第1話:王子直下親衛隊長、マリク・イブン・ハルーン
その名前は遠くの雷鳴のように俺の頭に響いた。アミール王子。現実とは思えなかった。
この状況の何もかもが現実離れしている。自分を王子直下親衛隊長マリク・イブン・ハルーンと名乗った男を見つめ、何が起こっているのかを理解しようとした。
頭はまだくらくらし出して、記憶と疑問が混沌としていた。最後に覚えているのは、トラック、タイヤの軋む音、そして眩しい衝撃だった。そして今……この状況。
マリクと自分で名乗った黒人の男は前に立ち、その存在感は威厳に満ちながらも落ち着きを感じさせた。
彼は背が高く、広い肩を持ち、長年の軍事訓練を物語るような姿勢をしていた。
彼の濃い肌は磨かれた銀の鎧と鮮やかな対照をなしており、鋭く観察力に富み、一抹の心配を宿した目は俺を注意深く見つめていた。彼は無数の戦いを経験し、そのたびに強くなってきた男のように見えた。
しかし、その表情にはどこか……父親のような温かさがあった。彼は本当に、俺が彼の思う人物であることを心から気にかけているようだった。
「アミール王子殿下」
と彼は再び言った。
その声は落ち着いていたが、力強かった。
「殿下は3日間意識を失っていました。王国は不安に包まれています。殿下の父であるアル=ラシード・アブドゥラ・アル=ミラージュスルタンも心配でたまらないようです」
「父……ですって?」俺は声を絞り出すように言った。
その声は自分でも聞き慣れない、深みがあり、どこかアクセントのある声だった。
「わ……分からないな。何が起こっているというのか?ここはどこなんだ?」
マリクは眉をひそめ、一歩近づき、腰に下げた剣の柄に手を置いた。
「アミール様はアル=ミラージュ王国の王宮にいます」
と彼はゆっくりと言った。まるで子供に説明するかのように。
「訓練中の事故で負傷してしまい、気絶したのです。覚えていないのですか?」
首を振り、頭をフル回転させた。
アル=ミラージュ?王宮?訓練中の事故?何もかもが意味をなさなかった。
俺は小林隆、東京のサラリーマンだ。王子なんかじゃない。王族ですらなかった。
それなのに、ここにいる。自分の体ではない体で、まるでファンタジー小説から抜け出したような世界に。
「マリク...隊長」と俺は声を震わせながら言った。
「どうやら……何か誤解があるようだ。俺はあんたが思っている人物ではない」
「ふむ」
マリクの表情は和らぎ、彼はベッドの横に膝をつき、俺と目線を合わせた。
「アミール様」と彼は優しく言った。
「殿下は多くのことを経験しました。殿下が負傷した後では、混乱するのも無理はありません。しかし、アミール王子殿下はアル=ミラージュ王国の第一王子であり、スルタン・アル=ラシード・アブドゥラ・アル=ミラージュの息子です。そして私は、殿下が子供の頃からずっと、殿下を守ってきました」
彼の言葉は俺の背筋に震えを走らせた。彼の声には疑いもためらいもなかった。
彼は本当に俺がこのアミール王子だと信じて言っている。
「.......」
そして、この世界で生き延びるためには——それがどんな世界であれ——俺はこの役を演じる必要があった。
少なくとも、何が起こっているのかを理解するまでは。
「そ……そうですか」
とゆっくりと言い、無理に背筋を伸ばした。
「ありがとう、マリク隊長。あんたの心遣いに感謝する」
マリクはうなずき、唇の端に小さな笑みを浮かべた。
「それでこそ王子様らしい」
と彼は言い、立ち上がって俺に手を差し出した。
「さあ、立ちましょう。スルタンがあなたをお目にかかりたがっています」
アル=ミラージュの王宮での光景:
「わぁー。す、すげえ...」
王宮は俺が今までに見たことのないものだった。
白い石と精巧な彫刻が施された広大な建物で、空に向かってそびえる黄金色のミナレットがいくつも立っていた。
空気はエキゾチックなスパイスの香りと遠くで奏でられる音楽で満ちており、どこを見渡しても使用人や衛兵が自分の仕事に追われていた。とにかく、圧倒される光景だった。
マリク隊長は俺を廊下を通って案内し、俺の肩に軽く手を置いて支えているようだった。
彼の視線が俺に注がれているのを感じた。俺が完全に元に戻っているとは思っていないようだったが、それについてはまだ追及していなかった。少なくとも今のところは。
「スルタンは玉座の間にいます」
とマリクは巨大な金属製と木製の組み合わせの両開き扉の前に来た時に言った。
「夜明けからずっと謁見の場と会議を開いています。王子らしく振る舞ってください」
俺はうなずいたが、「王子らしく」振る舞うとはどういうことかわからなかった。
背筋を伸ばし、着せられた豪華なローブを整え、時代劇で見たような自信に満ちた歩き方を真似ようとした。マリクが扉を押し開け、俺たちは中に入った。
玉座の間は王宮の他の部分よりもさらに印象的だった。壁には戦いや祝祭の場面を描いた精巧なモザイクが飾られ、床は色鮮やかな絨毯で覆われていた。
部屋の奥には、金と象牙でできた玉座にデンと座っている冠を頭に被せた褐色肌の男——間違いなくスルタンだ——がいた。
彼は年配で、威厳に満ちた佇まいと、知恵と権威を感じさせる顔をしていた。
その鋭く貫くような目は、俺が部屋に入るなりすぐに俺の方を見つめた。
一瞬、俺は子供に戻ったような気がした。宿題をやってこなかったことを先生に見透かされているような感覚。
「アミール」
とスルタンは深く響く声で言った。
「目を覚ましたのか」
唾を飲み込み、前に進み出て深くお辞儀をした。
「...父上」と言った。
その言葉は舌に違和感がありながらも、どこか重みのある言葉でもあると感じた。
「ご心配をおかけして……申し訳ありません...」
「傷はもう治っておるのか?」
スルタンはしばらく俺をじっと見つめてから問った。その表情は真剣そのものだ。
「......はい」
慎重に言葉を選んで答えた。
そして彼はうなずき、唇に小さな笑みを浮かべた。
「お前はいつも回復力が強いな、我が息子」
と彼は言った。
「だが、これからはもっと気をつけるんだ。王国は今、お前を必要としている」
「はい、...父上」
と答えた。しかし、彼が何を意味しているのかはわからなかった。
スルタンはマリクに視線を移した。
「マリク隊長、これからは彼にもっと目を光らせてくれ。くれぐれも怪我させないように」
「もちろん、陛下」
とマリクは頭を下げて答えた。
「もう王子様には無理をなさらぬよう見張っておきますので、ご安心してお任せください」
........................
スルタンとの謁見の後、マリクは俺を人目につかない中庭に連れて行った。
中庭は平和なオアシスのようで、中央には小さな噴水があり、周りは緑に囲まれていた。
玉座の間の喧騒とは対照的で、少しだけリラックスできた。
「アミール王子様」
とマリクは真剣な口調で言った。
「殿下に何が起こっているのか、私は知る必要があります。いつもの自分ではないように見えますから」
その言葉を聞いてどうやったら反応するものか、少しためらった。
彼にどこまで話すべきかわからなかった。
マリクは信頼できそうだったが、彼に全てを打ち明けられるかどうかはわからなかった。
それでも、俺には味方が必要だった。
何よりも、この奇妙な世界で、彼は自分にとって最も近い存在のようだった。
「マリク隊長」
とゆっくりと言った。
「どう説明すればいいのかわからないのだが……俺はあんたが思っている人物ではない。俺の名前は小林隆だ。東京という場所から来た、...日本という国の人間だ。こ、この世界とは全く違う世界だ。どうしてここにいるのか、なぜこの体にいるのかはわからないが、俺は元々アミール王子ではない」
マリクの表情は変わらなかったが、彼の頭の中で何かが動いているのがわかった。
長い間黙っていたが、やがてため息をつき、短い巻き毛の髪をかきむしった。
「殿下に何が起こったのかは理解致しかねます」
と彼はついに言った。
「しかし、一つだけ分かっていることがあります。殿下はアル=ミラージュの王子様です。それを覚えているかどうかは関係ありません。何故なら、ここはもう殿下のお家であり、彼らと町、王都の住民や全ての臣民は殿下の民です。...そして私は、何があっても殿下を必ず守ると全力を尽くす所存です」
彼の言葉は俺の腹に強烈な一撃を与えた。
彼の声には疑いもためらいもなかった。彼は俺のこの地位とアイデンティティーを信じていた——たとえ自分自身が自分ではなくなり、俺自身さえ自分の事を信じていなくとも。....そしてこの世界に目を覚まして以来、初めて希望の光を感じた。
「ありがとう、マリク隊長」
と静かに言った。
「これから何が起こるかはわからないけど……あなたがいてくれて感謝だ。......きっと、疲れているだけだと思うので、さっきの訳の分からないことは忘れてくれ」
マリクはうなずき、唇の端に小さな笑みを浮かべた。
「はい、分かりましたよ、王子様。いつまでも、殿下のことは必ずお守りしますので、ごゆっくりお休みください」
..................
その夜、ベッドに横たわっていると、俺は初めて月の女神の啓示を受けた。
それは夢のように始まったが、この世界に目を覚まして以来経験したどの現実よりもリアルに感じられた。
俺は広大な月明かりに照らされた砂漠に立っていた。
砂は満月の光を受けて銀のように輝き、空気は冷たく静かで、風のささやきだけが聞こえていた。そして彼女が現れた。
「汝のその身に祝福の光を授けよう」
それを最初に言った彼女は背が高く、幽玄で、その真っ白い肌は淡い銀色の光を放っていた。
彼女の髪は月光のように流れ、その目——深くて無限——は俺の魂の奥まで見透かしているようだった。
彼女は美しかったが、それはほとんど恐ろしいほどの美しさだった。
「小林隆」と彼女は言った。
その声は俺の心に響いた。
「わたしは月の女神ルナラ。そして、あなたはこの世界の救世主として選ばれたのです」
「選ばれた?」
と震える声で尋ねた。
「何のために?」
「この国を救うためですよ」
と彼女は簡潔に言った。
「七国連合軍はアル=ミラージュ王国とその民を滅ぼそうとしています。しかし、あなたにはそれを止める力を授けます。あなたは王国を団結させ、同盟を結び、この地に平和をもたらさなければなりません」
「でも……俺は王子などではありません!」
と俺は抗議した。女神だというので、一応俺も敬語で話すことにした。
「ただのサラリーマンです。そんなこと、どうやってやればいいのかわかりません」
月の女神は微笑んだ。
「ふふふ....」
それは優しく、ほとんど母のような微笑みだった。
「あなたは自分が思っている以上に大きな存在となりますよ、小林隆。あなたにはリーダーの心、戦略家の頭脳、そして英雄の魂を持っています。だから自分を信じてください。そうすれば、あなたはきっと成功するでしょう」
そして彼女は現れた時と同じように、突然消え去った。
ハッと目を覚まし、心臓が激しく鼓動していた。その啓示はとてもリアルで、鮮明だった。
しかし、それはまだ始まりに過ぎないという感覚を拭い去ることができなかった。
................
暗闇の中に横たわりながら、俺は一つだけ確信していた。
小林隆としての人生は終わった。
俺がそれを望もうと望むまいと、今の俺はアミール王子なのだ。
そしてこの世界で生き延びるためには、新しい役割——そしてそれに伴う運命——を受け入れなければならない。
しかしその前に、俺は王子としてどう振る舞うかを学ぶ必要があった。そしてそのためには、あらゆる助けが必要だった。
「前途多難だな、まったく......」
仕方なく、その後は深い溜息をつくのだった
............