7.王と仔龍と
リリィは自分が誰かに抱きかかえられている感覚に慌てて目を覚ました。
意識を失う直前、首を絞められていた。
というか首を絞められて堕ちた。
あれから一体どうなった?
混乱したリリィの頭上から低く穏やかな声でヴァーツラフが問いかける。
「気が付いたか。首を折られなくて良かったな。一体何をしてあの方をあそこまで怒らせたのだ?」
「え?あ…」
規則的に揺れる中、見上げた先 ── 思いの外近い位置にあったヴァーツラフの顔にリリィは慄く。
どうやら自分を抱えてどこかに向かっているようだ。白を基調とした天井の高い開けた回廊。左右には遠目にもわかるほど手入れの行き届いた美しい草木が見える。最初に見た砂と瓦礫の山とはまるで対照的な光景にリリィは目を瞬かせる。
「すまんが子どもだろうと事情がわかるまで我らは君を危険因子として扱わなくてはならない。私の言葉がわかるか?」
コクン。
リリィは肯首しヴァーツラフの首にしがみついた。
落とされはしないだろうが急いでいるようで大股で歩く彼の上はかなり揺れる。そこで改めてヴァーツラフの肌に広がる黒い斑が視界いっぱいになったリリィは目を逸らす事もできず、つい凝視してしまう。
「あぁ、君も目眩しは効かない口か。これは感染るものではないから安心しなさい。もう少しで着くからそれまで我慢だ」
「あの、ここどこですか?りゅ、リューシュ様は??」
見ている事に気付かれ、気まずくなったリリィは視線を逸らし恐る恐る話題を変えてみた。
「ここはノイエシュバルツ国の王城だ。君にはまず鑑定を受けてもらう。リューシュ殿は後で合流されるはずだ。君の首を絞めるという事は恐らくもうないと思うが…」
そこで言葉が途切れた。
歩く速度まで落ち、どう話したものかと考えあぐねたヴァーツラフは遂に立ち止まり、真っ直ぐリリィを見つめる。
「元々難しい方ではあるが無闇に他者を甚振るような方ではないんだ。今日まであの方が我らに力を貸してきてくださったおかげで今のこの世界がある。訳があったとしても君が納得できるものではないだろうが…此度の極光で何か“上書き”された可能性も…」
「上書き?」
「君が本当にあの極光のモノガタリ世界の作者だというのなら我らに協力を」
「閣下!」
回廊の前方から複数の足音が響いてきた。
騎士を数名引き連れ、文官めいた出立ちの男が駆けてくる。立ち止まっていたヴァーツラフもそれに応じるように再び歩き出し文官達の元へ向かった。
「今戻った。グロッシュ、兄上は執務室か?」
「いえ、あの、、」
歯切れの悪い文官 ─ グロッシュの様子にリリィを抱えたままヴァーツラフは小さく溜め息をついた。念の為執務室に居るかと問うてみたが居る訳がない。
あの兄の事だ。極光を目視に行くとでも言って物見台に居たとしても不思議ではない…一応王なのだが。
「私はこのままメルル殿とミルル殿の元へ向かう。リューシュ殿も追って戻られる筈だ。兄上にそう」
ガッシャ───ンッ!!
伝えておいてくれるかという言葉は何かが割れるけたたましい音で遮られた。
「ヴァーツ!やはりここだったか!リューシュはどうした!力尽きたか!!」
見るとリリィ達に一番近い左側の回廊傍の柱 ── 王族のみが知る筈の隠し通路から手前の調度品を薙ぎ倒し、黒髪の男が出てくる所だった。
(あの経路は塞がなくては…)
存在の知られた隠し通路など、城のどこへなりと通じている分ただの通路より始末が悪い。
頭の痛い思いを目を固く瞑る事で堪えたヴァーツラフにグロッシュが心得たとばかり小さく頷いてみせた。連れていた騎士の半数にこの場の確保と続く指示を飛ばし、流れるように事態の収拾を図っていく。
(慣れてる…)
リリィが呆気にとられていると駆けて行く数名の騎士と入れ替わるように黒髪の男はすぐ側までやってきていた。
ヴァーツラフに目元が似た精悍な顔つきはよく日に焼けており、艶やかな黒髪と鳶色の意思の強そうな瞳とが相まってとても溌剌とした印象だ。王城という場所の割にとても簡素な出立ちにも見えたが、その身に付けるシャツやスラックスは恐らく上質なものなのだろう。皺ひとつ無く、よく手入れされている。薄ら汚れているが。
ヴァーツラフはそんな黒髪の男 ─ 兄王の姿に出そうになったため息を漸く堪えた。
「…生きておられます。それどころか角の色が戻っておいででした」
「ハァ……大分追い詰められたかと覚悟もしたが、まだこの体でいられるらしいな」
ヴァーツラフの言葉に安堵したのか黒髪の男は大きく息を吐いてその場にしゃがみこんだ。
「兄上…」
「そう情けない顔をするな。で?その子どもは?大仰な枷なぞ嵌めて…夢見の報告にあった龍モドキか?」
「はい。王都でも観測された閃光、そしてグロッシュからの退避勧告直後、砂漠で広範囲に及ぶ爆発がありました。砂嵐越の事でしたので仔細は不明。その後私が先行し爆心付近に到着したところ、リューシュ殿がこの者の首に手をかけておられました」
ただ見たまま、ありのままの先刻の出来事をヴァーツラフが心情は交えず端的に伝える。この場に残っていた騎士が剣柄に手をかけこそしないものの、自身の前に出るべくいち早く動いたのを視線だけで不要と退がらせ、黒髪の王は立ち上がり尚問いかけた。
「リューシュの見立ては?」
「枷さえ外さなければとりあえずの危険は無いと。前世記憶は一。我らの言葉は理解できるようです。リューシュ殿はこの者が龍であり、今回の極光のモノガタリ世界の作者であると」
「ふむ…場所を変えよう。琉瑠の間で良いな?」
元よりそのつもりですとヴァーツラフも同意し、一行は再び進み始めた。
ヴァーツラフ一人の時よりもやや速度を落とした歩みにようやくリリィも周りを見る余裕が出てきた。キョロキョロと辺りを見回し、元居た世界ではあり得ないような人々の鮮やかな髪色や騎士達の中に見つけた獣人の姿にどうやら本当に異世界に来たらしいとリリィは一人ひっそりと感動を噛み締める。
声にこそ出していなかったはずが視線を感じ振り向いてみるとすぐ隣を歩く王がじっと様子を観察していた。
「フッ…」
「!!!」
思わず漏れたような王の笑みにリリィは顔どころか首まで真っ赤になる。
恥ずかしいが他人に抱えて運ばれている以上、この場から逃げる事も隠れる事もできない。
「自分の名は言えるか?」
助け舟のような王からの問いにリリィは全力でのる事にした。こうも狼狽える事になった原因でもあるだけに泥舟ではない事を祈りたい。
「リリィ…です」
「俺の名はフェリドだ。このノイエシュバルツの王をやっている。君を抱えてるヴァーツラフは俺の弟。似ておらんとよく言われるがな」
「兄上!!」
「ん?」
「私ならいざ知らず、ご自身の名まで告げて万一の事があったらどうするのです!」
「心配しすぎだヴァーツ。まだ名を使って呪いをかける類じゃないだろう。リリィは前世記憶持ちだそうだが実際どうだ?どれくらい前世を覚えている?」
「ろぐもち?」
「この世界か異世界か今生、お前がリリィとして意識を確立する以前の魂に刻まれた前世の記憶を持つ者の俗称だ。ここでは別に珍しい事じゃない。俺も弟もこの周りに居る者達も何人かはそういった前世記憶持ちだ」
「フェリ…王様の前世は何だったんですか?」
「俺か?俺のは聞いてもつまらんぞ?前世もその前も前世記憶の限りここの王でな。もう何度目になるか数えるのも億劫なくらいにはやっている」
「…私はこことは違う世界の病院で物心つく前からずっと入院してました。読んでいた本の事くらいしか覚えてないです。リューシュ様の出てくるお話が大好きで」
「あれの物語を読んだ事があるのか!興味深い。是非どんな話だったか聞きたいものだ。あいつは絶対話そうとせんからな」
リューシュは確かにここがユグド=マグナではないと言っていた。自分と同じようにここに転移してきたのだろう。
フェリドはリューシュがそもそも物語の登場人物である事も理解しているらしい。
リリィにとって前世の心の支えであり、もはや信仰に近いリューシュへの想いは首を絞められた程度で揺らぐものではない。何しろ死んでも好きなのだ。
存外、リリィは自分が図太い事にホッとした。
龍の証でもある角を力尽くでへし折られ、とんでもなく痛い目に遭ったがあれは朧げに退っ引きならない事態だと言われた気がするし、首を絞められた事もヴァーツラフに言われるまでもなく何か事情があるのだろうと訳もなく納得できてしまう。
思考も落ち着き、自身の今後や身の振り方など聞くべき事も沢山あったが、リリィには少し気になる事があった。
聞くべきか、聞かざるべきか。
考えた末、その疑問は思った以上にストレートにリリィの口をついて出てしまった。
「王様からリューシュ様の気配がするのはどうしてですか?」
唐突な一言にその場に居る者達は立ち止まる。
どうやら気のせいではなかったようだが聞かない方が良い類いの事だったのだろうか。視線が先程よりも多く深く突き刺さるのをヒシヒシと感じながら、リリィはしがみ付く手に力を入れる。
当然しがみ付いている本体の顔は恐ろしくて見る事はできない。視界の隅でヴァーツラフの黒い斑がそろりと動いた気もしたがリリィはそれどころではなかった。
「龍モドキというのはあながち誇張ではないようだな。行こう。お前に会わせたい者が居る」
問われた当のフェリドは答えはしないものの変わらぬ態度のまま、色めき立つ周囲とリリィを宥めるようにリリィの頭をひと撫でしてそう言った。
来週(5/13)は2話投稿予定です。