右近の少将
孝子は公廉と二人で朝を迎えました。
こんなに二人だけの時間を持ったのは若い頃以来です。
少し恥ずかし気に朝の挨拶を交わした公廉と孝子でした。
「何故、泣いていた?」
「吾が君様からの文を読んでおりますと、若い頃に離れてしまったことを
私は悔やんで……涙が……。」
「そうか……私も其方と離れたくなかったのだよ。」
「吾が君様……。」
「だから、こんな年になってしまったが、今から取り戻したいと願っている。」
「取り戻す……。」
「そうじゃ、孝子と二人が過ごしたであろう時間を今から取り戻すのじゃ。」
「私も取り戻しとうございまする。」
「二人で取り戻そうぞ。」
「はい。吾が君様。」
「それはそうと、其方、文をまだ持っていてくれたのだな。」
「それは、吾が君様から頂いた文でございますもの。」
「そうか……実はな、私も持っておるのだぞ。」
「まぁ…………吾が君様も………。」
「似た者同士じゃな。」
「はい。」
孝子は若い頃を思い出しながら物語を進めました。
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惟成は落窪の格子と簀子の間の下長押に右近の少将を座らせ、自分は留守を守る宿直人が見回りに来るといけないので簀子の縁に見張りに立ちました。
少将は格子の間から部屋の中を見ました。
部屋の中は消えそうな灯が瞬いています。
灯は心もとないものですが、落窪の中には几帳のような視界をさえぎる調度品がなかったので、暗くても中が良く見えました。
中に女性が二人。
一人は手前に後姿を見せている体つきや髪がとても美しく、白い単の上につややかな光沢のある掻練の衵を着ている若い女性です。
⦅これが惟成の妻、阿漕だろうなぁ……。⦆
もう一人はその阿漕に寄りかかって、添い伏しをしている人が居ます。
腰から下に古い掻練の綿入れをかけていて、白い単はよれよれで古く、とても姫君の格好とは思えません。
しかし長く黒々とした美しい髪が顔にかかる様子などは、とても奥ゆかしく思えました。
もう少し顔を見たいと思って見ていると、急に灯りが消えました。
残念に思いながら少将は⦅ようやく美しい姫君の姿を見られた。⦆と思い、⦅来た甲斐があった。⦆と思いました。
「阿漕、其方の夫が来ているのでしたね。
さぞ待ちかねていることでしょう。行って頂戴ね。」
⦅声までが美しいのだな……。⦆
「いいえ、姫様。今夜は御邸も人が少ないのです。
お一人では寂しくて怖いと思召されるでしょうから、姫様のお傍に居ります。」
「寂しく怖いのは、もう慣れているわ。私のことなら気にしないで行って頂戴。」
「大丈夫でございますわ。私は姫様のお傍に居ります。」
「阿漕……本当に良いのですか?」
「はい。」
部屋の灯りが消えて右近の少将には落窪の君の声ばかりが届きます。
少将の心に響くのは、美しい落窪の君の声でした。
そして、⦅寂しく怖いのは、もう慣れている……などと……可哀想で胸が締め付けられる。⦆と思いました。
少将が下長押から立ち上がりました。
少将が姫を垣間見て満足したと思った惟成は、少将の帰り支度をし始めました。
「どうでございました? 若様。
もう十分でございましょう。御邸までお送り致しましょうか?
この雨ですから、笠も御要りようでございますね。」
「惟成、其方は……。」
さっさと帰らせようとする惟成を見て、少将は笑いました。
「其方は妻の肩を持つものだから、直ぐにでも私を帰したいのだろう。
だがな、そうはいかない。」
そう言いつつも、心の中では⦅随分と着古した着物を着ていたな。今会ったら、姫君が恥ずかしい思いをするかもしれない。⦆と思っています。
そう思いながらも、姫君に会いたい気持ちと姫君を気遣う気持ちで、胸が潰れる思いの少将です。
「惟成、私は姫君の部屋に忍びこむ。
この機を逃したら、もう二度とこのような時は訪れまい。
其方は妻を姫君から引き離せ。」
「分かりました。」
惟成は急ぎ阿漕の部屋に戻り、阿漕の女童に「阿漕を呼んで参れ。」と遣わしました。
しかし、女童は一人で部屋に帰って来ました。
「『今夜は姫様のお傍に居ます。貴方は東宮の侍所にでも行って下さい。』
とのことです。」
⦅参ったなぁ、それじゃあ若様が忍び込めない!⦆
困った惟成は、何とか落窪の君と阿漕を引き離そうと必死でした。
「阿漕に『今客が来たんだ。その客から聞いた話をしたいんだ』って伝えてくれ。」と、もう一度女童を使いに遣りました。
すると、落窪の君が……。
「阿漕、夫を待たせてはいけないわ。」
「姫様……。」
「折角、結んだ縁が解けてしまいますよ。
早くお行きなさい。」
「姫様……では、行きますが、直ぐに参りますので……。」
「戻って来なくて良いのですよ。もう休みますから……。」
「姫様……。」
「ゆっくり二人でお過ごしなさい。」
「………はい。姫様……お休みなさいませ。」
「お休みなさい。」
阿漕が部屋を出て行きました。
少将は、その時初めて阿漕の顔を見ました。
⦅なかなかの美人だな。惟成が腑抜けになるのが分かろうと言うものだ。⦆
阿漕の部屋で待っている惟成の前に、ようやく戸を開けて阿漕が姿を現しました。
「もう、うるさいわねぇ。何だっていうの?」と、遣戸を開けた阿漕を、惟成はすかさず捕まえました。
「雨が降る夜に夫を一人寝させるのかい?」そう言って阿漕を抱きしめると、阿漕は笑った。
「ほぅら、用事なんてないじゃないの……。」そうくすくす笑う阿漕の手を、少し無理に引いて部屋まで連れて行くと、惟成はそのまま阿漕と共寝してしまいました。
そして、何も言わず、勿論「今夜、少将が姫君の部屋に忍びに来たよ。」などとは口が裂けても言わず、惟成は眠った振りをしました。
部屋に一人残った落窪の君は琴を弾き始めました。
その琴の音に少将は聞き惚れました。
ですが、琴の音が止まったのです。
「なべて世の 憂くなる時は 身隠さむ 巌の中の すみか求めて」
⦅この世の全てが辛くなってしまった時には、世間との交わりを絶って、岩穴の中に身を隠してしまおう。⦆
落窪の君は呟きました。
それを聞いた少将は、落窪の君が可哀想で堪らなくなりました。
それで、考えるより早く身体が動いてしまったのです。
格子をこじ開けて、そっと部屋に入りました。
姫君は人の気配に驚きました。
「怪しい者ではございません。
私は先日より度々、文を差し上げている者で、名を、藤原道頼と申します。
先日より私が度々差し上げた文のお返事を頂いておりません。
文のお返事を頂きたく、思い切って伺いました。」
少将は優しく静かに話しながら、ゆっくりと落窪の君の傍に寄りました。
そして、落窪の君の袖を捉えて腕の中に……。
公達を遠目ですら見たこともない落窪の君は、驚きと羞恥心でより一層、声も出ません。息をすることさえ忘れてしまったかのようです。
「可哀想なお方……。
世の中を儚んでいらっしゃる。
世の中の男女の情というものをご存じないなら、私が教えて差し上げましょう。
いずれお望みの岩穴のように、世の嘆きのない場所にお連れしましょう。
そう思って姫君の前に参りました。」
そう少将は声を掛けましたが、姫は相手が誰かということよりも、自分の粗末な衣服への恥ずかしさが上回っていたのです。
「今すぐに死んでしまいたい。」そう言ってあまりにも泣く落窪の君を少将は言葉なく抱きしめ続けました。
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孝子は慌ただしく婿の訪問の準備をしています。
新婚の娘夫婦。
娘は親の目から見ると「美しく愛らしい女性」に育ってくれました。
このまま皆が幸せな時間を過ごしてくれれば……と願っている孝子です。
掻練は、絹を練って柔らかくし、光沢を出した衣のことです。紅色のものについていうことが多いです。
衵は、女子の中着です。表着と単との間に着用しました。