雨の中
雨に打たれてずぶ濡れになった公廉は、生来の剛健な身体のお陰で風邪をひくことなく過ごしています。
孝子は安堵しました。
公廉とこれから先も共に歩みたいとの祈りにも似た気持ちを孝子は持っています。
⦅吾が君様と末永う吾が君様のお傍に……それだけが孝子の願いでございます。
神仏に祈願したくとも、どこにも詣でられぬこの身が哀しい……。
姫様のお供で詣でた石山寺に吾が君様と……私は詣でたかったわ。
言っても詮無き事……。身位が違うのですもの……。⦆
雨に打たれても居ないのに、床に臥すことがある孝子にとって、⦅この先、私はどのくらい生きていられるのでしょう?⦆という思いがあるのです。
⦅やっと、吾が君様と暮らせるようになったのに……
やっと我が子に会えるようになったのに……
この身体は弱すぎて……哀しいこと……。⦆
孝子は⦅物語の中の人々は健やかな身体を持つ人達にしたい。⦆と思いました。
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阿漕は雨を恨めしく見つめています。
右近の少将をお迎えする為の様々な心配りや用意が儚く水の泡になってしまいました。
それが悲しく心が落ち込んでしまっています。
落窪の君の部屋でしきりに愚痴をこぼしました。
「憎らしい雨でございます。」
「どうして雨が憎らしいの?」
「それは……今宵も少将様がお見えだと思っておりましたもので……。」
「阿漕……。」
「こんなに……土砂降りにならなくても良うございましたのに……。
運悪く今宵が雨だなんて………。」
「……あのお方は、雨が降らなくても、御出でにならなかったかもしれないわ。
……降りぞ勝れる………。」
落窪の君は「私を思ってくれているのなら、あなたは雨でも来てくれるでしょう。それとも、あなたが思ってくれないから、雨が降るのかしら・・・。」と伊勢物語に出てくる恋人達に想いを馳せました。
その言葉を口にしてから落窪の君は⦅阿漕はどう思ったかしら?⦆と恥ずかしくなりました。
恥ずかしさで自ずと頬が薄っすら紅色に染まっていきました。
落窪の君は脇息に寄りかかって俯せになりました。
落窪の君は知らず知らずのうちに少将を待ち焦がれている我が身に気が付いたのです。
その頃、少将と惟成は、二人とも白い袿の一揃いだけを着て、まるで輿かつぎのように前後に連れ立って、大傘を二人で差し、ひっそりと邸を出ました。
少将と惟成二人だけでの源中納言家への道中です。
真っ暗な上に、雨がざぁざぁと降っています。
京の都といっても月明かりの無い夜は真っ暗です。
しかも雨で道は泥濘るんでいます。
少将と惟成は泥濘るむ道に足を取られながら難儀して歩いていました。
歩いていると、小路を横切る時に行列と出会いました。
たくさんの松明を点し、雑色達を従えて武装した役人たちが通ろうとしました。
⦅衛門督の一行だな。⦆と少将は思いました。
衛門督は、宮門警備の役目を持つ衛門府の長官です。
小路は狭くて隠れることができず、体を道の端に寄せて大傘を傾けて進みましたが、その武装した役人達の行列の雑色達が少将と惟成を呼び止めたのです。
「止まれ! この雨の中、男二人が連れ立って行くとは怪しい。
盗人やもしれぬ。捕らえろ!」
「怪しい者ではございませぬ。主人の用で使いに参る者でございます。」
惟成が少将の前に出て庇いながら言った言葉を遮るように雑色達は咎めます。
「怪しくない者が何故、傘で顔を隠すのだ!」
雑色達は大傘を叩き落とそうとしました。
少将と惟成は必死で大傘にしがみ付いていました。
別の雑色が松明を近づけて言いました。
「なるほど、足が真っ白だ。盗人ではないやもしれぬ。」
「否、今時の盗人は足が白いと聞く。」
「何の泥棒だ? 女でも盗みに行くのか?」
雑色達が皆で笑います。
二人はもう、これで解放してくれると思っていましたが、一人の雑色が言ったのです。
「おい、無礼だぞ! 突っ立っている奴があるかっ! 土下座しろっ!」
通り過ぎざまに突き飛ばしたのです。
少将と惟成は大傘毎、道端に尻餅を付いてしまいました。
途端に泥濘るみの異様な匂いに気が付きました。
どうやら牛の糞の上に転んでしまったようです。
雑色たちは松明の火を吹いて燃え上がらせて少将を見ました。
「指貫を穿いてたぞ。公家じゃないのか?」
「なに、卑しい身分の男が、惚れた女の所にでも行くんだろ。」
口々にそう言っては、遠ざかって行きました。
行列が通り過ぎると、惟成は少将を助け起こしました。
「畜生っ! 忌々しい奴らだ!
若様、お怪我は有りませぬか?」
「怪我は無い。……雑色が捕らえろと言った時には、死ぬかと思った。」
「全くでございます。奴らが『捕らえろ!』と、言った時は、どうなることかと
気が気ではありませなんだ。」
「………それにしても、私のことを『足が白い盗人』だと……面白かったぞ。」
「誠に………。」
「あぁ…………この有様では、恋も色気も吹き飛んでしまった。
惟成、これを見よ。糞まみれになってしまった。
これでは姫君に嫌われよう………。お会いしたいが、今宵は帰ろうぞ。」
少将と惟成は笑い続けていました。
「若様、このお姿でも姫様を訪えば、お優しい姫様は感動なさいます。
こんな大雨の日にご苦労なされての訪いでございます。
臭い匂いも姫様におかれましては麝香の香りのようにお思いになられます。」
「方便だな。惟成。」
「それに、もう御邸は遠うございます。
ここからなら、源中納言の御邸の方が近こうございます。
それに降る雨が匂いや汚れを消してくれましょうほどに……。
若様、姫様の御邸は、もう直ぐ……そこでございます。
姫様の所へお出でなさいませ。」
「そうか………では、そうしよう。」
「はい。お供仕りまする。」
⦅今は汚れていても、この雨に打たれていれば、洗濯桶の中に居るようなものだ。それに……この激しい雨の中、訪えば姫君もきっと我が想いを分かって下さるだろう。⦆と少将は思いました。
冷たい雨が降りしきる中を滾る想いを胸に、少将は源中納言家へと急ぎました。
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孝子の部屋で孝子が書いた物語を読むのが今の公廉の日課になっています。
「これは! 面白き話よ。牛の糞の上に……。あの右近の少将が………。」と言って大声で笑っています。
「お気に召しましたか? 吾が君様。」
「気に入ったぞ。誠に面白き話じゃ。
はてさて……幾ら雨が激しくとも糞を流してしまうほどではあるまいに……。
どうなるのじゃ?」
「さぁ………。」
「さぁ………どうなのじゃ。『さぁ……。』では分からぬ。」
「これから、考えまする。」
「これから、か。」
「はい。ゆっくりと考えまする。」
「また、明日が楽しみじゃ。」
「お待ち下さりまし。吾が君様。」
「うむ。待とうぞ。其方の物語を……。」
二人は夕餉を摂るために部屋を仲良く出て行きました。
雑色とは、雑役の小者を表す言葉です。
指貫とは、括り緒の袴の一つで、裾口に紐をさし通し、着用の際に裾をくくって足首に結ぶものです。