後朝の文
共に年を重ねたと思う孝子です。
皺も……白髪も……若い頃とは違ってしまった見た目。
公廉の顔に刻み込まれた皺が、黒々とした髪の中にある白い髪が、孝子は愛おしいと思っています。
物語の右近の少将にも、いずれ皺が出来、白髪も生えてくるでしょう。
そんな少将の傍に落窪の君を……と、思い描きながら孝子は物語を進めました。
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右近の少将が落窪の君と後朝の文を初めて交わしました。
そして、日が暮れる頃から再び降り始めた雨は、時間が経つにつれて雨脚が強くなりました。
雨脚に切れ目が無く、雨は止みそうにありません。
⦅この雨では餅が届かないかもしれない……。⦆と阿漕は落胆しました。
日がやっと暮れる頃、酷く降っている雨の中を叔母の使者がやって来ました。
使者はもう一人の使者に大傘を差させて、朴の木でできた櫃を持っていました。
櫃の中には、草餅が二種類、普通の餅が二種類、小振りでで美しく設えてありました。
阿漕は叔母からの文を読みました。
「突然のお願いでしたので、急いで作りました。
貴女が望むような物ではないでしょう。
貴女が可愛くて仕方ない私の気持ちを、十分に表せられず口惜しい。
そう思っているのですよ。」
阿漕は叔母の文を読んで、叔母の心を有難く受け取りました。
叔母が気にしている餅の大きさは、阿漕が求めていた大きさでした。
⦅叔母様、本当にありがとうございます。餅の大きさ……欲しい物の大きさ其の物ですわ。⦆と嬉しく受け取りました。
使者が「雨が酷くなっておりますので……。」と急いで帰ろうとしましたので、阿漕は使者に酒だけ飲ませました。
「叔母様、こんなに嬉しいことはございません。
此度のお礼は、月並みな言葉では言い表せません。」
叔母へのお礼の文を使者に持たせました。
全ての用意を終えてから、阿漕は落窪の君へ菓子を差し上げました。
後は右近の少将が邸に訪れるのを待つばかりになりました。
もう準備は万端整ったのです。
その日は暗くなるにつれて雨は激しく降り、土砂降りになりました。
右近の少将と落窪の君の露顕の儀は今宵なのです。
左大将邸の少将は、恨めし気に雨を眺めています。
「酷い雨だ。これでは今宵、訪うことは叶うまい。
ただ、心変わりと思われとうない。文を……文を届けよう。」
「はい。この雨では致し方ないと心得ます。」
この土砂降りでは牛車も出せません。
惟成も大変残念でしたが、止むを得ないと思いました。
少将は落窪の君へ、惟成は阿漕へ文を届けました。
「早くそちらへ行こうと準備をしているうちに、雨脚が酷くなりました。
それで、そちらに伺えなくなりました。
貴女への愛が消えたわけではございませぬ。
どうか、悪く思われませぬよう………。」
落窪の君は少将が訪れないと分かり、心が沈んでいきました。
その想いを込めて文を書きました。たった一首の和歌の文でした。
「世にふるを うき身と思ふ わが袖の ぬれはじめける 宵の雨かな」
⦅今でもこの世に居るのが辛い私の袖が、今宵は雨が降って貴方が来ないので、もう濡れ始めています。⦆
「若様は出掛けられるよう、なさっておいでだったのだ。
だが、この雨だ。牛車を出せない。
若様は大層残念がっていらせられる。
私も残念だが、止むを得まい。
其方から姫様に良く申し上げて欲しい。
だが、私は其方に会いに行く。後になるが、一人で行く。
若様のような上つ方とは違い、私はずぶ濡れも凍えも堪えない。
行くので待っていてくれ。」
阿漕は心底落胆しました。
その気持ちをそのままに惟成への文に書きました。
こちらは長い文です。
「『降るとも』って古歌を知っていないのかしら?
昔の人は、今宵行くと言ったら、雨が降ろうが風が吹こうが訪れられたの。
昔の人に出来て、今の公達にはお出来になれないのかしら?
雨に濡れたら少将様は溶けて消えてしまいますの?
少将様の愛情は何てそのように薄いのかしら?
姫様に何と申し上げればいいのやら。
ところで、貴方は一体何を期待して一人で来るの?
少将様がお見えにならないという失態を犯して、尚一人で来るなんて。
世間では『今宵来ざらむ』、今日来ない人は今後も来られないって言うの。
少将様も今後もう姫様の元へはお見えにならないのでしょうね。」
既にずぶ濡れの使者がより一層濡れて、少将への落窪の君の文と惟成への阿漕の文を持ち帰ったのは、戌の刻(午後8時)を過ぎていました。
灯にかざして文を読んだ少将は、落窪の君に会いたくて仕方なくなりました。
惟成に届いた阿漕の文も少将は読みました。
「随分、拗ねておるな。
そういえば今宵は三日夜、三日目の夜だったのか。
訪れるようになって三日目に伺わないとなると……
けしからぬと思われるのだろう。
大切な日に伺わぬと……姫君も悲しませてしまった。
惟成、其方は如何する?」
「私だけでも訪うて、姫様の御心をお慰めしたいと思うておりまする。」
「この雨の中を其方は行くのか……。」
「濡れネズミになろうとも参りまする。」
「そうか……私も行こう!」
「誠でござりまするか! それは大層宜しゅうござりまする。
姫様がお喜びになられます。
では、若様。少しでも早く参りましょう。」
「この雨脚だ。この衣ではなく粗末な物に着替えよう。」
「はい。」
「それから、其方は大傘を一つ用意せよ。」
少将と惟成は二人でお忍びの外出の用意をします、
それを落窪の君は知りません。
阿漕も知らされぬままに時が過ぎていきました。
雨が激しく音を立てて降っている夜でした。
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「ふむ。雨の中の逢瀬……さぞ嬉しかろうな。」
「吾が君様……もうお読みになられたのですか?」
「成らぬのか?」
「いいえ、左様なことは………。」
「して、孝子。この後は?」
「これから書きまする。今暫くお待ち下さりまし。」
「うむ。………孝子。」
「はい。」
「大事ないか?」
「はぁ…………。」
「身体は如何じゃ。」
「はい。帰ってからは、このように過ごせております。」
「其方が健やかであれば良いのじゃ。」
「吾が君様、お心遣いありがとうございまする。」
孝子は公廉の顔を、髪を見ました。
皺が刻まれている顔、白い物が所々に見える髪……。
その全てが⦅愛おしい。⦆と見る度に思う孝子でした。