二度目の二人で迎えた朝
公廉は妻の孝子を労わっています。
乳母としてお仕えしている時の気苦労も、子ども達と離れて暮らしたことの寂しさも……今から取り戻して欲しいと切に願っています。
病を得て、お仕えしている姫君の元から帰って来た直後は床に就いていた孝子。
床から離れる時間が長くなっていき、今は物語を書いている妻。
最初は不安だった公廉でしたが、物語を書いている時の妻の活き活きとした顔を見て、「これで、もしかしたら孝子は健やかになれるやも知れぬ。」と思いました。
今はその想いが間違ってはいないことを実感しています。
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阿漕は惟成と楽しい時間を過ごしていました。
「阿漕、昨夜は不機嫌だったが………今宵は機嫌が良いのだな。」
「少将様がお見えになること………
私にさえ知らせなかったのは、何方だったのでしょう?」
「それは……已む無くだったのだ。已む無く……。」
「知らせてくれてさえいれば私は姫様の為に整えられたのですよ。
お部屋も……何もかも……。」
「うむ。そうだな。」
「殿方とは違うのです。お迎えするには整えたいもの……それが女……故。」
「うむ。姫様の御為……。」
「今宵のようにお見えになられることを教えて貰えていれば良いの。
お迎えする為のご用意が出来ますもの。
何もお持ちでない姫様の御為に叔母様にお願いして良かったわ。」
「そうだな。」
「今宵、初めて少将様に御目文字が叶い、私は嬉しいの。
少将様ならば姫様を大切にして下さるわ。」
「阿漕もそのように感じたのか?」
「ええ!…………この上は一日も早く少将様が姫様をお迎えして頂ければ……
少将様の御邸にお迎えして下さることを私は祈っているわ。」
「それは叶う祈りだよ。」
「本当に?」
「叶うよ。少将様は姫様へのお心は誠のものだと私は信じている。」
二人が楽しく話をしているうちに夜が白み、朝を迎えました。
少将を迎える牛車が源中納言家の邸に着きました。
使いの者が少将に伝えました。
「お車が参りました。」
「暫し待て。雨が降り出した。止んだら帰ろう。」
「承知致しました。」
落窪の君は不安でした。
朝を迎えた殿方を持て成せないからです。
⦅本当に……私には……何も無いのだわ。持て成してくれる人が……。お母様がいらせられたら……お母様……。⦆と不安な心で、少将の腕の中で少将の温もりに包まれていました。
阿漕は忙しくなりました。
夫の惟成を部屋に置いて、一人慌ただしく動いています。
公家の姫君が公達の訪問を受けた時は、姫君の家族や女房達が持て成すのです。
姫君が公達と迎えた朝には、洗面や朝食の支度をします。
三の君の時は、母親の北の方の采配で女房達が用意を万端に整えました。
落窪の君には母が居ません。
阿漕は⦅姫様に、もう二度と恥ずかしいと思って頂きたくない。⦆と思っています。
⦅出来る限りの御持て成しを!⦆と慌ただしく動いているのです。
まだ明けきらぬうちに阿漕は台所へ行きました。
洗面のお湯も、朝食も台所でなければ用意出来ません。
「おはようございます。」
「おはようございます。まぁ……お早いこと。
御邸の皆さんがいらせられないのですから、ゆっくり朝寝なされば宜しいの
に………。」
「そうしたいと思っていましたのに、帯刀の惟成の親しいお方がお見えなのです。
昨夜、急に来られて、そのままお泊りになられたの。
それで、朝からの雨でしょう。お帰りになれないのよ。
何か朝食を……と思いまして、ね。
残り物でも頂ければと思いましたの。
それと、もし可能であれば……お酒を少し頂きたいのですけれど……。」
「おや、それは急なことで大変でしたわね。
いいですよ。
御邸の皆さんがお戻りになられた時に精進落としの宴を開かれます。
その用意がありますからね。持ってお行きなさい。
ご飯は今炊いたばかりですよ。炊き立てを持って行ってくださいな。」
「ありがとうございます。」
「お酒も少しなら、お持ち下さいな。」
「助かりました。ありがとうございます。」
お礼を言いながら、阿漕は傍にあった徳利にお酒を入れます。
それも勢いよく……。
「阿漕さん! 少しは残してくださいな。」
「分かっています。……きっと精進落としの宴の時の北の方様はご機嫌だと思いますわ。
だから、見つかりませんよ。」
阿漕は肴のひきぼしなどの食べ物を紙にたっぷりと取り分けました。
取り分けてから綺麗な塗りの御膳を探しました。
女童に「塗りの御膳に綺麗に盛り付けて頂戴。」と頼みました。
⦅これで、少将様に食して頂けるわ。後は……洗面、ね。⦆と、洗面の用意に取り掛かりました。
⦅三の君様の漆の盥、半插を拝借しましょう。姫様はお持ちでは無いから……。⦆と、三の君の部屋から見事な洗面道具を持ち出しました。
女童と部屋に戻った阿漕は綺麗に化粧をしました。
そして、一番美しい着物に着替えて、朝食の御膳を目よりも高く捧げ持ち、しずしずと落窪の君の部屋へ歩いています。
ちょうど、少将の牛車を人目に付かぬ場所へと引き込んでいた惟成が阿漕の姿を見たのです。
しっかりと化粧をし、衣装を正して、帯をゆるやかにかけた阿漕のその後姿は、身の丈よりも三尺ばかりも長い髪が波打つように流れています。
「綺麗だなぁ………私の妻は………。」という言葉が惟成の口から思わず飛び出したのです。
「阿漕。見違えるほど……だ。」
「貴方の為じゃないわ。
少将様と姫様の朝のお祝いですもの。だから、正装するのよ。」
「そうだな……。」⦅本当に綺麗だ………惚れ直した。⦆
落窪の君の部屋では、ゆっくりして帰らない少将に落窪の君は少しずつ辛さと恥ずかしさが募って来ました。
時間が経つにつれて、落窪の君は「誰も少将の為に持て成してくれないこと」を思い知らされています。
そこへ、阿漕が敢えての独り言が聞こえて来たのです。
「部屋の御格子は開けずにおきましょうか?」
「まだ明けやらぬ故、開けて欲しいと姫君も言っているようですよ。」
阿漕はその辺のものを踏み台にして格子を上げた。
「車は来ているか?」
「既に門のところでお待ちしております。」
そして、女童が洗面道具や食事の用意を次々と運び入れました。
落窪の君は⦅一体、いつの間に?⦆と、驚きました。
少将は⦅誰も世話をする者が居ないはずなのに……。⦆と、驚きました。
阿漕の給仕で少将と落窪の君は仲睦まじく食事を摂りました。
やがて雨が小降りになり、邸の中も静かになりました。
少将は今なら人目につかないと外に出たのです。
少将が牛車に乗る時、振り返りお筑後の君の方を見れば、落窪の君は柱に隠れて見送っています。
本当に美しく、少将は愛情が限りなく溢れてくるのを感じました。
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孝子は好きにさせてくれている夫・公廉に心から感謝しています。
身体も幾分良くなったように思えます。
そして、思うのです。
⦅この物語を書き終えるまでは生き続けたいものです。
そして……書き終えたら……一番最初に読んで頂きたいわ。
吾が君様に………。⦆
そう思っているのです。
「ひきぼし」は……引きのばして日に干した物。特に、海草の類です。
「半插」…… 湯水を注ぐのに用いる器。柄のある片口の水瓶で、柄の中を湯水が通るようにしてあります。その柄の半分が器の中に挿し込まれているところからこの名称が付けられました。