持て成す阿漕
物語を綴っている孝子の耳に雨音が聞こえてきました。
初めは静かな雨音でしたが、段々と激しい音になりました。
見ると、雨風が強くなっています。
出掛けた夫・公廉のことを孝子は案じました。
⦅風邪などお召しにならなければ良いのだけど……。⦆と……。
そうこうしているうちに、公廉が帰って来ました。
「まぁ……吾が君様。ずぶ濡れではございませぬか。」
「うむ。酷い雨だったからのう……已む無いわ。」
「早く、お身体をこちらへ……。」
「大丈夫じゃ。案ずるな。」
「案じまする! 吾が君様、どうか……お風邪を召されましたら……。」
孝子が公廉の身体を拭き、着替えを用意させました。
「そうじゃな……私が風邪をひき、其方にうつしてはならぬ。」
「吾が君様、孝子は我が身可愛さで申し上げておるのではございませぬ。
吾が君様にはお健やかにお暮し頂きとうござりまする。」
「分かった。分かったから……のう孝子。こちらを向いてくれまいか。」
拗ねた様子の妻を愛らしいと感じた公廉でした。
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右近の少将が落窪の君の元を訪れてから、今宵は三日目です。
本来なら露顕の儀を執り行う日です。
露顕の儀は、客人を招き縁あって結ばれた二人を披露の宴を執り行い、舅と婿が対面して酒を酌み交わし、若い二人は「三日夜の餅」という餅を食べるのです。
当たり前の儀式である露顕が出来るような関係ではないのが、右近の少将と落窪の君です。
父君の源中納言も、継母である北の方にも知られないように密かに結んだ縁だからです。
邸の者はほとんど石山詣でに行ってしまっている今だからこそ結ぶことが出来た縁でもありました。
阿漕は⦅なんとか、姫様の御為に人並みの露顕の儀をして差し上げたい。何とか餅を手に入れられないかしら?⦆と、考えました。
思い浮かべたのは叔母です。
叔母に文を書きました。
「叔母様、早速、結構なお品を頂きまして誠にありがとうございます。
頂戴した品々で御持て成し致しましたら、客人も大層喜んで下さいました。
叔母様のお優しいお言葉に甘えさせて頂きとう存じます。
誠に申し訳なく思いまするが、何卒お餅を少し頂くことは叶いますか?
今夜、少し変わった理由で餅が必要になりました。
餅だけでなく、取り合わせのお菓子もあったら、少し下さい。
ちょっと泊まりに来られた客人と思っておりました所……
実は四十五日の方違でございました。
そのような訳でございますので、お借りしている品物がもう少し必要でございま
す。
盥や半插なども、綺麗な物でお貸し頂けましたら、暫しの間、お貸し下さります
ようお願い致します。」
和泉守の邸に叔母宛ての文を届けました。
阿漕が露顕の儀で色々考えて動いているうちに、帰って間もない少将から落窪の君へ文が届きました。
「よそにては なほわが恋を ます鏡 そへる影とは いかでならまし」
⦅貴女から離れて他の場所に居ても、なお私の恋心は増すばかり。貴女が眺める鏡に映る影のように、貴女と一緒に居られたらどんなに素晴らしいことでしょう。⦆
優しい文に落窪の君も此度ばかりは返事を書きました。
「身をさらぬ 影と見えては ます鏡 はかなくうつる ことぞかなしき」
⦅貴方を、私と不可分の影のように思えて、私の恋心も増しています。でも真澄鏡は人の姿を儚く映し、貴方の心も他の女性に儚く移ってしまったら、悲しいことでしょう。⦆
少将が受け取った文。
少将へ初めての落窪の君からの文はとても美しい筆跡で、⦅趣があることだ。⦆と少将は思いました。
⦅なんという正直な人なのだろう。
こんなに素敵な姫君が、私に恋したと言ってくれている。
私の心変わりを案じるくらいに恋してくれている。嫉妬も……。⦆
少将は、もう落窪の君に夢中で、文を胸に抱きしめて読み返しています。
阿漕の元へは叔母からの返事の文と共に道具類が届けられました。
「娘がいない私は、亡き人の忘れ形見である貴女が可愛いのです。
貴女を娘のように大切に育てたいのです。
だから、こちらの邸に迎えたいとお誘いしているでしょう。
来てくださらないのは恨めしいことなのですよ。
お貸しした物については案ぜずに、どのように使っても結構ですよ。
盥も半插も差し上げます。
それにしても、可笑しなことですね。
源中納言様の姫君にお仕えしている貴女が、調度品を持っていないなんて……
もう、持っていないのなら、どうして今まで私に言ってくれなかったの。
自分の物を持っていないなんて、見苦しいことですからね。
本当に驚きました。勿論のこと、貴女の為ですもの。差し上げます。
餅はお安い御用です。今すぐ作り始めさせましょう。
それにしても、餅や道具が必要だなんて、婿君を迎えられるのかしら?
三日夜の宴でもなさるのかしら?
私は心から貴女を可愛いと思っています。貴女が大切です。
どんな些細なことでも、困ったことがあったら私を思い出して……。
『時の受領は、世にとくあるもの』と、世間では言うでしょう。
必ず、頼って下さいね。
貴女に頼られるのは大層、嬉しいことなのですから……。
出来る限りのことはして差し上げますから……。」
叔母からの文は阿漕にとって大変頼もしく嬉しかったのです。
それで、落窪の君に叔母からの文を見せました。
「本当に有難いこと……。
阿漕……。」
「何でございましょう?」
「お餅が要るのですか?」
「はい。……色々と……ありまして……。」
「色々と……?」
「はい。」
「三日夜の餅」のことを何も知らない落窪の君は、キョトンとしていました。
叔母から文と共に送り届けられた調度品は、盥も半插も見事な品々でした。
叔母は大きな餌袋に白い精米を入れて、紙を仕切りにしてお菓子や干物まで包んで丁重に届けてくれました。
日がやっと暮れる頃、少し止んでいた雨がまた降り出しました。
その頃になって、やっと餅が届けられました。
阿漕は叔母へ丁寧にお礼状を認めて、使いの者に持たせて帰らせました。
⦅これで立派な三日夜の儀式ができるわ。
綺麗に飾り付けて、素敵な三日夜の餅を差し上げましょう。⦆
阿漕は大張り切りで、お菓子や栗を目に美しく盛り付けました。
⦅今宵は立派にしましょう。露顕の儀を無事に終えないと!⦆と思いました。
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公廉は身体を拭き、着替えて孝子が書いた物語を読んでいます。
「吾が君様、湯浴みをなさいますよう……、吾が君様。」
「う……うん。今、良い所じゃ。」
「吾が君様、お身体を温めて下さいまし。」
「湯浴みでなくとも良い。」
「吾が君様……?…………! 」
「ほれ、このように其方を抱いて居れば温かい。」
「吾が君様……夕餉の………。」
「良い良い。」
公廉と孝子は、その日の夕餉を少し遅れて摂りました。