第6章 マイ・フェア・プリンス
その日からマクシミリアンの教育が始まった。まずは現在どれだけの力を身に着けているかチェックした が、家庭教師にきちんとした教育を受けていたらしく、学業面は優秀だった。マナーも一般的な生活上は問題なかったが、社交する上で必要な知識や言葉遣いなどはすっぽり抜けていた。
「やっぱり対人的な礼儀作法は徹底的に叩き込まないと駄目ね。王族なんだからへりくだればいいってものではないわ。第一王子に相応しいマナーでないと」
これはクラウディアが担当した。王太子であるアレックスの婚約者だったのだから、そのくらいお手の物だ。マクシミリアンは飲み込みは悪くなかったが、「王族たるもの、少し偉そうにしているくらいの方が信頼されやすいのです」というクラウディアのアドバイスはなかなか難しいようだった。
「ただ人のよさそうな笑顔を浮かべるだけでは、却って舐められてしまいます! 学園にはアレックス殿下もいらっしゃるのですから、絶対に比べられます。もっと胸を張って堂々とするだけでもかなり違います!」
「お嬢様、殿下のキャラじゃないことをやらせても無理なんじゃねーの? 殿下らしいやり方を考えていくほうが早いと思うけどな」
「それでも自信のなさが表に出てしまうのはどうにかしなきゃ。はったりでも人は騙せるもの。猫背になりがちなのでまずは背筋を伸ばして。そう、まずは姿勢からよ!」
クラウディアの指導はなかなかスパルタだった。だんだん王子に対する丁寧さが取れてきたが、そのことにも気づかないくらい打ち込んだ。マクシミリアンも弱音を吐かず、辛抱強く着いてきた。
「はい! 次は貴族の人間関係について。まずは前回の復習です。ハッター伯爵家とジョンソン伯爵家の確執の原因は何でしたっけ?」
「えーと、確か両家の息子と娘の縁談話が出た時、姿絵と実物があまりに違うことを息子がうっかり喋ったせいだっけ?」
「それはホルスト男爵家とロングボトム子爵家の話です! ハッター伯爵のカツラをジョンソン伯爵が酒に酔ってうっかり言いふらしてしまったせいです!」
「お嬢様、それは学園に入ってから学べばいいんじゃない? 殿下もそんな下らないことをひたすら丸暗記するのも辛いだろ」
「学園に入ってからじゃ遅いのよ! この人には頭髪の話題は厳禁とか前もって知っておかないと失敗するでしょ」
「殿下もよく着いてきますね。こんな勉強つまらないでしょ」
グランの口調もかなりざっくばらんになってきた。
「ううん、家庭教師の勉強より面白いよ。クラウディアとグランがいるからね。でも貴族社会って変だね。どうでもいいことが大事なんだね」
それを聞いてクラウディアの心がちくんと痛んだ。何も知らない純粋なマクシミリアンを、一筋縄ではいかないドロドロの環境に放り込むのだ。真っ白なシーツを土足で踏みつけて汚すようなものではないか、という考えが頭をよぎった。
「確かに、貴族というものは見栄っ張りで、どうでもいいことに躍起になって一喜一憂してばかりです。平民は毎日額に汗して働いているというのに。でもいざという時にわが身を差し出さなければいけないのもまた貴族です。それが普段贅沢な生活をしている私たちの責務というものですわ」
「ま、そんな覚悟がない連中が殆どだけどな。細かいことを言ったらキリがないけど、殿下は殿下らしくしてていいと思うよ。お嬢様は心配し過ぎなところがあるんだよ。アレックス殿下が俺様タイプで、新しく婚約者となったローズマリー嬢がおしとやかタイプだろ? こっちは平和な殿下と気が強いお嬢様コンビということで対照的でいいんじゃねーの?」
「ちょっ! 勝手にわたくしと殿下をくっつけないでよ! べっ……別にわたくしはそんなつもりじゃないんだから……」
「えっ、学園に行ったらクラウディアと離れちゃうの?」
「そんなことは申しておりません! でも殿下だって選択する権利がおありでしょう! 学園には美しい令嬢がたくさんおりますから……わたくしなんかより……」
クラウディアは顔を真っ赤にしてもじもじしながら言った。
「クラウディアは美人だよ。最初に会った時、昔見たことある銀色の髪に緑の目をしたお人形を思い出した」
「髪と目の色しか共通点ありません! それにあの時は汗がだらだら垂れて化粧が落ちてひどいことになってたし服も泥だらけだったので、情報を更新してください!」
「そういやお嬢様最近ダイエットしてるみたいだけど何かあったの?」
グランの言葉を聞いて今度はマクシミリアンが青ざめた。
「もしかしてこないだのこと気にしてる? クラウディアが重いとかじゃないからね! 僕がやせっぽちで力がないのが悪いんだ。本当にごめん!」
「いえっ、私がダイエットしたいからしてるだけです! 殿下とは関係なくてよ! そうだ!ダンスの練習もしなきゃ! わたくしもダイエットになるし一石二鳥よ」
マクシミリアンにとって身体を動かすことは、座学より大変だった。音感もリズム感もいまいちで、相手の足をよく踏んでしまった。それより困るのは、クラウディアと手をつなぐのすら恥ずかしがってしまうことだった。
「殿下! そんなへっぴり腰では困りますわ! ダンスは身体を密着させなきゃできません!」
「み、密着なんて、そんな下品なこと結婚前の女性とできるわけないじゃないか! もしかしてアレックスとも踊ったことあるの?」
「アレックス殿下とだけじゃありません! これは社交の一部ですから皆やっていることです!」
「じゃせめてグランにして! 女の子と一緒に踊るなんて、今の僕にはとても心臓が持たない……」
「いくら何でも女の子に免疫なさすぎじゃねーの? 今まで同年代の友達と遊んだことは?」
「子供の時は村の学校に行ってた。そこで地元の子たちと遊んでいたよ。でも僕が異質なことを子供ながらに何となく感じ取っていたみたいで、見えない壁はあったかも。だから深い付き合いはないかな……」
切ない話になってしまった。クラウディアとグランは少し気まずそうに顔を見合わせた。
「まあ、ダンスはおいおいやっていけばいいわよ。あと、体力をつけて身体を作らなきゃね」
実は、これが一番の課題かもしれなかった。マクシミリアンは子供の時病気がちだったせいで、今でも運動が苦手だ。腕も足も細く胸にはあばら骨が浮いている。肥満よりはましとは言え、これではかなり心もとなかった。今からでも遅くないから健康的な身体作りをすれば見た目だけでも堂々と見えるかもしれない。グランは頭脳は明晰だが、運動は教えられるほど得意ではなかった。クラウディアも特別得意というわけではなく、適任とは言えなかった。そこで考えたのが——
「おいっ! なんだよいきなり呼び出して! お前のせいでおばあ様にめちゃくちゃ怒られたんだぞ!」
「自分の立場を分かってないようね、ジュリアン坊ちゃま。あなたが怒られたのはわたくしに犬をけしかけたせいよ。婚約破棄について散々嫌味を言ってきたことは、慈悲の心で黙ってあげたの。これが何を意味するかお分かりね?」
「何が慈悲の心だよ……悪魔め。で、俺に何の用なの?」
ジュリアンは、自分の立場が分からないほど愚かではなかったようだ。本性を知られてしまった今、年上の人間に無理に楯突くのは得策ではないと悟ったようだ。
「ここにいらっしゃる方の遊び相手になってほしいの」
ジュリアンがふと横を見ると、自分より年上なのに喧嘩しても勝てそうなほど弱々しいお兄さんがちんまりと椅子に腰かけていた。
「??? こいつ俺より年上だろ? 遊ぶって何すればいいの?」
「体を使う外遊びね。鬼ごっこでも木登りでもチロルを追いかけるでも何でもいいわ。とにかく体力を付けたいからいっぱい動かして。あと、この方はマクシミリアン殿下だから。口のきき方に気を付けるように」
「殿下!? 王子様ってこと? なんで王子様がここにいるの? つーか何で王子様と鬼ごっこしなきゃいけないの?」
「本来なら適切なトレーナーを付けるべきだけど、大っぴらにできない事情があるからあなたに頼んでいるのよ。あなたの役割は王子に筋力をつけさせること。私とグランはほぼ大人だから落ち着いてしまったけど、あなたは遊びたい盛りでどれだけ動いても平気でしょう。そこを見込んで頼んでいるの」
「王子って言っても訳ありなんだろ……こんなのおばあ様に知れたら大変だぞ」
「あら、もちろんおばあ様には秘密よ。おばあ様に見えないところでわたくしにちょっかいかけたように、隠れてやるのは得意でしょ」
「嫌だよ! バレたら何が起きるか分からない!」
「あなたが断ったら、慈悲の心で黙っていたことをおばあ様に報告するまでね。どちらにしたって結果は同じよ」
クラウディアの表情が険悪になった。どちらが上の立場か徹底的に叩き込む時の無慈悲な顔だった。
「こんな性悪女だから婚約破棄されるんだよ! バーカ!」
グランとマクシミリアンは引き気味になりながら、この会話を聞いていた。
「……近所にかわいいわんぱく少年がいるって言ってたけど、すごいことになってない?」
「俺もよく知らないが、お嬢様はあいつに殺されかけたとずっと恨みに思ってたらしいから復讐したんだろ。敵に回したくはないな」
ひと悶着ありながらも、ジュリアンはクラウディアに従わざるをえなくなった。こうして、マクシミリアンの社会復帰プログラムは着々と進行した。運動面は絶望的だが頭は悪くないらしく、いやむしろ聡明な方かもしれなかった。
(血統の上からは王太子に最も近い地位なのに外されたのは、殿下自身に原因があるとは思えないのよね……弱気だけど周りが言うほど落ちこぼれでもないし。本当に何があったのかしら?)
最初は文句たらたらだったジュリアンもだんだんと打ち解けてきた。マクシミリアンが腰が低くて素直なので、年上でも付き合いやすいようだった。結果はすぐにはついてこないが、マクシミリアンの青白かった肌が日焼けしただけでも前より逞しくなった気がした。座学の方も着実に進み、1か月が経とうとしていた。
普段のように2階の一番広い空き部屋で3人集まって、ダンスの練習をしていたある日、来客があると使用人から声をかけられた。この頃になると、グランとならば一通りの動きができるようにはなっていた。お嬢様に至急会いたいそうですと言われ、珍しいこともあるものだとのん気に考えていたが、来訪者の名前を聞いて思わずぎょっとした。
恐る恐る降りていくと、見慣れた姿がそこにあった。年は20代半ばくらい、クラウディアと同じプラチナブロンドの髪の青年が、外套を小脇に抱え立っていた。余りによく見覚えのあるその顔は、眉間にしわを寄せ唇を厳しく結んでいた。
「お兄様。どういうわけでいらしたの?」
クラウディアは恐る恐る尋ねた。
「お父様が忙しいから代わりに俺が来た。手短に要件だけ言う。その1。別荘を引き払って至急家に帰ること。これは国王陛下の指示だ。その2。家に帰ったら自室で謹慎すること。これはお父様の指示だ。分かったら早く荷物をまとめなさい」