18.西の世界樹 Ⅳ
「随分な目に遭ったようだな」
優雅とも言える所作で湯気の立つカップを傾ける彼の人物は気遣わし気な笑みを浮かべ、立ち竦むシュナ達を労った。今度こそ冒険者ギルドを後にしたシュナ達が騎士団に到着するやいなや通された部屋で王弟ヴァーツラフ・ノイエシュバルツとの面会は即叶い、今はこうしてお茶まで用意されている。しかしシュナは席に付こうとはせず、平身低頭謝罪した。
「帰還に時間を要し申し訳ございません」
「フェンリルが逸ったんだろう?彼にも困ったものだ。ホラ、良いから掛けなさい。あらましは聞いているが、君らからも話を聞かせて欲しい」
「ふぇんりる?」
ヴァーツラフの再度の勧めで漸くソファーへ腰掛けるシュナに続こうとしたリリィだったが、前世でも耳にした事のある有名な魔獣の名に聞き違いかと首を傾げる。
「ギルド長の事だよ」
「えっ?あのオッサン、獣人じゃないnアダッ!」
「 言 い 方 !!」
いつまでもギルド長の事をオッサン呼ばわりするリリィにシュナがキレた。最初の小さな呟きに比べて幾分大きな声で詰め寄るシュナの姿を見て微笑まし気にヴァーツラフの目は優しく細められている。
「アイツも嫌われたものだ。だが“おっさん”というほど若くもないから逆に喜ばせてしまうかもしれないぞ?…そういえば“フェンリル”の名は異界では魔獣が冠しているのだったな」
拳骨をくらった頭を摩りながらリリィは思案顔のヴァーツラフへコクコクと頷いてみせる。
「獣人というには長命過ぎる。魔獣…は彼が狩る側か…すまない、あまり気にした事がなくてな。数百年前の世界樹大伐採で“木こり役”としての使命を全うして以降、このアインツミルドを拠点にしているフェンリルには何度か手を借りてきたが、背を預けるに足る男としか認識していなかった」
「ギルド長が大伐採の“木こり役”…ですか?」
「機会があったら尋ねてみると良い。さぁ、話を戻そう。三の世界樹の葉は手に入ったか?」
「それが……」
『“もういらない”って言われると思うよ?目的は果たしたろうからネ』
屋内という事を物ともしない先の鉤爪との戦いのせいで滅茶苦茶になってしまっていたギルド施設内を修繕した後、騎士団へ帰還するにあたり再度三の世界樹の葉を求めたシュナに対してギルド長はそう言い放った。
しかしと言い募るシュナを『まぁ騙されたと思って』と言いくるめたギルド長に言われた通り、三の世界樹の葉を受け取って冒険者ギルドを出てから鉤爪に襲われるまでの顛末を余す事なく全て報告する。
ややあって訪れた沈黙の中、最初に口を開いたのはヴァーツラフだった。
「…シェリムはずっと話さないままなのだな」
「ヴァーツラフ様?」
虚をつかれ、リリィは思わず首元に巻きついたまま動かないシェリムに手を伸ばす。いつもであれば口を挟むまではいかずとも、名が出れば首をもたげるくらいの事はするはずのシェリムが事ここに至るも微動だにしない。“念話”にも返事がないのは鉤爪に引き込まれた先でそれだけ消耗が激しい何かがあったのだろうとリリィは敢えてシェリムをそっとしていたがヴァーツラフはこれまでの話で何かわかったのだろうか。
「お前達を襲ったという黒い鉤爪の事を我らは“澱”と呼んでいる。形状は不定形。生者に対して並ならぬ攻撃性を示す。リリィは聞いた事があるだろうが元は数年前に極光によって上書きされた“連理ノ河”の副産物であり、シュナ達が引き込まれた漆黒の空間とやらは恐らく連理ノ河の片割れ ─ 黒ノ河 ─ だろう」
「ヴァーツラフ様、黒ノ河とは一体…」
「澱って……」
まだ事態を飲み込めていないシュナに対して、リリィは絶句する。かつて龍が災厄へ堕ちた遠因とも言われる澱が何故ここで出てくるのか。そしてシュナとシェリムがどこへ引き込まれたのか思い至ったリリィは一人静かに青褪める。
「確かな証左もなく憶測に過ぎない。だがリューシュ殿もあの琉瑠の間の御使達もこの説を否定していない。連理ノ河は“連理”というからには一対の流れなのだ。濾過され転生を待つ無垢な魂の集合体である連理ノ河の主流に対して、濾し出された諸々の記憶や感情ひしめく坩堝を便宜上“黒ノ河”と呼んでいる。そして澱とは黒ノ河に堕ちて尚、個を失わなかった妄執の成れの果てだ。しかしまさか呑まれるとは…あの男……やり過ぎだ」
「ヴァーツラフ様!シェリムは?!シェリムは、どうなっちゃうのでしょうか…」
「わからん。元々三の世界樹の葉はシュナが澱を視認できるようになる為の呼び水にするつもりだったのだが…リリィ、シェリムの具象化を解く事を当面禁ずる。これは君の身を守る為でもある。良いね?」
「ハイ…」
今回の世界樹の間引きについて後進に経験を積ませる場と軽く考えていたヴァーツラフは頭を抱えたくなった。項垂れ首元に巻き付くシェリムから手を離そうとしないリリィ。口を固く引き結び、色が変わり始めるほどの力で強く手を握り締めるシュナ。
早くも任務の遂行に支障をきたしかねないこの状況に今も冒険者ギルドに詰めているであろう男へ文句を言いに行きたい所だったが待たせている者がいる以上それも難しい。
「……?…ッ!!ヴァーツラフ様?!その姿は一体」
妙な気配に気付いたシュナは自分の見たものを俄かには信じられず思わず立ち上がった。シュナの声にハッとしたリリィも漸く顔を上げ、向かいに座るヴァーツラフを見るが数年来の変わらぬ姿にシュナが何に驚いているのかわからず困惑する。
「呪いの類いではないから安心しなさい。目眩しにかけていた術を弱めただけでリリィには昔から見えていたものだ」
本当かと言いたげなシュナの視線にリリィは斑の事を言っていたのかと気付き小さく頷いた。
「意思を持つ剣、とでも言えばいいのか…元はリューシュ殿より賜った黒い骨から削り出した剣だったのだが、使っている内にいつの頃からか体に纏わりつくようになってな。鎧のようなものかと好きにさせている」
そこで一旦言葉を切ったヴァーツラフが徐ろに右手をかざすと肌という肌に蔓延っていた斑が騒めき出す。まるで引き寄せられるように一斉に掌へ集束していったそれらはやがてヴァーツラフの意思を汲み取り、その手の中で徐々に一本の剣を象っていく。光の一切を吸収し、刀身から柄まで何も映さない黒い剣 ── ヴァーツラフが、というより人間が持つには些か不穏過ぎる気配のそれに対してリリィは突如耐えがたい目眩に襲われる中、視界が赤く染まったのを最後に意識が途切れた。
── ガシャン!!
「落ち着きなさい」
「フーッ!フーッ!」
冷めていて良かったとテーブルの上で盛大にひっくり返ってしまった茶器に目をやりつつ静かな声音のヴァーツラフに対して、咄嗟に動いたシュナによってのしかかる様にリリィは頭を押さえつけられた上、後ろ手に両腕を拘束されても尚牙を剥き踠く姿はさながら野生の獣だった。龍をここまで衝動的に駆り立てる何か ── 黒い剣を握るヴァーツラフはそんなリリィを前にしてもまるで動じた様子はない。
「シュナ、剣が見えているな?」
「は、はい。閣下、それは何なのですか?リリィの様子が」
「押さえるのも骨が折れるだろう。離してかまわない」
「し、しかし…」
「殺しはしない。リューシュ殿と事を構えるのは私としても避けたいからね」
「ッ…」
シュナは己れの心を見透かされる思いだった。
柔かにリリィを殺す気はないと宣うヴァーツラフの言う通り、ヴァーツラフへ危害を加えられる可能性よりもリリィのその手が届いた瞬間、斬り伏せられる姿が頭を過り動いた事は例え結果が同じであろうとも王族の守護という観点からすれば決して褒められたものではない。一瞬の逡巡の後、僅かにシュナが手を緩めた途端リリィの姿は掻き消えた。
「落ち着きなさい。これで二度目だ」
徐に立ち上がったヴァーツラフが後ろで一つに纏めた髪を揺らめかせ振り向いたのと同時に眼前に現れたリリィが黒剣へと手を伸ばす。ヴァーツラフは前を見据えたまま手にしていた黒剣を側壁へ投げ飛ばし、リリィの注意を外らせるとやや体勢を崩したその首目掛け掴みかかった。
「ウッ!ウガァッッ!!」
「背後を取る頭はあるようだが、目の色まで違うな…君は本当に我らの知るリリィかね?角まで再生させるとは余程アレが許せんらしい」
胸倉を掴み上げた拍子に被っていたフードが外れたリリィの顳顬を見れば先日折られたばかりの角が片方だけ親指ほどの長さまで再生していた。常であればこの長さになるには数ヶ月を要する上、片方だけ伸びるというのは明らかに異常だ。そして何より琥珀色の澄んだ瞳が赤黒く変色している。リリィの視線の先 ── ヴァーツラフの手を離れた事で黒剣は形状を保てなくなったのか、壁に刺さっていた穴だけを残し塵のようにサラサラと黒い煙となってヴァーツラフの身体に吸い寄せられて行く。
「もう澱は消えた。落ち着きなさい、リリィ」
── パキィッッ!
ヴァーツラフはそっとリリィの伸びてしまった角に手を添わせ、躊躇う事なく力を込めた。




