第22話 真打邂逅/窓越しの顔
硝子の砕けるような音を立て、ふたりを包んでいたエデンが弾ける。
夕焼けのテラスに戻って来た鍵玻璃は、その場に膝から崩れ落ちた。
「勝っ……た。くっ」
眩暈を感じて首を振る。精神的な疲労のせいで、体が重い。細い勝ち筋をつかみ取った後に感じるのは、喜びでも安堵でもない。
D・AR・Tを押し上げて立ち、流鯉に近づく。
仰向けに倒れ込んだお嬢様は、すっきりした表情で両腕を広げていた。
存分に遊びつくした子供のように目を閉じ、呼吸する彼女。その顔がなんだか憎たらしく思えてきて、鍵玻璃はやや乱暴に胸倉をつかむ。
「起きなさい、お嬢様。私の勝ちよ、約束は守ってもらう……!」
「……もうちょっとこう、余韻というものはありませんの?」
目を開け、不服そうな顔をした流鯉は、鍵玻璃の腕を引き剥がす。
疲労困憊した鍵玻璃と違って、思いのほかすんなり立ち上がると、制服を軽くはたいた。D・AR・Tは王杖から羽根ペン型に戻っている。
乱れた服を整えた流鯉は、やや唇を尖らせた。
「心配せずとも、約束を反故にはしませんわよ」
「なら、やって。今すぐ」
「せっかちな……構いませんけれど」
つっけんどんな言い方をされ、気分を害した様子の流鯉だったが、手中で回した羽根ペン型D・AR・Tを操りメッセージアプリを開いた。
手書き入力で文面をしたためながら、彼女はつらつらと言葉を並べる。
「言っておきますが、お父様は多忙なお方なので、いつ予定が空くかはわかりませんわ。返事にはそれなりの時間を要するかもしれませんわね」
「大丈夫、いつでも空いてる。それより、できれば直接会いたいんだけど」
「それは……まあ、お父様の予定次第ですが……」
流鯉は言葉を濁しつつ、送信ボタンをペン先でつつく。
父に伺いを立てるメッセージが問題なく送り届けられ、既読待ちの状態となる。
ともあれ、これで約束は半分満たした。後は向こう次第だ。
やや陰鬱に溜め息を吐く。父は善良だが、とんでもなく忙しい。流鯉からの紹介となれば無下にはしないだろうが。
「まあ、多忙とは言っても、早めにお返事は頂けますので、せいぜいお待ちなさいな。そうですね、遅くとも明日には返ってくるかと」
「多忙なんじゃなかったの?」
「とても多忙ですわ。ですが、お父様は家族とのコミュニケーションを優先してくださる方です。……言っておきますが、つまらない用事でお手を煩わせるつもりでしたら、容赦しませんわよ」
「つまらないかどうかは、あんたのお父様が決めることよ」
鍵玻璃の仄暗い眼差しに、周囲の景色が乱れて見えた。まだ藍色の空が黒く明滅する。木材を組んだ足元に白砂が、流鯉に死神のシルエットが重なって見えた。
鍵玻璃は体を傾がせ、片手で顔を覆い隠す。ここ数日大人しくしていた悪夢を、再び垣間見る。だが、秘めた狂気で死神を威嚇しながらも、心は意外なほどに穏やかだった。
自分は今、現実にいる。その感触に、口の端が引きつった。
「う……っ」
「ちょっとっ? どうかしたのですか?」
大きく傾きかけた肩を、流鯉の手に支えられる。
それを払い落して首を振ると、幻覚は一瞬で去った。代わりに、流鯉の心配そうな顔が映り込んでくる。
何やら思案顔をした彼女が口を開きかけると同時に、羽根ペン型のD・AR・Tが通知音を鳴らした。
流鯉はペンを振ってディスプレイを呼び出す。開かれたのは、先ほどのメッセージアプリ。程なくして、彼女の表情が驚きに染まる。
鍵玻璃はその反応でアタリを引いたと直感した。
「返事来た? なんだって?」
「……今から通話してもいいか、と。どうします?」
「繋いで」
「仕方ありませんわね。くれぐれも礼を失することなきように!」
そう言うと、流鯉は即座にコールボタンを突っついた。
数秒と経たず、ビデオ通話用のウィンドウが現れる。
映っていたのは、精悍な顔つきをした威厳ある男性だった。
丁寧に整えたプラチナシルバーの髪に、短く整えられた髭。バストアップでもその体格の良さと威厳がよく伝わってきて、鍵玻璃は唾を飲み込んだ。
流鯉の父・才原辰薙は、穏やかな微笑みを浮かべ、会話を切り出す。
「元気にしているようだな、流鯉。そして……」
アッシュグレーの眼光がこちらを見据える。ただそれだけで、鍵玻璃は何十人もの人の前に連れ出されたかのようなプレッシャーを感じ取った。
しかし、辰薙の声はあくまで鷹揚で、どこか好々爺を思わせるものですらあった。
「初めまして、肌理咲鍵玻璃くん。君が流鯉の紹介したい友人という認識で合っているかい」
「……初めまして、才原社長。私を知っているんですか」
「入学式の対戦を、私も見ていたからね。解恵くんともども、見事な戦いぶりだったよ」
苦い記憶を掘り返されて、ばつが悪くなる。鍵玻璃が気まずい顔をする一方で、流鯉が咳払いをした。
「お忙しいところ申し訳ございません、お父様。彼女がどうしてもお父様にお聞きしたいことがあると言うので……」
「構わない、娘が初めて友人を紹介してくれるというのだからな。それにそろそろ、お前の顔を一目見たいと思っていたタイミングでもある。さて」
首を縮め、眉をハの字にする娘を笑って窘める辰薙。
画面の前に並ぶふたりを同時に、真っ直ぐに見つめる姿は、まるで直接対面しているかのような錯覚を鍵玻璃に与えた。
まるで、彼の執務室に呼ばれたみたいだ。彼の存在そのものが、この場を支配している。これがカリスマというやつだろうか。
鍵玻璃は雰囲気に呑まれないよう己を叱りつけながら、背筋を伸ばす。
本題は、彼の方から問うてきた。
「それで、私に聞きたいことと言うのは?」
「……エデンズブリンガーの死神についてです」
流鯉の表情がささくれ立つ。
一方で辰薙は、表情を変えないままにほう、と小さく呟いた。
⁂ ⁂ ⁂
“星の夢を抱く姉妹”
レギオン:奮戦レベル3
パワー:3000
レギオンスキル①:『このレギオンの召喚時』“手を繋いでスイングバイ”1枚を手札に加える。
レギオンスキル②:『このレギオンの攻撃後』相手のハザードカウンターをX個増やす。Xはこのターン、このレギオンが攻撃した回数の半分(端数切り捨て)である。
お手々を繋いでくるっと回って、ふたりでずっと遠くまで。
⁂ ⁂ ⁂
解恵は壁を背に隠れ、姉の後ろ姿を伺っていた。
ここに来たのは、僅か一分前。屋外テラスでエデンが開かれているのを発見し、まさかと思ってやって来たのだ。勘は的中。状況を見る限り、対戦相手は流鯉だろう。だが、この状況は?
ふたりがビデオ通話している相手の顔が、遠目に確認できる。ヴェルテックス・インダストリーズCEOの才原辰薙。
―――これ……どうなってるの……?
肩で息をしながら、解恵は困惑を飲み込めずにいた。
どうして姉が流鯉と戦っていたのか。なぜ、エデンズの生みの親にして界雷の理事長である辰薙と喋っているのか。
耳を澄ませば、微かに声が聞こえてくるが、内容までは聞き取れない。
“独り言の一言も聞き逃しちゃだめよ”
“決定的な場面に出くわしたら飛び出して、その場で詰めてやりなさい”
トレーナーの言葉が蘇る。
嫌われてでも真実が知りたいのなら、姉が何を抱えているのかを知りたいのなら。今すぐ出ていくべきか。それともハニーが来るのを待つべきか。
けれど、彼女たちの会話がいつ終わるかわからない。もし聞き逃してしまったら。
解恵は固唾を飲み込んで、テラスの扉に手をかける。
音を立てないようにゆっくり開くと、吹き込む夜風が姉の言葉を運んできた。
「いいえ、私ひとりで伺います。あの子たちには……関係ありませんから」
―――え?
解恵は扉を僅かに開いたまま体を固めた。
私ひとりで。鍵玻璃ひとりで、一体どこへ向かうというのか。
あの子たちという言葉が自分やハニーを指しているのは、すぐに理解できた。
流鯉が気配を察してピクリと動く。彼女が振り返るとともに、鍵玻璃と辰薙も解恵に気付いた。
解恵は思い切ってテラスに踏み込む。夕焼けは消え、暗がりが鍵玻璃の顔を覆い隠していた。
「……お姉ちゃん? ここで何してるの……?」
「か、解恵さん? どうしてここに」
驚愕した流鯉に応えず、数歩近づく。
鍵玻璃は何も言おうとしない。夜の仮面を着けたまま、無言。
やがて彼女は解恵に背を向け、辰薙に告げた。
「では、また後でお邪魔します」
「わかった。だが、本当にいいのか?」
「大丈夫です」
「……そうか。鍵玻璃くん、あまり感情的にならないようにな」
目を閉じた辰薙はそう言って、通話を切った。
鍵玻璃は解恵の方に歩き始める。
解恵は姉に向かって踏み出し、喉に詰まった問いを吐き出そうとする。
何の話をしていたの? どこに行くつもりなの?
―――また、あたしを置いて行っちゃうの?
それらが言葉になるより早く、鍵玻璃は目の前までやってきて。
解恵を押しのけ、テラスから出て行った。
信じられないといった表情で後ずさりする解恵の背中を、流鯉が支える。
縋るように見上げると、彼女は気まずそうに目を逸らしてから、強張った笑みを浮かべてみせた。
「あ、ええと……気にする必要はありませんわ。鍵玻璃さんはただ、我が家に一泊するというだけですから」
「……どうして」
誤魔化すような声音は、解恵に新たな疑念を与えただけだ。
昨日まで縁もゆかりもなかった相手の家に、何故泊まりに行くなんて話になる?
なんで一言の相談もなしに。どれだけ心配されてるか、わかってないの?
ただ泊まりに行くだけならそう言えばいい。あんな態度、取る必要はない。
それに本来は自分たちも関係あるんじゃないの?
どうして、隠すの。
複数の疑問がいっぺんに爆ぜ、解恵を弾丸のように撃ち出した。
「お姉ちゃん! 待ってよ、お姉ちゃん!」
解恵は暗くなった廊下を足早に行く姉に追い縋り、呼びかける。
胸を鋭利な爪で引き裂かれたかのような痛みを抱えて駆けていく。
姉妹の去ったテラスにひとり残された流鯉は、額に握り拳を押し当てた。
「……おかしなひと」
エデンズブリンガーの死神なんてオカルト話を持ち出して、そのためにわざわざ流鯉に挑んでくるなんて。
だが、彼女は正しかったのだろう。父はバカげた話を一笑に付すことなく、より詳しく聞きたいと言って、鍵玻璃を家に招いたのだから。
たかがゲーム、そのはずだ。ホラー小説のようなことなど起こるはずもない。
冷たく、重く、ごわごわした風に吹かれて、流鯉は小さく身震いをした。




