惟成と阿漕
孝子は娘が婿からの後朝の文も、三日夜の餅の日も……まだ乳母としてお仕えしていました。
娘の大切な時に居ない母でした。
その想いも込めて書き続けました。
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右近の少将が落窪の君の部屋に入った頃、自室で眠っていた阿漕の耳に格子が上がる不審な音が聞こえました。
⦅何事かしら。⦆と、阿漕は起きようとしましたが、惟成が阿漕を離しませんでした。
「離して! 御格子が鳴った音がしたのよ。妙だわ。」
「犬か猫だろ、そんな大丈夫だよ。」
惟成のあまりにものんびりとした様子を、阿漕は不審に思い気が付いたのです。
「犬か猫? そんな格子が上がる音なのよ。
……まさか……何か知っているの?」
「私は何も知らないよ。さ、寝よう。」
惟成はそう言うと、阿漕が動けないように抱きしめて一緒に伏してしまった。
「ああ、姫様……姫様のお身に何が……離して!!」
阿漕は哀れな姫君を思って腹を立てましたが、惟成に動けないほど抱きすくめられてしまい、身動き一つ出来ませんでした。
阿漕の眠る部屋は落窪姫の部屋から近かいのです。
近いので、落窪姫の泣き声が微かに聞こえてきました。
⦅ああっ、やっぱり誰か忍んで来たんだわ……。⦆と、阿漕は姫のことを思って、何とか助けに行こうとしました。
ですが、惟成に抱きしめられて起き上がれないのです。
「姫様が泣いていらっしゃるわ! 姫様になんてことをしてくれたの!
この上、私が助けに行く邪魔までする気なの!?
酷い人っ、大っ嫌いっ!!」
阿漕は怒りに任せて、厳しい言葉を惟成に吐きました。
惟成は困って笑みを作るしかありません。
「私ばかりを責めたくなるのは分かるが……私にも訳があったんだ。」
「知らない!」
「こんな夜に忍び込んで来たんだ。どこかの公達だよ。
なぁ、今さら行ってどうしようって言うんだ?」
「やっぱり知っているんのね。
誰が来たの? 言いなさい!」
「いや……それは……そのだな。朝になったら分かるよ。」
「朝になったら、って……。
本当に、何て酷いことをしてくれたのよっ!
姫様、あぁ……どんな怖い思いをなさっていらっしゃるのかしら。」
「阿漕……。」
幼子のように声を上げて泣いている妻を見て、⦅ごめん。阿漕……でも、泣き顔も可愛いよ。⦆と思った惟成です。
慰めるように抱きしめながら惟成は⦅話そう! このままだと阿漕が可哀想だ。⦆と心苦しくなった惟成は打ち明けました。
「あのな、客が来てるって言っただろう。
その客は若様……右近の少将様なんだ。
御文をお読み頂けたかも分からないだろう。
だから、若様はどうしてもお姿を……と仰せになられたんだ。
私は御断り出来なかったんだ。ごめんな。阿漕。」
「少将様……。」
「うん、今を時めく右近の少将様だから、こんなことになったけれど……
姫様にとっては良いことだと思うんだけどな。」
「そんなこと、どうでもいいわ!
私が悲しくて辛いのは、今夜のこのことを姫様がどう思われたかよ。
私が手引きしたと思われたかもしれないわ。
それが、悲しくて辛いのよ!
……何故、私は姫様の部屋に居なかったのかしら?
どうして出てきたのよっ!
姫様のお傍に居なければならなかったのに……。」
「阿漕……姫様は分かって下さるよ。
阿漕も知らなかったって……分かって下さるよ。」
「いい加減なこと言わないでよっ!」
泣き続ける阿漕を惟成は抱きしめて慰め続けました。
落窪の君を胸に抱きながら少将は悲しくなってしまいました。
落窪の君が心を許してくれないからです。
「私をお嫌いですか?」
「………………。」
「お声も聞かせては貰えぬのですか?」
「…………。」
「姫君は私からの文を受け取られましたが、一度もお返事を下さらなかった。
読んでくださったのかさえ私には分からなかったのです。
お返事を頂けなかった……もう御縁がないものと諦めようとしました。
でも、出来ませんでした。
姫君に文を送るようになってから、私は姫君のことばかり……。
文を出さずにはいられなくなって、幾度も文を……。
届いていたのでしょうか?」
「……はい。」
少将は落窪の君の「はい。」という返事だけで天にも昇る気持ちになったのです。
「では……御手に取って頂けたのでしょうか?」
「……いいえ。」
少将は落胆しました。
「そうですか……これほど嫌われているとは……。
私は……あまりにも悲しくて、辛いことすら辛いと感じなくなりました。」
「…………。」
「一目お姿を……と思い、このようなことを致しました。
ですが、悔やんではおりません。」
「……………。」
溜息を吐きながら、何気なく少将が落窪の君の姿を見ました。
改めて身近で見ると、単衣の肌着は着けず、直接肌の上に袴を穿いているだけでした。その上に、身に着けている着物は、所々肌が露わになっています。
余りにも酷い惨めな格好です。
涙だけではなく、冷や汗まで流れている様子を見て、少将は⦅どうして、この姫がこのような姿でいなければならないのか……。⦆と哀れに思いました。
ただ憐れんでいるのではありません。
少将は落窪の君に興味を持ち文を送った時とは違っていました。
恋に……今までの駆け引きが楽しい恋のようなものではない本物の恋に落ちていたからです。
そして、慰めようと言葉を選びながら話し掛けましたが、落窪の君は恥ずかしさの余り阿漕を憎みました。
⦅阿漕は知っていたの? どうしてこのお方を邸の中に入れたの?⦆
どのくらい部屋で少将と二人きりだったのでしょうか。
夜が白み鶏が鳴きました。
「もう鶏が鳴きましたね。夜が明けて朝になってしまった……。
何か一言おっしゃって下さい。何か一言を私に下さい。」
「……………鶏よりも泣いているのは私でございます。」
少将は落窪の君の身体が冷えているのではないかと、着ていた着物の一枚・単衣を脱いで優しく落窪の君に着せ掛けました。
落窪の君は後朝の衣であることが分かりました。
恋人同士がお互いに着物の一枚を脱いで交換する後朝の衣。
少将から着物を頂いても、落窪の君には返す衣がありません。一枚もありません。
大変、悲しく恥ずかしい気持ちで居た堪れない想いの落窪の君でした。
その頃、阿漕の部屋では……惟成は阿漕を慰めていました。
そこへ、門の外から迎えの牛車が到着したことを従者が知らせて来ました。
「阿漕、若様の牛車が来たんだ。
姫君様の部屋に行って………
若様に『お車がお迎えに来ました。』と申し上げてくれ。」
「嫌よっ! どうして私がお伝えしないといけないの!」
「阿漕ぃ~。頼むよ。」
「嫌っ! 今になって……朝になってから……あがったら……。
きっと姫様は私も少将様と一緒になって謀ったと……そう、
お思いになられるわ。
どうしてくれるのよっ! どんな顔をして姫様の前にあがれるのよ。」
「もし阿漕が姫様に嫌われたら、その時は私が阿漕を可愛がるから、な。」
惟成は妻の泣き顔も脹れて怒っている顔も愛らしいと思った。
阿漕は部屋を出そうになかったので、惟成が落窪の君の部屋へ出向きました。
行き成り声を掛けるのは無粋だと思った惟成は咳払いをしました。
惟成の咳払いで人の気配を感じた少将は名残惜しい気持ちでしたが、源中納言家へ迎えに来た牛車に乗って帰りました。
惟成も少将に従って帰ったのです。
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「そうか……では、其方は阿漕の心持なのだな。」
「ええ……そう?…………そう……でございますわね。」
「ならば、私は帯刀の惟成か……。」
「えっ?」
「違うのか?」
「え……ええ、そうでございますわ。」
「そうか……阿漕と仲良い夫の惟成なのだな。」
嬉しそうな公廉の笑みを見ていると孝子も笑みが零れました。