめました。
そこへ阿漕が美しく盛り付けられた小さな餅を持って来ました。
「少将様、姫様、どうか御召上げり下さいませ。」
「今は何も要らない。朝にしてくれ。」
「少将様、こればかりは………。
今宵のうちにお召し上がり頂きませんと……縁起物でございまする故。」
⦅縁起物? もしや、三日夜の餅か?
姫君には後ろ盾が居ないのに、親にさえ気にも掛けて貰えていないのに……
阿漕か? 姫君の為に……そうか……こんなにも待っていてくれたのだな。⦆
「これが、三日夜の餅だな。作法があるのか?
どのようにして食するのじゃy?」
「少将様がご存知で無いとは驚きましたわ。」
「私は妻を迎えていないのだ。この餅を見るのも始めてだと言うに……
私は知らぬのだぞ。」
「では、作法をお伝え致します。
殿方はこの小さな餅を三つ、噛み切らずにお召し上がり下さいませ。」
「何? 三つも……嚙み切らずにとな……食すのが難しいぞ。
……それで、姫君は幾つ食するのだ?」
「姫様は、お幾つでも結構でございます。」
「幾つでも良い」と言われた落窪の君は恥ずかしくて食べません。
少将は真面目に食べて、阿漕に聞きました。
「三の君の婿、蔵人の少将も、このように食したのか?」
「それは、お召し上がりになられたことと存じます。」
⦅本来ならば……
客人を招き、家人とも顔合わせをし、父君の中納言殿と酒を酌み交わす……
なれど、姫君の境遇では出来まい。これから先も……。
ならば…………。⦆
「いつか、時満ちれば私が披露の宴を設けましょうぞ。
ですが、姫君。厳粛な宴を執り行わなくとも、今宵、私と貴女は共に生きると
誓いあったのです。」
「少将様、姫様。おめでとうございます。
少将様、お願いでございます。
末永く姫様をお幸せにして差し上げて下さいまし。」
「それは、私こそ………これからも宜しく頼む。」
「はい。」
落窪の君の部屋に明るい笑い声が溢れました。
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今宵も公廉は孝子の傍に居ます。
二人で月を眺めていますと、公廉は物語の話をし始めました。
「あの三日夜の餅、良かったぞ。」
「吾が君様は私が書いた物を何でも『良かった。』と仰せになられまする。」
「そうか?」
「はい。」
「いけないか?」
「……いいえ、嬉しゅうござりまする。
ただ……本当に誰もが良いと言って下さる物かは分かりませぬ。」
「否、誰もが良いというはずじゃ。其方の物語は面白い。」
「吾が君様がそう仰せなら……このままで……。」
「うむ。このままで………。」⦅このまま健やかなれ。孝子。⦆
二人だけの時間がゆっくりと優しく過ぎていきました。