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間の山奇譚  作者: 葦原観月
1/1

敵討ち

庄助は悪党に立ち向かいます。

 (十一)


「小童、てめぇ生きてやがったかっ!」


 いきなり背を押されて、受け身をとった庄助に、安五郎の声が降りかかる。

「嵌めやがったな、誠二郎っ!」

跳び退った安五郎の向こう、枝の上から、白い手がひらひらと揺れる。垂れ下がる黒髪が、闇を引いて白い手に絡みついた。庄助は木隠れの術から、放り出されたらしい。

(てめぇ、素間っ、覚えてやがれっ)

 お決まりのひと言を胸の内で呟き、耳を掠めた音に首を縮めた。

「何すんやっ!」「油断したらあきまへんて。誠二郎、本気ですやん」

 頭にへばりついた付髷を掠めて、礫が間断なく木々を打つ。

「何でわてが狙われるんやっ」這いつくばって、石礫の嵐の中を行く庄助に、

「思い上がったらあきまへん。だぁれも小童なんぞ相手にしまへんわ。誠二郎が狙うとるんは、安五郎です」

 同じく横で身を低くした玉助が、猫髭を尖らせる。童顔に猫髭は、実に腹立たしい。


「ほれ、きまっせ」しなやかに身を翻した玉助に反し、庄助は、付髷に引きずられて転がった。人の頭ほどの岩が、鈍い音を立てて地に落ちる。本気の誠二郎は、何でも飛ばすようだ。

「ああっ、もたもたせんとっ!」

玉助の蹴りに、腹を抱えた庄助が吹っ飛び、「この、死に損ないの小童めっ」振り下ろされた刃物に、付髷が勢いを付けて浮き上がる。

 ぐきっ、とぶちっ、が重なって、庄助の首を殺気が掠めた。ごくり、と庄助の咽が鳴る。

「舐めたらあかんで」

庄助の口から零れた言葉に、安五郎が血走った目を細めた。

 再び刃物を振りかざした安五郎に、手で丸めた土を投げつける。

「くそ小童!」

安五郎の投げた刃物を避けて飛び上がり、手を着いた枝に勢いを付けて半回転。猿のように枝に飛び乗った庄助は、興行であれば拍手喝采の場面だ。

「やるじゃないか」

付髪を腕に巻いた素間が、にこにこと笑って庄助を蹴り落とし、

「小悪党など、八瀨童子の相手やないわっ」

執拗に追い縋る安五郎に、付髷は要らぬ口を叩く。庄助の周りは、敵だらけだ。


「こいつは小やのうて、大の悪党やっ」

庄助は、安五郎が振り上げた腕ををがしっ、と掴んだ。短刀が月光を反射して鈍く光る。

(えぇ調子やん)にまっ、と笑った庄助の背後から、「小童、背ぇや!」誠二郎が叫んだ。「終わりだ、小童」にやっ、と笑った安五郎に息を呑み、「いてっ」顔を歪ませた安五郎に、眉を寄せた。爪を立てた猫が、安五郎の背を駆け上がる。

「痛い痛い痛いっ」叫ぶ安五郎を押した庄助は地に倒れ、頭の先に重い音が突き立った。

「小童っ」誠二郎の声に、庄助は飛び退いた。安五郎の短刀が、庄助に追い迫る。


 ぴしっ――。


小さな音が矛先を狂わせた。庄助の頭を掠めて短刀が飛んでいく。

「ちっ」手首を押さえた安五郎が、身を返した。(あかん、刀や)

 慌てて追った安五郎の先には、今し方の重い音が地に突き立っている。だが、安五郎は刀には目もくれず、闇に飛び込んだ。


「小童、無事か」木陰から顔を出した誠二郎に、

「へぇ、おおきに助かりました」付髷は勝手に礼を言う。

「逃げたんやろか」合点のいかん庄助に、「いいや、何ぞ企んどるに決まっとる」言い捨てて、誠二郎は安五郎の飛び込んだ闇に、足を向けた。

「童らは無事や。うちの村のもんが取り戻した」すかさず上げた庄助の声に、誠二郎が歩を止めた。

「あんたが悪人やないんはようわかった。水垢離は、わてが村長に話つけたる」

「聞いとったか」誠二郎が振り向いて苦く笑う。


「安五郎の話は――」庄助の言葉に、「嘘や。わかっとる」誠二郎がつるり、と顔を撫で上げた。

「おせんはとうの昔に死んだ。何でまた、奴がおせんを知っとるかは解せんが、この大事におせんの名を使うた奴に腹が立ったんや」ふーっ、と息を吐く誠二郎には、何か事情がありそうだ。

 口を開いた庄助を、「恩に着る」誠二郎が遮った。

(大事な(ひと)やったんですよ)弥平が頭の上で呟いた。庄助の脳裏に美月の姿が浮かぶ。

 木隠れの術から庄助を放り出した素間は、庄助に悪党退治を望んでいるようだが、安五郎が相手では、庄助に勝算はない。


「誠二郎さん、悪党相手に腹立てたかて詮無しや。それより、若君迎える段取りせんと」庄助の言葉に、

「さてこれで、憂いなく仇討ちができる」とんでもない言葉が、重なった。

(何言うてんのやっ。わてが安五郎に勝てるかっ!)勝手な付髷に反論するが、

(意気地のない。若旦那は、庄助さんの活躍を期待してはりますのんやで)

付け髷は、素間の味方だ。

「そうか。あんたにはまだ、仇討ちが残っとったな」

庄助と弥平の言い合いを知らん、誠二郎が呟いた。

(素間の考えは見えとんで。姫様に先を越されておもろない。捕り物だけでも、したろいう魂胆や。そやったら、自分でしたらええ。わてはごめんや、もう降りる)


「誠二郎さん――」今のうちに山を下りましょう。

庄助の言葉が、「仇討ちです!」力強い声と入れ代わった。

「わかった、わかった」誠二郎が、笑いながら背を向ける。

(何のつもりやっ)噛み付く庄助に(仇討たんと男が廃る)付髷は、頑なだ。

(あんたは太兵を知らんやろ。太兵はわてが死ぬんを喜ばん)

悔しいが、返り討ちは目に見えている。

(あんさんはええですやろが。わては付髷弥平どす。髷がのうなれば、つけばかりが残りますがな。つけの弥平やなんて、ご先祖様に申し訳が立ちまへん!)

 安五郎に髻を切られたらしい。髻の仇討ちとは、死人の考えは理解できん。

(髷ぐらい結うたるがな)(わては死人でっせ。髪はもう伸びんのです)

涙声の弥平は、死人のくせに面倒くさい。


(安五郎は悪党やぞ、得物なしで仇は討てん)庄助は、現実を突きつけた。

(ないんですか?)つけの弥平が飛び上がった。顔の皮が引き攣れる。

(わては大神様の芸人や、人を殺める得物なんぞ持たんわ)

 間の山の芸人に、殺生は許されん。大神様は、心の穢れを何より嫌う。

(ほんなら小そうてもええんで、前より、男前に結うて下さい)

言い分は勝手だが、わかってくれて何よりだ。やれやれと胸を撫で下ろした庄助に、

「小童、ここにええ得物がある」今度は、誠二郎が、余計な口を叩いた。


 安五郎が、庄助を狙った山刀は一尺に満たないが、飾り刀しか知らん庄助には、刃も厚く重厚に見える。山刀は山人の生涯の相方であり、村のタタラ師は、決して折れぬ刀を打つと、弥平は声を弾ませた。山人独自の製法があるらしい。

(文句なしの山刀です)弥平のお墨付きと、

「ともすれば。童殺しに使うた刀やもしれん。ならば仇討ちにはもってこいの刀や」

誠二郎の後押しがあっては、引くに引けん。

 やむなく山刀を手にした庄助は、「お前の活躍に期待するよ」木隠れの素間の声に背を押され、大きく息を吐いた。

 

   (十二)


 かこん――。


 闇深い深夜の聖山に、涼やかな音が鳴り響く。

ばさり、と闇がざわめいた。庄助と誠二郎は、飛び退って身を伏せる。

 闇に間断ない音が、庄助の不安を募らせた。安五郎は得体の知れぬ悪党だ。

(仲間を。集めとんやないやろな)

 五郎左と組んだ安五郎だ。悪党には顔が利こう。峰の連なる朝熊岳には、得体の知れぬ者が多く住む。悪党の塒があっても、不思議ではない。

「小童、ありゃあ……やめさせたほうがよさそうやな」

思案げに顎を撫でる誠二郎もまた、庄助と同じ思いか。


「誠二郎さん、あれ、」庄助の続きを、「竹取の金太郎や」弥平が、意味不明の言葉で括った。

「はぁ?」眉を寄せた誠二郎に、「竹取は禁止や、ここは聖域やて」と、何とか誤魔化し、「そやな。山神様のお怒りに触れる。やめさせんといかん」

誠二郎が、小石を集め始めた。

(阿呆言うやないっ!)(あぁ、何とも口惜しや)

庄助の窘めに、弥平はようやく死人らしい口を利いた。

(山人が二人も揃うて、竹取の金太郎を知らぬとは)

頭を振った弥平に、ざんばら髪が激しく揺れる。庄助は頭を押さえた。

(余計な口叩くんやったら、素間んとこに帰れっ。野間家には、腕のいい髪結いが出入りしとるぞ。山賊どもに囲まれたら、仇討ちどころやのうなるわ)

 庄助の口が仇討ちを語った以上、逃げるわけにはいかん。


 まったくの闇だった竹藪に、月の光が射し込んだ。竹林の中、肩で息をする影が浮かび上がる。さすがの安五郎も疲れてきたか。竹伐りは結構な体力を使う。今が好機と庄助は、竹藪に足を踏み入れた。安五郎の視界を避け、影を縫って背に近づく。誠二郎が斜め横に道を変えた。不意に安五郎が屈んで、何かを放り上げる。


 かん、かん、かん、かんっ――。


 調子良く響いた音を耳に、庄助は竹に組み付いて、音もなくはい上がる。

 見下ろした先、安五郎が伐り倒した竹を無造作に掴んで、高く放り上げた。腰を落とした安五郎が、勢いを付けて刃を払う。小気味良い音と共に、竹が飛んでいく。

誠二郎が飛び退いた。地に竹片が突き刺さる。飛び退る誠二郎を、竹片が追っていく。安五郎がまた、新たな竹を拾い上げた。


(あれが、竹取の金太郎です)弥平が呟いた。

(竹は山人と縁深い。竹鉈の工夫は、古くからなされてきました。己の用途に応じるよう、各々に独自の竹鉈の製法に、余念がなかったんどす)

 自身にぴたりと寄り添う、竹鉈は究極の相方。以心伝心の竹鉈を持つ者は、山人の頂点に立つ者として、崇められた。

 強度を極めるために竹を打つ。繰り返し竹を打つ作業は、腕力ばかりか、足腰をも鍛え上げる。鍛錬された竹鉈は、刃こぼれや切れ味を損なうことなく、手に馴染む。

(まさに以心伝心が、究極に達したとき――)


 竹鉈は使い手の一部となる――。


(筋骨隆々にして、竹を刈る様はまさに金太郎。究極の竹鉈を手にした者を、竹取の金太郎と、呼ぶようになった由縁です)

 かつては八瀨にも数人いた竹取の金太郎も、伝説となって久しい。弥平も髪前(目前)にするのは始めてだと、毛を逆立てた。

 芸人で言うところの、合わせ稽古といったところか。相方との息がぴたりと合えば――。

(まずいやん)見下ろす竹の切り口に、庄助の背が凍った。


 カンッ――。


 高く響いた音に、庄助の背が反り返る。

「わーっ」弥平が、庄助の口で叫んだ。天地がひっくり返って、頭先に鋭く屹立する竹が見える。

「落ちるっ」口を突く弥平の言葉に、(落ちるかっ)庄助は返して、後ろ手に竹を掴んだ。庄助の足が絡みついた竹の先、頭の部分が吹っ飛んだ。竹鉈と一体となった安五郎は、

竹串作りの名人らしい。


 カンッ、カンッ。

続けざまに、鋭利な鋒を持つ竹が庄助を狙う。庄助は竹を後転の要領で降りていく。竹伐りの音が止まった。半分方、反った庄助の背がぴたり、と止まり、慌てて上体を起こして竹にしがみつく。カンッ。庄助のしがみつく竿が斜めに滑り、ずんっ、地面に突き立った。庄助の体ががたがたと揺れる。

(さすがは、間の山一の若衆ですね)

弥平の称賛に、ちょっと気を良くして、「小童っ!」誠二郎の声に飛び退った。

かこんっ。二つの竹筒が、万歳をした庄助の左右を掠めて飛び去った。庄助の頭の上でばさばさと髪が鳴る。弥平は拍手のつもりらしい。

「小賢しい小童めっ!」

地団駄を踏んだ安五郎が、腹立ち紛れに枝をむしり取り投げつけた。

(ちぃと格好つけたろやないか)

腰に下げた山刀の鯉口を切る。立ち回りよろしく、鮮やかに刀を一閃させ、ぱさり、と足下に落ちた枝に、にまりと笑った。

(本物はちゃうなぁ)思った刹那にズサリ、と、刃先が地に突き立った。

(折れたやん……)(タタラ師も人ですよって)

つけの弥平はいい加減だ。


「余興は終わりだ、小童。片ぁつけてやるっ」

にまりと笑った安五郎が、ぶんっ、と竹鉈を払った。からからと音を立てて竹が散る。合わせ稽古はしまいらしい。

(冗談やないぞ)

 山賊の来襲は杞憂に済んだものの、頼みの得物は無用の長物となった。庄助に竹取の金太郎への一太刀は無理とみた。何せ伝説の山人だ。

(奴の竹鉈は人殺しの用途に設えたもんですな。ばっさりと斬った切り口は真っ二つ。仕上がりは上々――)

弥平がいらぬ解説を付け、「骨まで断てますな」横から飛びついた声が、追い打ちを掛ける。童顔の猫は、今まで何をしていたか。

「用を足しとりました」人の頭で粗相する猫は、平然とのたまわる。

「棒技は見事だったと、若旦那からの伝言です」

素間は高みの見物らしい。

「遊びやないんやぞ。死ぬとこやったやないかっ」

「あたしの庄助は、これくらいで死にやしないと」勝手な自信だ。

「けれど、逃げてばかりでは分が悪い。せめて一矢だけでも報いなさいとのお達しです。正義は主張しなければただの自己満足。悪から逃げるばかりの正義は認められないよと」   

 素間は生き返っても、手厳しい。

「手伝う気はないんかっ」贔屓なら。窮地に陥る、庄助を助けるべきだ。

「あたしが出ていったんじゃあ、若松様の名が廃るよ」素間を真似る猫には、腹が立つ。

「得物ものうて、どうやって戦うんやっ。奴は究極の竹鉈を手にしとるんやぞ」

「究極には、究極で立ち向かうべし」

 ぴょん、と飛んだ玉助が、竹を駆け上がった。さすがまだらの玉助だ。


「そこかぁ」

安五郎が竹鉈を薙いだ。かーんっ。高い音が響いて竹が落ちる。葉のついた先端が、庄助めがけて飛んでくる。「ひいっ」弥平が叫び、庄助ははしっ、と竹を掴んだ。

「小童ぁっ、逃がさんぞー」

 安五郎の声が遠ざかる。竹渡りを披露する童が一人。玉助は囮を買って出たらしい。庄助よりずっと、身軽に竹を渡る玉助に、庄助の芸人魂に火が付いた。

(負けとれんわっ)

すかさず腰から竹串を取り出し、竹の先端に括り付ける。

(庄助さん、何しはりますのん?)

(芸で勝負するんや。わては間の山一の若衆や)

 にわか仕立ての竹傘を、肩にかければいなせな若衆。庄助の耳にはお囃子の音が聞こえている。

 左手に傘をさし、右手に折れた山刀。軽く一礼した庄助は、足取り軽く竹(観客)の間を走り抜けた。

 山刀が落ちた竹筒を投げ上げる。傘の先端に突き立った竹筒に、まずは笑顔を一つ。

続けざまに放り上げる竹筒が、かこん、かこんと軽やかな音を立てて積まれていく。

(おおおっ)弥平の歓声には、満足だ。

傘を使っての枕返しは初めてだが、(なかなかいいぞ、面白い)身に染みた芸人魂は、新たな挑戦に、興奮を隠せない。


 調子に乗って三つ四つ。竹筒の重さに竿が撓る。均衡を保つ庄助の体も、大きく揺れる。ばさばさと葉が鳴って、安五郎が振り向いた。

 にたり、と笑った悪党面はもうたくさん。もはや竹は斬り飽きたか、安五郎は竹鉈を振りかぶって走り寄る。

(庄助さんっ)

弥平が情けない声を出し、庄助の体が大きく反り返った。手首が竹のように撓る。

「行けえいぃっ、竹返しやっ!」

勢いを付けて竹傘を振れば、竹筒が一斉に飛び立った。

 たんっ、たんっ、たんっ――。

安五郎に竹の雨が降る。

「ううっ」肩を押さえて膝をついた安五郎に、庄助は竹傘を肩に軽く一礼した。


     (十三)


「良くやった、庄助」


背後から回された腕に、庄助の体が傾いだ。

「けど、締めはこうするがいいよ、若衆は粋でなくっちゃあね」

竹傘をざんっ、と払った素間は、庄助を抱えて耳許で囁いた。

(ごらんよ)

 勢い良く払った竹傘から、葉が落ちる。きらきらと月光を反射するものが、庄助の身を凍らせた。

(まったく。お前は隙だらけだ)

「お前の芸は、間の山の誇りなんだ。贔屓のあたしに、恥をかかせないどくれ」

 竹傘を放った素間は、「しっかりおしっ」ぴしり、と庄助の尻を叩いた。強ばった首で、見渡す辺りに昭暝の姿はない。

 のそりと立ち上がった安五郎が、庄助を睨んだ。腰にやった庄助の手を、素間が掴んだ。

「お前の演目は終わりだよ」

ぐぃ、と庄助を引き寄せた素間の袖から、するすると毛が這い出でる。

「頼んだよ、おすず」

付け髪は、そのまま庄助の頭に登り、弥平を連れて闇に溶けた。白い斑点が、勢い良く竹に駆け上がる。

 白茶けた黒装束の童が竹を渡る。「小童っ!」肩を押さえた安五郎が身を翻した。

「こらっ、安五郎っ」

叫んだ庄助の口を、素間が塞いだ。


「お黙りっ。身代わりの術だ、邪魔するんじゃない」

素間は忍法に凝っているらしい。

「安五郎は誠二郎に任せて、お前はあたしと行くんだっ」

素間の掴んだ手を払い、「誠二郎は死なせんっ」

飛び出した庄助の脛を、素間の扇がぴしゃり、と打った。

「うぅ」言葉にできん痛みに、庄助は蹲る。

「馬鹿だねぇ。誠二郎が死ぬもんか。若君の守り役だよ、真剣勝負となりゃあ、安五郎なんて相手じゃない」

 童らの居場所が判然とするまでは、手出ししかねていた誠二郎も、童らの無事がわかれば遠慮はない。庄助の仇討ちに一歩譲ったものの、大事なお役目を邪魔立てされた遺恨は残る。

「お前がここで手を引けば。心置きなく、遺恨を晴らせるってぇもんだ」

「だったら。端からわてはいらんやろ」と、噛み付く庄助に、

「童の無事を知らせてやったろう」と、素間は、さらりとのたまった。

ただの連絡係にしちゃあ、危険が多過ぎやしないか。


「昭暝は、どないするんや」

姿は見えんものの、庄助を狙った針は、間違いなく昭暝のものだ。

「奴は、誠二郎なんぞに興味はない。この後に及んでお前を狙う理由は、あたしへの見せしめだろうが残念、あたしの前でお前を殺ろうなんて百年早い。伊賀者らしく、人の事情をほじくり回すのはかまわんが、聖域をほじくり回されたんじゃあ、たまらない。せっかく育てた虫が死んじまったんだよ、おねうに頼まれてたのにさっ」

 庄助は昭暝にちょっと、感謝する。


「昭暝は朝熊岳で何を探しとる」

 金剛證寺に潜り込み、一日を山で過ごす昭暝は修験者ではない。悪事を仕切る伊賀者が、血眼になって山をほじくり回す理由は何か。

「知りたいかい?」「知っとるんかっ」庄助は身を乗り出した。

薄く笑った素間は、懐に手を入れた。「これさ」

目の前に突きつけられた粒に、庄助は目を懲らし、「それって……」

開いた口に、素間が粒を放り込んだ。ごくり、と鳴った咽に、己の習性を恨んだ。


「素間万金丹、まだら……」


 久々に聞く、薬名に息が止まる。今度の試作品は何かと、心ノ臓が凍り、

「野間家が虚空蔵菩薩様から賜った、秘薬の大元さ。究極の、万能薬だ」

 思わず、「おおおっ」と、出そうな声を、庄助は呑み込んだ。

「まだらはお前の処方やろ。野間家の売薬は、野間万金丹や」

「だから。万能薬の大元が、まだらなんだよ」


 初代が断った霊薬こそが、まだら。究極の万能薬はこっそりと、初代の元に運び込まれた。

「昭暝があたしをつけ回した理由は、神隠しじゃあ、なかったんだ」

 牛谷の神隠しを探る素間は、何者かの追尾を受け、庄助に捜査の役目を振った。後に庄助の悪戯によって、行方をくらました素間だが、実際は執拗な追尾を嫌っての雲隠れだった。

「やつの目的は、まだらだってことさ。まったく。どこでそんな話を拾ってきたんだか。初代様が、まだらを賜ったのは三百年以上も前の話だよ。伊賀者の情報力は侮れんね」


「まだらはまだ、朝熊岳にあるんかっ!」

思わず声を上げた庄助の口に、

「声がでかいよ庄助。やつに聞かれたらどうするんだい」

すかさず素間が蓋をする。

口の回りに貼り付いた、木の皮がちくちくして、庄助は顔を顰めた。

「伊賀者は侮れんからね、用心に越したこたぁない。ようやくあたしをみつけたんだ、お宝の行方が気になるところだろう」

ぐりぐりと、手の平を押しつける素間に、むっとする。

「けど。しょせんただの薬やろ? 伊賀者がそんなん探してどないするんや。薬売りでもするんかいな」

素間の手を乱暴に押しやって、庄助は口の周りの木屑を落とした。

「馬鹿だねぇ、売ったりするもんか。霊薬が有名になったら、隠れ里伊賀が有名になっちまうじゃあないかっ。いいかい。大きい声じゃあ言えないが、まだらは不死の妙薬なんだ」


「えーっ」


 十分に声の大きい素間に、庄助も遠慮なく応える。どこかで、ばさばさと鳥が飛び立った。

「本家本元の霊薬は、朝熊岳にある。正真正銘、虚空蔵菩薩様が、初代様に下賜されたお宝だ」

「何で、野間家にないんや」

素間の扇が脳天を突いて、庄助の瞼に星が瞬いた。

「不死の妙薬は、古から人の憧れだ。誰もが欲しがり争いの元となる。初代様はそれを嫌ったのさ。真摯な心掛けを、お持ちのお方だったからね」

 真摯な初代様から、どこをどう間違って、こうなったか。

「初代様は、不死の妙薬は頂けぬと断った。だが、病に苦しむ人を救いたい、と願う初代様のお心に、いたく感心された虚空蔵菩薩様は、万病に効く薬の処方を授けた」


 時が下り、お伊勢参りで人が増えた。空海上人が、修業の場に選んだという金剛證寺は、伊勢神宮の鬼門を守る寺と謳われ、参拝者も増えた。金剛證寺縁の万能薬は、伊勢参りの旅人を救い、虚空蔵菩薩様の、熱心な信者である野間家は、賜った秘薬を旅人に提供した。それを、御師が伊勢土産として全国に広め、野間万金丹は、伊勢の名物の一つとなった。

「何代目から商いとしたかは、わからんが。今の野間万金丹は、当たり障りのない、ただの気休め薬さ。有り難い金剛證寺の名があってこその、しろもんだ。御師のおかげで羽振りはいいが、今のままでは、いずれ廃れる。立て直しが必要だ。現に小西家に喰われ始めてる」


 万金丹の看板を掲げる店は増えている。新家の御師邸は新店と組み、新たな商戦を繰り広げる。旧家は旧家らしく。師家に媚びることなく、でん、と構えていなくては成りたたんのだと、素間は肩を竦めた。

「野間家の子息が次々に、変わり種の万金丹を発売し、それが、よく売れるとあっちゃあ、勘違いしても無理ないか。朝熊岳に足繁く通う、野間家の子息はきっと、朝熊岳のどこかに、霊薬を隠しているに違いない――」

「隠しとるんか?」

「隠してたんなら、試作品なんか作りやしないよ。昔ながらの材料と製法は、手間もかかれば臭いもきつい。手本がないから我慢して、試行錯誤を繰り返すんじゃあないか。どこを掘ったって、何にもでやしないよ。骨折り損のくたびれもうけさ」

 くくくと笑った素間が、庄助に目配せをする。どうやら昭暝は、素間の作り話に耳を傾けているらしい。


「ほんなら、やっぱり霊薬はないんや」

いささか投げやりに言った庄助に、素間の扇が飛んでくる。

「馬鹿お言いでないっ。あたしゃ、野間家の御曹司だよっ」

 作り話を盛り立てているんだ、手加減くらいして欲しい。

「初代様の覚え書きが出てきたんだ。霊薬は、ご神木の中にある。しののめの時刻に行けば、拝見できると」

 再び「えーっ」と、叫んだ庄助の耳を、素間が引っ張った。

(お前の下手くそな演技にゃぁ、愛想が尽きたよ。いいからもう、黙っておいで)

 今度は不満の「えーっ」を言って、捻り上げられた耳に、口を閉じた。

「昭暝が霊薬を探し回っている以上、おちおちしちゃあいられない。しののめまであとわずかだ、行くよ、庄助」

 黙っていろと言われた庄助は、こくりと、頷いて、幾分か白み始めた竹藪を後にした。

 

    (十四)


 眼前に広がるは天空に向かう(きざはし)。左右に道を譲った木々は恭しく控え、聖域、朝熊岳の最高峰を称える。

 聖域を包む白は厳かで、幼い頃、素間と何度も訪れた場所は、何年経っても変わらぬ威厳に溢れている。

 空海上人が修業の場と開いた道場も、朝熊岳山頂に聳える大杉を、ご神木と頂いたが由縁。空海上人が、手ずからひとつひとつ掘ったと言われる階は、崩れもせず力強い段を天へと向けている。修行僧らの手によって、階を守るように移された木々は、常に、たわわに葉を茂らせ、聖域の頂点を守り続けている。


「行くよ、庄助」

足が竦む庄助の手を、素間は強引に引いた。階の前の注連縄は、潜った例はない。

拝田村の長ですら、注連縄の前で跪く、朝熊岳のご神木は、金剛證寺の和尚も、陽の高いうちにお務めを済ませる場所だ。日が落ちて後は、何人たりとも近寄らせぬ壁を作るのだと、三八は言う。

「わてはここでええ。畏れ多いわ」


 嘘話で昭暝を誘い込んだ、素間の魂胆は知らんが、ここから先は素間一人でやって欲しい。誰もが畏れる聖域中の聖域には、庄助も腰が引ける。だが、「お前が遠慮するこたぁない」と、素間は平然と注連縄に手を掛ける。

(罰が当たるぞっ)

引かれるままに、注連縄を潜った庄助が身を強ばらせ、するりと、何かを抜けた感覚に息を呑んだ。振り向けば、注連縄が静かな風に揺れる。日の出前の、まさに白々しい明るみが、闇を作る木々を蝕んでいく。

「しののめだ」

階を駆け上がる素間は、疾風のごとく。手を引かれる庄助の足下は、雲の上を行くように頼りない。全ては聖域の幻だと、己に言い聞かせ、いきなりひれ伏した素間に、庄助の体がふわり、と宙に浮いた。素間の扇に打たれ、階に顔面を打ち付ける。

(痛いやないかっ)(お黙りっ! 主様の御前だよっ)

ぴしゃりと言いつけられて、口を噤んだ。

(主様って……)

 わけのわからん庄助は、こっそりと辺りを見渡した。

「主様、神凪でございます」

そこでまた、素間は堂々と無茶を言う。嘘を吐くにも限度がある。

 神凪と言えば、神宮の祭主すらも一目を置く伊勢の神職。荒御魂の巫女に対し、和魂のご寵愛を受ける巫だ。

 格式に拘る神職らが、下へも置かぬ神凪の御言葉は、大神様のご神託として帝に奏上される。将軍様にも下賜される詔は、この国における、絶対の御言葉として受け入れられる。

(こらっ、素間っ、図に乗りすぎだぞっ)素間の袖を引く庄助だが、

(神凪が、あたしのここでの通り名なんだよ、いいから黙っておいでっ)

ぴしゃりと、言い放つ素間には、返す言葉もない。

(罰当たらんと、ええけど)


 ざわざわと葉が騒いだ。白み始めた辺りを切り取ったかの如く、聳え立つご神木は、闇を纏う。生温い風が、庄助の頬を撫でた。小心者の庄助は、びくびくと、地にひれ伏した。

 ごう。地が震えた。

「よう参った」風が語る。

肝を潰した庄助の背を、大きな手が撫でた。

「喰ろうてええか」

息が詰まった庄助の、脳裏に浮かんだ姿は、いつぞやの牛鬼だ。

「御意に」

深くひれ伏した素間に息を呑み、


 さあぁぁぁっ――。


 庄助の背を流れたさざ波に、身を縮めた。


 うわあぁぁぁぁぁっ――。


 遠く響く声にぎゅっ、と瞼を閉じた。

「庄助」素間の声に顔を上げ、

「腹が減りました」

朝日を受けた素間の背に、注連縄が揺れている。

「聞こえなかったのかい? あたしは腹が減ってるんだっ」

 ばしっ、と脳天を突いた扇に、頭を抱えた庄助は、地に転がった天狗の面から、目を背けた。

 

    (十六)


 菰野の若君が、伊勢に到着したのは明け六つ。

誠二郎に請われ、共に出迎えた庄助の目の前で、幼き若君は、籠から飛び出して誠二郎にしがみついた。予想以上に、若君は誠二郎を慕っているらしい。


 五十鈴川に揃った童衆は総勢三十名。いずれも若君と同じ年頃の童らが、一斉に水垢離をする様に、供をしたご家来衆にも笑みが浮かんだ。十分すぎる銭を貰った童らの顔には、弾けるような笑みが浮かび、続いて、北ノ方様から賜った小袖に大はしゃぎ。

 お礼にと、童芸を披露した童らに、若君も楽しげな笑い声を上げ、童らの真似をして飛び跳ねる若君に、北ノ方様の眦から涙が零れた。

 名残惜しそうな若君を、何とか宥めて籠に乗せ、菰野領主家一行は、迎えに来た御師に付き添われて御師邸に向かった。

 間の山に戻った庄助を母が出迎え、

「神凪さんがお呼びだよ」

さっさと手を取って歩き出した。


(きっと。素間の騙りのお叱りを受けるんや)

ひやり、とはしたものの、騙りの罪は素間にある。

(ええやん。わてが証人になったる。ちぃとの間、牢にでも入れてもろたらええわ)と、ほくそ笑んだ。

 陽の当たる古市一帯は、微睡みの最中。ぴたりと閉じられた戸に、野犬がくんくんと鼻を寄せる。縁台で居眠りをこく男衆が、足音に重い瞼を開け、艶やかな衣装の二人連れに瞼を擦る。

「おはようさん」

母の言葉に笑みを浮かべ、再び舟を漕ぐ男衆はまだ、夢の中。急ぎ足の旅人がちら、と庄助らに目を向けて、すぐさま下を向いて通り過ぎた。


「ここだよ」

立ち止まった母は、足先を変えて格子戸に近づいていく。

「母ちゃん、塩撒かれるで」

庄助は慌てて母の袖を掴んだ。余興に呼ばれる間の山芸人は、裏木戸から出入りするが倣いだ。

 大きな屋根に磨き抜かれた格子戸。遊郭とは思えぬ気品を帯びた玄関は、間口も広い。

 伊勢参りの精進落とし――。

古市は全国に知られる大遊郭だが、中でも、一際その名を轟かせる備前屋は、亀の子踊りで有名な大店だ。

表からも見える回廊は大店の威厳を漂わせ、広い庭には、四季折々に花を付ける木々が植えられる。間の山の芸人庄助には、竜宮を感じさせる異世界だ。


「何言ってんだい、あたしらは本日、招かれた客だよ」

「わけないやろ。わてらはお客の要望で呼ばれるだけや。楼主も女将も、伊勢の住人やで。穢れを嫌うて当たり前。遊郭も商売なんや。神凪さんが備前屋でお待ちなら、しゃあないけど、備前屋の主は、癇癪持ちやと聞いたで。面倒は起こしたくない」

 荒御魂の巫女として、母は備前屋には顔が利くだろうが、それも御師らのとりなしがあっての話。穢人は穢人らしく、裏木戸から入るのが当然だろう。


「あ、菊花」手桶を手にした禿に母が声を掛け、すぐさま禿は深々と腰を折った。

「ようこそ。酒膳の準備は整うております」

「ほらごらん」と、足取り軽く階段を駆け上がる母を唖然として見つめ、「庄助さんも」愛想良く笑んだ菊花に、引き攣った笑みを返した庄助は、母の脱ぎ散らかした履き物を揃え、磨き抜かれた上がり框に足を乗せた。


      *


 慣れた足取りで回廊を渡る母の背を追って、辿り着いたは大広間。桜の間と呼ばれる大広間は、備前屋の売りだ。

 襖が取り払われた回廊からは、伊勢の町が見渡せる。お大尽の遊びには、回廊に遊女らが連なって亀の子踊りを披露し、夜が明けるまで、賑やかな歌声が続くと言う。

 松右衛門の話に知る大広間は、余興に呼ばれる間の山芸人には、庭から見上げる雲の上の話だ。

 さすがに陽の高い時刻とあって、深閑とした備前屋に遊女の姿はなく、梅雨明け前の本日は、陽が射しつつも身を焼くような暑さはない。むしろ潮を含んだ風が、開け放たれた座敷を抜け、心地よさすら感じる。


「よう、庄助」「お久しゅう」

回郎に、表を眺める金剛證寺の住職と三八。

「お疲れやったな、庄助」

碁盤から顔を上げた村長と権蔵。

「お美衣様、さすが備前屋、見事な鮑です。御師邸の品とは比べものにはなりません」

 寝そべっていたおねうが飛び起き、おこうが分厚い座布団に、母を据えた。

「庄助さんっ、えらいご活躍やって……。杉家も安泰ですわ」

手遊びを止めて、にこにこと笑うお杉らに、

「童らを取り戻したんは、姫様や」

応えた庄助は、おこんが投げた扇を受けとった。


「姫様は?」

庄助の問いに、「仕事です」おこんは応えて、ぷいっ、と背を向けた。

一番に会いたい(ひと)だが、やむを得ん。仕事に出ているのなら、無事なのだろう。

 回廊を駆け回り、滑ったり転んだりのお杉お玉は、大はしゃぎ。名だたる間の山の面々を集める、神凪さんの目的は、騙りの追求ばかりではないか。


(素間がおらんやん)

 罪人が不在では、証言も物足らん。怖い物知らずの素間もさすがに。神凪さん相手では、ぐうの音も出んだろう。素間の鼻がへし折られる様は、またとない見せ物だ。

「よう、小童」

屈託のない声に振り向けば、飛んできた母が、庄助を突き飛ばしてしなを作る。

「誠二郎様であられますか。息子がえらくお世話になりました」

 若君出迎えのため、糊の利いた小紋の裃に、月代を剃った誠二郎は、立派な仕官先を持つ武士。浪人姿でも、古市の女どもの目を引いた誠二郎は、身なりを整えれば青竹の如くの清々しさ。誠二郎自身が、菰野の若殿と言われても不思議ではないほどだ。


「息子? はて、何の話やら……。や、小童」

 尻餅をついた庄助の腕をとって、誠二郎はにっ、と笑った。誠二郎を慕う、若君の思いがわかるような笑顔だ。

「神凪様がお見えです」

回廊を渡った菊花が告げ、村長と住職が袖を払ってひれ伏した。一同がそれに倣い、庄助も村長の背後に控えた。

 誠二郎が身を返して回廊に膝をつき、

「皆、揃ったようでござる」

顔を上げて顎を引いた先、白装束の狐面がこくり、と頷いた。

 

   (十七)


「かくいう次第で間の山の庄助を、伊勢の若松として、認めることとする。異存がある者は申しでよ」


 良く透る誠二郎の声が語る内容に、ぶっ魂消げた庄助は、「御意に」応える村長と、「よろしかろう」付け添えた住職に、あんぐりと口を開けた。

「伊勢を支える間の山に、若松が育ったは目出度いことである。些少ながらこの先は、祝いの宴とする。我が名を以て本日は無礼講。逢魔ヶ刻まで貸し切りといたした。座敷はそこなる菊花が取り仕切る。酒も料理も菊花に申しつけよ」

下手の廊下に伏した菊花に、狐面が頷いた。

「ご配慮に感謝いたします」

袖を払ってひれ伏した村長の横で、「ありがたや」手を合わせた住職も頭を垂れる。一同が村長に倣って畳に額をつけ、一人残った庄助の頭を、おねうが畳に叩きつけた。

 

   *


 贅を尽くした山海の珍味に、お杉お玉らが歓声を上げる。先だって、魂消た御師邸の膳よりも格段上のご馳走には、目を剥くばかり。さすがは伊勢古市でも、格式を誇る備前屋だ、豪商のお内儀らも、立ち寄る理由も頷ける。


 揃った膳を前に村長が一同を見渡し、「皆の衆、本日は実に目出度い」と、声を張り、

「庄助っ」と、呼びかけた。

よくわからんが祝いの席と聞けば、ひと言挨拶は、せねばならん。

 だが、「ごっそさん」手を上げた村長がぱくり、と鮑を頬張り、「うんっ、美味いっ!」のひと言で、宴は始まった。

(わての祝いの席やないんかっ)

庄助はちょっと、面白くない。

「あんたにお礼や」隣に座した誠二郎は、背に負った風呂敷から、徳利を取り出した。

「ちょっとした宴やと聞いたが、何やえらい宴やなぁ。昼日中とはいえ、備前屋の桜の間を借り切るとは……」


 まだ仕事が残っているからと、酒を断った誠二郎に便乗して、庄助は、誠二郎特製の菰野汁を杯に注いだ。贅を尽くしたご馳走を、悪夢の彼方に追いやっては神凪さんに申し訳が立たん。

 若君ご愛飲の菰野汁は、誠二郎自慢の万能薬と言うが、素間汁の上をいく黒さにどうにも手が出ない。すいっ、と飲み干す誠二郎に安堵した庄助が、一気に黒い液体を口に流し込んで、

「神凪さんって何もんや」

誠二郎のひと言に、庄助はげほげほと、むせった。

「知り合いやないんかっ」

 畏れ多くも伊勢の最高峰、神凪さんから若松様の宣言を受けた祝いの席。重々しく、その詔を代弁した誠二郎は、神凪さんとは知り合いなはずだ。


「何で? おれは伊勢は初めてや。知り合いなんぞおらん」

 言われてみればごもっとも。ならばどうしてと、ぜーぜー喘ぎながら尋ねた庄助に、

「奉行所の前で呼び止められたんや。間の山の宴の余興に付き合わんかとね」

誠二郎は眉を寄せて、庄助の背をさすった。

 誠二郎が奉行所に出向いたのは、件の晩の翌日。若君出迎えのため、身なりを整えた誠二郎は、取り逃がした安五郎を、山賊一味として奉行所に届け出た。つまりは、たった数日前に、神凪さんと会ったばかり。知り合いとは言えん。


(ほんなら何で?)

 伊勢が初めての誠二郎に、狐面の神凪さんは異様に見えるはず。気易く宴の誘いになど乗るだろうか。

「面など着けとらんよ。知り合いやないが、顔は知っとる。あんたは間の山に義理があるだろうと、いうんで、断るも憚られたんや。祝いの席やと言うし。けど余興にしちゃあ、何だか……」

 大仰じゃないかなと、誠二郎は首を傾げ、「で、本日は何のお祝い?」と、菰野汁に口をつけた。わけがわからない。


「決まってるじゃあ、ありませんか。息子が若松様になったお祝いですよぉ」

 待ってましたとばかりに、口を挟んだ母は厚化粧。ちゃっかりと誠二郎の横に陣取り、しなを作って腕を取る。

「神凪さんは息子のために、然るべき立会人を立てて下すったんです」

 神凪さんの言葉は、大神様のご神託。巫が自ら口にするは、許されぬ。故に、神宮では神凪が書に記し、祭主がそれを読み上げる。格式を重んじる、神宮らしい決め事だ。

「けどねぇ。芸人の祝いごとに祭主様が出向くはずもなく。若松様ともなれば、立会人も必要です。あたしゃ神事には詳しいんですよ。何せ荒御魂の巫女ですからね」

 母は、自分の売り込みは忘れない。

「えっ」目を剥いた誠二郎に、

「あら、でもあたしは杉家の頭でもあるし。間の山のために、次期頭を生み育てる義務があるんですぉ」

母は誠二郎に、しなだれかかる。

(わてがおるやろっ)

美男を前にすると、母は庄助の存在を忘れ去る。


「そんな大事……」誠二郎の呟きに、

「大したことじゃありません。男と女が睦み合って、世の中が栄えるんですから」

母は誠二郎の手を取って、口説きにかかる。

「小童、若松様って偉いんか?」

誠二郎は母より庄助で、

「現にある神さんの子。朝熊の主様も大神様も認める、伊勢の宝ですよぉ。けどそんなことより……」

母は息子より、美男に興味がある。

「あかん。大神様の罰が当たる……」誠二郎が頭を抱え、「わては、そんな話、聞いとらんぞ」庄助は眉を寄せた。

「お前は本当に、なーんにも知らないんだねぇ」

笑いを含んだ声が、庄助の膳から鮑をつまみ上げた。

「素間っ!」

声を上げた庄助に一瞬、桜の間が静まりかえり、

ぱんっ。素間が振り開いた扇に、ざわめきが戻る。


「何やってんだ、てめぇこらっ。それは、わての鮑やぞっ」

「お前のもんは、あたしのもんだ」

素間の扇がびしっ、と庄助の腰を叩く。頽れた庄助を押しやって、素間は庄助の膳に手を伸ばした。

「菊花、飛騨の酒を持っておいで。うちの親爺様が、先だって届けたはずだ。お美衣さん、祝い酒ですよ、景気よくいきましょう」

目を輝かせた母は、苦悩する誠二郎から手を引いて、素間にしなだれかかった。


「昼間の桜の間を借りてやったんだ、気を利かせろと、孝造に言っておくれ。あたしゃ飛騨の酒が目当てで、備前屋にしたんだからね、別に油屋でも杉本屋でも良かったんだよ」

 素間の言葉に、菊花が飛んでいく。素間の腰に伸ばした庄助の手が、はしっ、と掴まれ、「おめでとう庄助」

肩越しに振り向いた素間が、にこっ、と笑った。

「て……てめえ。偉そうな顔してられるのも、今のうちだぞ。牢に入れば御影姐さんとこの男衆が、黙ってないはずや。今までどこで何をしとったと、袋叩きに遭うぞぉ」

 恨めしげに見上げた素間から、笑顔が消える。してやったりと、笑んだ庄助の脳天を、扇が突いた。


「庄助。若松様は、伊勢の先を担う神さんの子だ。過ぎたことに拘ってちゃあ、駄目だよ」

 素間はくぃ、と杯を空ける。

「御影は秋に祝言を挙げるよ。あたしと神凪さんが立ち会う話になってるんだ。伊勢の裏を仕切る御影は、なくてはならない存在なんだよ、表だけでお伊勢参りは成り立たない」

 母は艶っぽく笑って、素間から杯を受け取った。

「素間っ、御影姐さんと夫婦になるんかっ!」

叫んだ庄助の口に、母が箸を突っ込んだ。鼻に広がるつんっに、庄助は頭を抱える。

「馬鹿だね。若旦那があんな醜女と夫婦になるもんか。御影に良縁を世話したんだよ。新郎は渡会町の大吉さ」

 大吉は大口大夫の六男で、四十を越えて今も独り者。頑固で無口な男だが、手先が器用で、伊勢の土産物屋から引っ張りだこの職人だ。

「蓼食う虫も好き好き。大吉は御影にぞっこんだったのさ」

 無口な職人と、伊勢の裏を仕切る御影姐さん。庄助には、とても信じられない組み合わせだ。

 庄助の悪戯をどう利用したか、素間は上手く縁を繋いで、御影姐さんは嫁に行く。目出度い話だ。だが――。


「てめぇの騙りは許されんぞっ。何せ、朝熊岳の主様の前で、畏れ多くも、神凪さんの名を騙ったんやからなっ!」

 情けなくも母の腕に縋って、身を乗り出した庄助に、

「あ、神凪さん。おれ大神様の罰当たらんやろか」

顔を上げた誠二郎は、とんでもない言を吐く。

「むしろ。若松様を助けたあなたには、恩恵がありましょう。菰野の若君は、立派に成長なされます」

素間はおっとりと笑んで返した。

「そうそう。朝熊岳の金剛證寺にも、忘れず参ってくだされ。虚空蔵菩薩様も、恩恵を与えられよう」

 一回り小さくなった、付髷を乗せた住職が、素間の肩越しににかっ、と笑った。

 

    (十八)


「さてお立ち会い」


 たすき掛けのおこうが、竹取の金太郎よろしく薙刀を振り下ろし、

「本日の主役、若松様の誕生でござぁい」

 おねうがぽいっ、と放った藁人形を、斑猫が飛び上がって咥え、桜の間は拍手喝采。

ヤテカンセと鳴く、艶やかな鳥を梟が追う下で、付髪二人は赤ら顔。坊主小坊主酒飲んでええか。薄日の射す備前屋の桜の間は、宴たけなわ。

「だぁれも知ってる話さ」

しどけなく裾を乱した母が、誠二郎に流し目を送りつつ、「ね?」素間の腕に、手を掛ける。

神凪の素顔は、誰も知らんと、どの口が言ったか。

「無粋な子だねぇ。巫ってぇもんは、謎めいてるほうが有り難いんだ」

 神凪さんが謎の人物とは、建て前らしい。

「町のもんには知られちゃいない。けど、間の山じゃあ、知られた話さ」

 素間が我が物顔で、拝田村に居座る理由はそこか。大神様のお抱え芸人が、大神様の巫を歓迎するのは当然だ。

「何で、わてだけ知らんのやっ」

一人だけ蚊帳の外とは、面白くない。

「別に隠したわけじゃあない。拝田で神凪の名は、必要ないからね、野間家の放蕩息子で十分だ」

「野間? 神凪さんは、かの有名な野間万金丹の子息なんかっ」

立ち直った誠二郎が、どす黒い菰野汁片手に目を剥いて、

「そうだよ。だからあんたのその、菰野汁の薬効はよくわかる。惜しいねぇ、あとちょっと手を加えれば、完璧なんだが」

誠二郎は、素間の言葉に飛びついた。

「なんだっ、教えてくれ」

「今回、祝いの席に招いたのは、あんたへの礼だ。随分と、あたしの庄助を助けてくれたからね。本来、伊勢の大事に、余所者は招かん仕来りとなってる。加えて、ハレの大役まで与えてやったんだ、十分に義理は果たしたと思うね」

素間はすいっ、とそっぽを向く。

「頼む、教えてくれ」

手を合わせる誠二郎に、素間が目を細めた。

「あんたの菰野汁に手を加えた薬汁、一升につき金一両」

 こくり、と頷いた誠二郎に、商談は成立。

「ほんと。お前は有り難い若松様だよ」

庄助に目配せした素間は、立ち上がった。


「さて皆の衆。目出度い席に今一つ。目出度い御披露目がある。菊花」

 あい、と答えた菊花が、回廊を渡ってしばし。三味線を手にしたほっかむりの男と、薄紅色の小袖の女を伴って現れた。お杉お玉が「あっ」と声を上げる。

「お美代ちゃん」


 ♬花は散りても春咲きて……


 拙い三味線の音に、女の声はよく通る。古市の遊女らも唄い踊る間の山節だが、本家本元はお杉お玉だ。

 三味線は頂けんが、お美代の喉は艶っぽい。ひょいと落とした腰の線は丸く、「お花……」不意に口を突いた言葉に、庄助は愕然とした。

「お花伝説は、神隠しの隠れ蓑さ」

呟いた素間に、庄助は食らいついた。

「お前が、お美代を隠したんかっ」

「人聞きの悪いこと言うんじゃないよっ。あたしゃ、天下の神凪様だっ」

 素間の扇が、容赦なく庄助の額を叩く。

「自慢しとるやないかっ」

涙目の庄助に素間がぱっ、と扇を開いた。

 無礼講――。


大きく書かれた文字に、庄助はがっくりと項垂れる。

「神隠しのお美代は、目出度く戻った。土産に持ち帰った土人形は、神よりの賜り物として受け入れよ。良いな、長よ」

 すかさず狐面を付けた神凪さんに、

「しゃべってるんやん」呟いた庄助の顔面を蹴った、真っ白な足袋の裏にも無礼講。

「御意に。お美代、よう戻った。神様からの賜り物、大事にして芸に励め」

「有り難うございます」

美代の横で頭を下げる男に、庄助は眉を寄せる。 

「弥一郎さ」母がほぅ、と息を吐いた。

「土人形は呪言だ。生まれ変わりを意味する。村長が認めれば、男は間の山の一員だ。二度と人には、戻れない」

 間の山芸人は、身分を持たぬ人でなし。夫婦となるには、人の身分を捨てねばならん。

「釜屋大夫の跡を継げば、富も名声も手に入ったんだ。けど、弥一郎はお美代を選んだ。お美代にとっちゃあ正真正銘、神さんからの賜りもんだ」

 弥一郎は神隠しに遭った――。

 伊勢ならではの言い訳は、弥一郎には幸運をもたらしたようだ。

「ま、余所もんの弥一郎には、しがらみもないからね。世間から消えることもできるのさ」

 くいっ、と杯を空けた母に、庄助の胸が痛んだ。


 幸四郎の禁忌の恋を危ぶんで、大杉の隠居は、我が子の神隠しを実行した。

 母はしがらみのない弥一郎を羨んでいるか。もしも、幸四郎が余所者だったら――。


「母ちゃんにはわてがおる」母の手を取った庄助に、

「ようやくその気になったかい」目を輝かせた母には、胸の痛みをかなぐり捨てた。

「違うわっ。幸四郎なんか忘れぇ言う話や」思い切った庄助の言葉に、母がぽかんと口を開けた。「誰だいそれ?」

「幸福大夫んとこの四男や、わての……」父ちゃんやないんかと、庄助が畳み込む前に、

「あぁ、あれか」母はぱんっ、と膝を叩いた。

「ありゃあ、大外れだった」


 春木大夫がかぐや姫と称した母が、探し物を餌に、男釣りを楽しむ最中、いい加減だが色男の幸四郎の言葉に乗って、宝探しに出た朝熊岳で迷子となった。

「後で聞けばあの馬鹿。あたしをほっぽいて、古市にしけ込んでたって言うじゃないか。ありゃあ、根っからのろくでなしだよ」

鼻を鳴らして、膳に手を伸ばす母に、返す言葉はない。

 魂消たことに、迷子の母を朝熊岳から連れ出したのは、当時まだ、幼子だった素間で、以来、母は素間にぞっこんらしい。世に稀な美童は、幼くして女たらしだったわけだ。

「わての親爺とちゃうん?」「まさか」

 はなくそは、遙か彼方に消え去った。

 さっさと庄助に背を向けた母は、女衆に囲まれる素間にしなだれかかり、ふて腐れた庄助は、菰野汁を啜って渋面を作る。


 いったい本日は誰のお祝いかと、口を尖らせ、誠二郎に目を向ければ、毛のある坊主小坊主相手に上機嫌。大事を終えた誠二郎にも、息抜きは必要だ。

 主役をそっちのけで、てんでに楽しそうな面々に、ちょっと面白くはないものの、(もうええわ)と、庄助は菰野汁を一気に呷り、

「庄助さん、お目出度うございます」天女の声に、庄助の機嫌は急上昇。

「姫様っ」庄助は勢いよく、振り向いた。が。

「美味しゅうございます。鮑は煮付けが一番ですね」

愛しき姫もまた、ひとりさっさと、飯を食う。

「あの、姫様……」

差しつ差されつここは一つ。祝いの席で一気に距離を縮めようと、庄助は身を乗り出した。


「さて、一生に一度はお伊勢参りと世に謳われる、伊勢の名物祓い衆」

凜と響いた素間の声に「あら」と、美月の箸が止まる。

「本日の主役が神事を以て、皆様にご挨拶――」

 舌打ちをした庄助に、「お呼びですわ」と、美月が庄助の背を押した。

(今さら挨拶もないやろ)と、不機嫌に逆戻りの庄助に、お杉お玉が注連縄を持ってぐるりを囲む。付髷住職が、赤ら顔で袈裟をはしょった。三八が、盛大に塩を撒く。

「若松様の奉納相撲だ。景気よくやっとくれ」

素間が庄助の衣をはしょって、尻を叩いた。

 やれやれと、腿に手を置いた庄助に、「待った」の声がかかる。


「あたしがお相手させて頂きます」


美月が住職を押しのけて、土俵に上がった。

「こら面白い」

村長のひと言に、美月が白い腿もあらわに四股を踏む。くらっ、ときた庄助に、美月が飛びついた。


「何やってんだ、庄助っ! 美月に若松様を取られちまうよっ」


 素間の罵声を聞く耳は持たん。愛しい人が、腕の中にいる。思わず手が美月の背に伸びて、庄助の帯がぐい、と持ち上がった。

 ここで負けては生涯尻に敷かれると、勝手に想像を膨らませ、庄助もまた、美月の帯を掴んだ。軽く振り払うつもりが、意外にも美月は踏ん張りが強い。互いに帯を取って引き合ううち、はらり、と庄助の帯が解けた。「あっ」前のめりとなった美月に、庄助の掴んだ美月の帯も緩む。互いに手掛かりを失って、庄助は美月に組み付かれたまま倒れた。


「そこまで。帯がとれちまった。引き分けだ」

素間の言葉に、美月が身を起こした。

「ちぇっ、勝てると思ったんだけどなぁ」

はだけた衣を、ばさりと、やった美月に、庄助の息が止まった。


「若衆相撲は盛り上がりますなぁ。引き分けでよろしゅうございました」


 茫然自失の庄助を、おこうがずるずると引きずり、お杉お玉の亀の子踊りが回廊を回る。

 賑やかな宴の中、庄助の頭の中では、

(姫様が男……)

信じられん事実が、ぐるぐると回った。


一件落着で、大団円と、思いきや。お話は最後の秘密に迫ります。

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