第1話 回顧重複/未だ姉妹は分かたれず
解恵はふと、姉が消えた廊下に視線を奪われた。
あまりに静かだ。日の当たらない廊下は薄暗く、まるで霊廟のようですらある。
賑やかなリビングとは正反対。その奥で、鍵玻璃はひとりで過ごしている。解恵はそれを寂しく思った。
―――これでもダメか……。
―――みんなでラグナロクを見れば、もしかしてって思ったのにな。
解恵は失敗に終わった計画を、ひとりで反省し始める。
エデンズフォーム・ディザスターズ世界大会“ラグナロク”。億単位のプレイ人数をカウントする今、この大会は世界的な熱狂の種である。
その熱を友人たちと共有し、盛り上がることができればきっと。そう思っていたのだが、見通しはあまりに甘すぎた。
何度呼びかけても部屋を出ず、無理矢理連れ出したって戻ってしまう。悲嘆と苦痛を抱えた顔で、ひとりになろうとしてしまう。
―――ブリンガーをやめたなんて、そんなわけないのに。
―――どうして、そんなこと言うの? なんで戻って来てくれないの?
―――何が原因で、そんなふうになっちゃったの? お姉ちゃん……。
ずぶずぶと思考の沼に沈むにつれて、ずっと昔の光景が蘇ってくる。楽しくエデンズをプレイしていた、幼い頃の姉の姿が。
遠くなってしまった時間に思いを馳せかけたその時、背中に衝撃が走る。
「か~なえんっ! おーい!」
「ひゃっ!? 何!?」
飛び上がった解恵が振り返ると、頬をぷにぷにとつつかれる。
呼びかけてきたのは、派手なツインテールの少女である。鉢張羽新羅、通称ハニー。
鍵玻璃のルームメイトは朗らかながらも、どこか苦い笑みでからかってきた。
「ま~たきはりんのこと考えてたでしょ~。心ここにあらずだったよ~」
「ご、ごめん! なんの話してたっけ!?」
「新パックのカード、何が出たって話。結果報告してないの、かなえんだけだよ?」
「あ……っ。ま、まだ引いてないや。えへへ」
「だろーと思った」
誤魔化し笑いを浮かべる解恵に、ハニーが肩をすくめる。同席している他三人も、似たような反応だ。少しだけ、悪いことをした気分になってしまう。
カードパック購入画面を急いで開き、ゲーム内通貨をつぎ込んでいく。その間にも、心は姉の方へ引っ張られていた。
正直、姉が部屋に戻って以降のことを覚えていない。興奮も高揚も引いた心の内は、姉のことでいっぱいだった。
友人たちは、呆れながらも怒りはしない。入学してから二週間ほど。解恵のシスコンぶりは、もはや余人の知るところである。
分厚いデバイスで目元を覆った先輩が、両の人差し指を向けて来た。隠れた両目に代わって、デバイスの液晶が逆さのVをふたつ並べる。簡易的な笑顔の顔文字。
「解恵~、せめてリアクションはちゃんと取れよな! 鍵玻璃のこと以外にもよ!」
「わ、わかってるよぉ! ……あ、UR出た」
「だから反応薄いってんだよ! 何が出た? オレにも見せろ!」
先輩が、ハニーと一緒に解恵を挟み潰すかのように身を寄せ、ぐりぐりと頬に頭を押し付ける。
左右からプレスされ、解恵がむぎゅうと呻いた。その様子を見ながら、メンバーの中で一番の年長者である女性が頬に手を当てる。
「鍵玻璃ちゃんのこと、心配よね。解恵ちゃんだけじゃなくて、ハニーちゃんも、ありすちゃんも」
「あはは……そりゃあだって、ねえ?」
「ルームメイトがあんな調子だったら、誰だって気になる。一緒に住んでるんだし」
派手なツインテールの少女と小柄な少女が首肯する。
小柄な白髪赤目の少女、猫啼ありすはココアを飲み干す。ボーイッシュに整えた髪の下には、喜びのそぎ落とされた無表情。
「でも、ぼくは解恵も悪いと思う。お兄……お姉ちゃんち離れたくないって気持ちは、すごくわかるけど。……先輩、お代わり」
「また? もう八杯目じゃない、お腹壊しちゃうわよ」
差し出したカップを押し返されたありすは、手持ち無沙汰気味に膝の絆創膏を引っかき始める。
その様に不安を伝えられ、解恵も落ち着かなくなってきた。
ゴーグル型デバイスのレンズ越しに、姉に渡せなかった水と錠剤が映り込む。硝子コップの表面を、雫が流れた。涙のように。
テーブルの上には、裏側のカードがズラリと並ぶ。それは、たった今手に入れた、初心者向けの汎用カードだ。
解恵は半端に手を持ち上げ、呟く。
「でも、だって……約束したんだもん。お姉ちゃんが、そう言って……」
「その話、もう百回は聞いたっつーの」
真横の先輩が解恵の手首をつかんで動かす。
ARヴィジョンは設定により、他の人にも見えている。引き当てたカードはパッとしない。元々解恵の眼鏡に適うカードは、封入されていないのだ。
先輩の反対側で、ハニーがもたれかかってくる。
「昔はかなえんよりキラキラしてたんだっけ? ちょっと信じられないけど……だからこそ、元に戻ってほしいんだよね。わたしも。今のきはりん、苦しそうだもん」
「だからって、あれはどうかと思うけどね」
「う……っ」
ありすにジトッとした半眼を作られ、解恵は呻く。
あれとは即ち、鍵玻璃がここで暮らすに至る経緯のことだ。解恵にとっては、一世一代の大作戦。
それは見事、成功裏に終わったのだが。既にその話を聞いていた、大人びた女性が苦笑いを浮かべた。
「お姉ちゃん大好きなのはわかるけど、流石にあれはね。多分、そのこともずっと引きずってるのよ」
「ん~、どれの話? オレを置いてけぼりにすんなよ」
「入学式の話。先輩、聞いてないの?」
「オレはそんとき、遠征出てたから知らねー」
先輩が肘で解恵を小突く。
首と肩を縮こまらせる後輩に、先輩はにやにやした笑みを近づけ来た。。
「な~にがあったんだよ。ほれ、言ってみ? 先輩命令」
「え、えぇ~……。でもみんなダメだって言ってるし……」
「んだよ、今更減るもんでもねぇしいいだろ。お前が良いと思えばそれでいんだよ。ほら、早く話してみろって」
大人びた先輩が咎めるように咳払いをする。が、一顧だにされない。
ありすもハニーも助け船を出すつもりはないようだ。むしろ無言で、話をしろと促してくる。前に聞いた時には、目に見えてドン引きしてたくせに。
解恵は視線を大人びた先輩へと向ける。が、彼女はこうなったらもうお手上げと言わんばかりの溜め息を吐くだけだった。
どうやら退路はないらしい。解恵は肩を落として、仕方なく自分を奮い立たせた。
―――しっかりしろ、あたし!
―――お姉ちゃんのためにやったことだし、恥ずかしいことなんて何もない!
意を決して胸いっぱいに息を吸う。
それと同時に、入学式とその直前の記憶が蘇って来た。
⁂ ⁂ ⁂
“研究も。就職も。夢を追うのも。やりたいことが、最先端”
自宅のリビング。ソファに寝っ転がった解恵は、ゴーグル型のウェアラブルデバイスで動画を見ていた。
様々な服装をしたキャラクターが何十人も並ぶ、壮大な広告。それがなんの宣伝なのか、今やタイトルを見るまでもなくわかる。
胸を高鳴らせ、瞳を煌めかせる解恵の耳に、最後の宣伝文句が届いた。
“未来をアップデートする君へ。界雷マテリア総合学院”
「ふふふ、えへへへへへ!」
思い切り顔をふやけさせながら、左右に寝返りを打った。
狭いシートの上から落下し背中をぶつける。けれど鈍い痛みでは、綻ぶ頬を止められない。受験シーズンを乗り切って、第一志望に合格した喜びは、その程度では薄れないのだ。
近くでそれを見ていた父が、暖かい目を向けてくる。
「人生楽しそうだな、カナ」
「えへへ、うん!」
返事して、解恵は床から跳ね起きる。
視界に移るブラウザを指で操り、開きっぱなしのページを呼び出す。
界雷マテリア総合学院の入学試験ウェブサイト、合格者発表のページ。指で覚えた受験番号を入力すると、大きく合格の二文字が現れた。
クラッカーとファンファーレ。桜のエフェクトが解恵を何度でも高揚させる。
かなり難易度の高い試験だったし、自己採点でもギリギリだった。かなり心配していただけに、喜びもひとしおであった。
「にしても、本当によく頑張った。新しい学校とはいえ、倍率かなり高いのに」
「お姉ちゃんに勉強教えてもらったからね! エデンズは……だめだったけど」
そう言って、解恵は複雑そうに頬を掻く。
界雷マテリア総合学院。プロのエデンズブリンガー養成学校と銘打ちながら、名門大学並みの難易度と学部・学科の幅を持つ、新進気鋭の名門校。
卒業すれば、プロブリンガーは当然として、あらゆる分野で成功できるという。そんな学校に入る権利を、解恵は努力の末に勝ち取った。
報告を聞いた両親、教師、友人たち。その全員が、盛大な祝福を送ってくれた。我がことのように喜ぶ彼らの表情を、恐らく一生忘れはしない。
けれど、姉は。姉だけは……。
解恵は急にしゅんと肩を落とすと、ソファに背中を投げ出した。天井を仰ぐようにして、背もたれ越しにキッチンを見る。
さかさまになった視界には、皿を洗う母の後ろ姿。
「お母さん、お姉ちゃんは?」
「もう上がって部屋に行ったわよ。解恵もお風呂入りなさい」
「えっ!? もう、なんで教えてくれなかったの!?」
解恵は跳ねるようにしてソファを下りると、リビングを飛び出し二階に続く階段を駆け上がる。
話があるって言ったのに。文句を心の中に押し込め、向かう先は鍵玻璃の部屋だ。
ノックもせずに飛び込むと、ラベンダーの香りがふわっと解恵を包み込む。
姉の匂いだ。そしてその当人は、彼女は解恵とおそろいのゴーグル型デバイスを着け、ぼんやりと椅子に腰かけていた。
黒い寝間着を見に纏い、タオルの下には水気を帯びたダークブルーのロングヘア。よほどの音量で音楽を聴いているのか、解恵にまったく気づいていない。
鍵玻璃はうつむいたまま動かない。解恵はそっと忍び寄り、彼女のデバイスへと手を伸ばした。
「お姉ちゃん!」
「っ!!」
デバイスを奪われた鍵玻璃は息を呑み、椅子を蹴倒すほどの勢いで距離を取った。
壁に背中をくっつけた姉から、湯熱の火照りが消え失せる。幽霊に襲われたような表情をして息を荒らげる彼女の姿に、解恵の方が驚いてしまう。
わざわざカラーコンタクトを入れた姉の瞳はくすんだ銀。両手には黒い手袋。鍵玻璃は息を荒げながら、俯き気味に叱りつけて来た。
「私の部屋に入って来ないで! 何度言えばわかるのよ!」
「だ、だってお姉ちゃん、いくら呼んでも気づかないじゃん! それに……うっ!」
解恵は言い返し、姉のデバイスを身に着ける。
すると、鼓膜を突き破るような大音量で、暴力的な音楽が流れ込んで来た。
景色が部屋から、サイケデリックな光をぶちまけるライブハウスへ。ARでミュージックビデオを見ていたらしい。
予想を裏切るほどの音量と凄まじいフラッシュに飛び跳ねながら、慌てて再生を停止する。アーティスト名は英語のようだが、なんて読むのかわからない。
解恵はゴーグル型のデバイスを外し、姉に詰め寄る。
「やっぱり、また変な曲聞いてる! あたしが昨日オススメしてあげたやつはー?」
「……聞いたわよ。ちょっと、近づいてこないで! あっち行って!」
姉は顔を限界まで背け、解恵を突き飛ばす。
数歩後退しながら、解恵は胸に不満を落とした。
―――うそつき。
鍵玻璃のデバイスを見下ろし、唇に力を込める。
履歴にも、ライブラリにも、解恵が勧めたアイドルポップは入っていまい。姉はすっかり変わってしまった。
息を詰まらせていると、鍵玻璃にゴーグルをひったくられる。
姉は解恵に背を向け、壁に両腕と額を押し当てた。
「出て行って」
「やだ! 話があるって、あたし言ったよね!」
「いいから出て行って! あんたと話すことなんてない……関わらないでよ!」
鋭い拒絶に、解恵は足を震わせた。
近づけない。触れられない。まるで姉の背中に針鼠のようなとげとげしさを感じ取る。いくら見つめて待ってみても、彼女は決して目を合わせてくれない。
小さな背中だ。少し前まで、背丈は同じくらいだったはずなのに。髪も、瞳も、趣味だって。それが今は、何もかも異なっていた。
どうして、こんなに変わってしまったのだろう。双子なのに、生まれた時からずっと一緒にいたはずなのに、どうしてこんな隔たりがある?
解恵にできるのは、縋るように問うことだけだ。
「本当に……来ないの? 界雷マテリア総合学院、お姉ちゃんも受かってるんだよ? 一緒に行こうって約束したじゃない。なのに……」
「行かない、記念受験って約束したでしょ。行きたいならひとりで行って」
「そんな……お姉ちゃん、トップで合格したんだよ!? 向こうからもぜひ来てほしいって何回も……エデンズだってやめてないんでしょ? なら……」
「いい加減にして!」
鍵玻璃は急に声を荒らげ、腕を振るった。
手袋を嵌めた指先が、解恵の目と鼻の先を薙ぎ払う。勢いのまま壁に手の甲を打ち付けた鍵玻璃は、怯えたような顔で頭を抱えた。
ぐうぅ、と唸りながら手袋を嵌めた手で喉や顔、体を掻き毟る。その姿を見て、解恵は前に見たホラーゲームの実況配信を思い出した。
主人公の目の前で、苦しみながら怪物と化すキャラクター。その凄惨な姿に今の姉の姿が重なった。手袋を嵌めているし、パジャマは長袖長ズボン。肌が傷つく心配はない。それでも、解恵は耐えられなかった。
姉の両手をつかんで制止しようとするが、それすら振り払い、鍵玻璃は叫んだ。
「私はもう、あんたとはいられないのよ! だめなの……あんたが一緒にいたら、だめなのよ……!」
「お姉ちゃん……!」
「お姉ちゃんって呼ばないで! 私は……私、は……っ!」
鍵玻璃は肩を抱き、床にうずくまってしまった。
心臓を針金で縛られるような苦痛を感じ、解恵は思わず泣きそうになる。
解恵が呼ぶと、姉はいつでも応えてくれた。眩しい笑顔で、手を引いてくれた。解恵が泣くと抱きしめて、慰めてくれた。
頭が良くて、何でもできて、かっこいい姉。目標で、憧れで、自慢の姉と一緒に夢を叶えたいと、ずっとそう思っている。今でも変わっていないのに。
「無理……だよ……」
解恵は丸くなった鍵玻璃に呟く。
離れたくない。その一心で呼びかける。
「あたし、お姉ちゃんより頭悪いし、入試もギリギリで……学校に入った後もついていけるか不安だし、教えて欲しいこと、いっぱいあるのに……それに、まだあたし、一回も勝ててない……約束だって、まだ……」
鍵玻璃は何も答えなかった。
体を丸め、耳を塞いでひたすらに拒絶のポーズを取り続けている。
弱々しくて、無力な姿。数年前、喚いて暴れて、泣き叫んでいた頃に戻ってしまったようだった。もう治ったと思っていたのに。
行き場を失った感情が、解恵の心を搔き乱す。
―――うそつき。
さっきと同じ非難が、また沸き上がってきた。
喉につっかえたそれをなんとか押し込める。代わりに出たのは、別の問い。
「……どうして?」
―――なんであたしを嫌いになったの?
―――何が、お姉ちゃんをそんな風にしちゃったの?
言葉にしきれない問いが、頭の中をしきりに巡る。もはやはっきり口にせずとも、姉には伝わるはずだった。もう幾度となく同じことを問うてきたから。
しかし返事はなかった。いつも通りに。
これ以上、この部屋にはいられない。解恵は姉に背を向け、足を引きずるようにして出て行った。
閉じた扉に背中をくっつけ、深く俯く。喉に重苦しい感情がつっかえている。強く歯を噛み締めた痛みが、顎にまで響いてきていた。
微かに、すすり泣きが聞こえてくる。姉もまた、苦しんでいた。
「お姉ちゃん……」
ぽつりと零した独り言など、届くはずもない。それでも、解恵は孤独に呟く。
どうしていいのか、もはや誰にもわからなかった。両親も、かかりつけの精神科医も、鍵玻璃を完全に持て余してしまっている。
明るくて、強くて、太陽のようだった彼女の変貌。その原因を、誰も知らない。
効果を見せた対症療法も、いつの間にか拒否するようになり。果てには家族から離れ、遠くでひとり暮らしを始めると言い出した。
できるわけがない。今の鍵玻璃をひとりにするなんて、そんなこと。
それに解恵だって、自分の夢を諦められない。昔からずっと夢に見て来た、鍵玻璃とアイドルになるという夢を。
解恵は大きく息を吸い込み、体に酸素を送り込む。
燻り、熾り続ける炎を燃え立たせるために。
「お姉ちゃん。あたし、諦めないからね」
昔の鍵玻璃を取り戻し、夢を叶える。
そのための布石はもう打った。あとは姉を連れて行くだけだ。
親にも確認は取ってある。これで鍵玻璃は逃げられない。
決して、独りにはさせない。傍にいる。姉のためならなんだってする。姉を救うためなら、どんなことでも。
「待っててお姉ちゃん。必ず、助けてあげるから」
自分にそう言い聞かせ、解恵は扉から背中を剥がした。
Xデーは、入学式の日。




