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青の名前  作者: あお
8/20

かっこ悪くなんかないから

 夏休みも、残すところあと十一日となった。伊都の学校の夏休みの短さだけは、流石である。

「やばい、全然終わんねぇ……」

 伊都は、やはり課題に追われていた。全く、夏休みの課題とは、どうしてこうも多いものなのか。約三週間しかないのに、この量は異常だ。などと、文句を言っている場合ではないので、伊都は一生懸命問題を解いていた。

 今は、朝の九時。珍しくフーカはまだ寝ている。彼女が起きてくれば、またきっとどこかへ連れていかれる。なんとか、その前に終わらせなければ。しかし、朝から頭が冴えている訳でもないため、全く進まない。

「あーだめだ、ギブアップ」

 伊都は、床に寝転がった。このままではダメだ。仕方がない。伊都は最終手段をとることにした。近くにあった携帯をとって、メッセージアプリを開く。

 そして、誠にメッセージを送った。

『課題が終わらない。助けてくれ。頼む』

 実は、伊都が誠に助けを求めるのはこれが初めてではない。テスト前などは、決まって学校帰りに誠の家で、彼に助けてもらいながら、勉強をしていた。

 しかし、夏休みの課題だけは自力で終わらせようと粘っていたのだが、もう限界であった。

『そんなことかと思っていたよ。家に来る?』

 待ちわびた返事が来た。しかも、家へのお誘いである。

『マジ!? 行く!』

『じゃあ、待ってるねー』

 彼はどこまで優しいのだろう。いやもう優しいとかの問題ではない。自分のことを見捨てない誠は、もはや神の領域である。

 伊都は、彼のありがたみを感じながら、出かける準備をした。ふと、寝ているフーカが目に入る。そうだ、彼女をどうしようか……。

 先日、伊都はフーカに内緒でデパートに服を買いに行った。もしフーカを連れていこうものなら、三時間くらい帰らせてくれないと思ったからだ。

 男子高校生が、一人で女物の服を見ていたため、若干周りからの視線が痛かったが、なんとか買うことが出来た。

 すぐに家に帰り、部屋に入ると、フーカが抱きついてきた。わけも分からず、抱きつかれたままいること、約十分。ようやく離れたと思ったら、またいつものフーカに戻ったのだ。

 いつも上から目線で、時々大人の様になるフーカだが、あの時ばかりはとても弱々しかった。普段の彼女からは想像出来ないくらいに。いったい、彼女に何があったのか。伊都には分からなかった。普段と違ったことといえば、彼女はあの時一人だったということだが……。

「あっ……」

 伊都は、ハッとした。考えてみれば、最初の終業式があった日以降はいつも一緒であった。伊都が行く場所には必ず着いてきて、彼女が行く場所には、伊都は必ず着いていった。

 もしかすると、彼女は一人が嫌なのかもしれない。多分、一人でいるのか好きとか嫌いとか、一人は寂しいとかそんなレベルの問題ではない。

 彼女にとって、「一人」というのは恐怖に値する。伊都は、そうとしか考えられなかった。でなければ、あんな風に抱きついてきたりしないと思ったからだ。そうだとすれば、このままフーカを放って行くのは、得策ではない。

「……起こすか」

 伊都は、フーカの体を揺すった。

「おーい、起きろー」

 何回かそう呼びかけた後、フーカは眠そうに目をこすった。

「なによー……」

「なにって、起こしてんだよ。もう九時だぞ」

「九時なんて、まだ、朝……。もうちょっと……寝させて……」

「いいから、起きろって」

 伊都は、布団を剥ぎ取った。その途端、フーカははね起きた。

「ちょっと、何するのよ!」

「お前が起きないからだろ」

「だからって、レディーの布団を剥ぎ取るの!?」

「レディー……」

 おませな女の子が使いそうな言葉である。まさか、フーカの口から「レディー」なんてワードが出てくるとは。

「で、なんで起こしたのよ」

「出かけるから」

「は?」

「着いてくるんだろ? だから、起こしたんだよ」

「なんで私が着いていく前提なのよ。嫌よ、面倒くさい」

 拍子抜けしてしまった。一人が嫌なのではなかったのか。

「あっそ。じゃあ、俺一人で行ってくるから、留守番頼んだぞ」

 伊都は、勉強道具を入れたカバンを持ち、部屋を出ようとする。

「ちょっと待って。留守番ってどういうこと」

「いやだから、今日は家に誰もいなくなるからさ」

「嫌だ」

「は?」

「一人は嫌だ」

 フーカは、今にも泣きそうな表情になる。やはり、伊都の予想は正しかった。

「じゃあ、行くんだな?」

「……着替えてくる」

 フーカは、部屋を出ていった。

「……あいつ、あんな顔するんだ」

 彼女のあんな表情は初めて見た。不安げで、泣き出しそうな、あの顔。怯えた小動物のように、肩をすくめて、小さくなっていた。

 上から目線。威圧的な態度。大人の微笑み。気弱な発言。様々な色を見せてきたフーカだが、いったい、どれが本来の彼女なのだろうか。

「お待たせ」

 フーカが着替えを終えて、戻ってきた。

「お前、それ……」

「せっかくくれたんだもの。着なきゃもったいないでしょ」

 彼女は、青色のワンピースに身を包んでいた。間違いない。伊都が買ってきたものだ。おまけに、髪を二つに結んでいる。伊都は思わず、フーカを凝視した。

「……何見てるのよ」

「いや、その……似合ってるなって」

 そう。フーカの華奢な体とワンピースは見事にマッチしていたのだ。あのぶかぶかのパーカーを着ていた時とは、もはや別人である。

「……!」

 フーカは少し、頬を赤らめた。恥ずかしそうに下を向いた。

「ほ、ほら、行くわよ!」

 伊都は、フーカに手を引っ張られながら部屋を出た。



「ねぇ、イト」

「なんだよ」

「まだ着かないの?」

「もうちょっとだ」

「さっきから何回もこの公園に来てると思うんだけど」

「気のせいだ」

「…………いい加減、現実逃避はやめなさい。迷ったんでしょ?」

「………ああもう! そうだよ、くそっ!」

 迷い始めてから三十分。ようやく伊都は、迷ったことを認めた。

「もう本当、信じられない。あなたどこまで方向音痴なのよ。行くの初めてじゃないんでしょ?」

 フーカは呆れ声で、伊都に追い討ちをかける。

「うるせーな、覚えられねぇんだよ!」

 伊都は逆切れをしながら、携帯電話を取り出し、『迷った。今、公園。迎えにきてくれ』とメッセージを打った。数秒後、すぐに『行くから待ってて』と誠からメッセージが届き、ようやくホッとする。

「誠、ここに来てくれるみたいだ」

「いいお友達で良かったわね」

「本当だな」

「私が彼だったら、速攻見捨てているわ」

「だろうな」

 二人は、近くにあったベンチに座った。今日も真夏日。太陽がギラギラと輝いている。

「そういやさ、ここってお前が、あの白衣の奴らに連れ戻されそうになってた所じゃねぇか?」

「……そうね」

「あれから何回も出かけてんのに、一回も遭遇しねぇな」

「……諦めたんじゃない?」

「そんなに簡単諦めるもんなのか?」

「さあ? そもそも目的だってなんだか分からなかったもの」

「……そっか」

 そういえば、彼女は、いつまで伊都の家にいるつもりなのだろうか。ここまで来ると、そのまま家族の一員となりそうな勢いである。

 フーカは、それでいいのだろうか。元の家族の所へ戻った方が、彼女のためなのではないのだろうか。

 次から次へと疑問が生まれ、ひとつずつ聞いていこうと思ったが、口に出す直前で、彼は思いとどまった。

 このまま何も知らない方が、良いのではないだろうか。下手に何か知ってしまったら、良くないことが起こるのではないか。いずれ嫌にでも真実を知る日は来るような気がする。だったら、今無理に聞き出さなくてもいいじゃないか。

 伊都は、そう自分に言い聞かせ、聞き出すのをやめた。

「そう言えば、今日はパーカー着てないのな」

「だって、今日の服にパーカーは合わないでしょ」

「まあそうだけど」

「それに、いつまでも、パーカーに固執する必要はないと思って」

 フーカはなにか吹っ切れたような表情を浮かべながら言った。

「……そっか」

 フーカが今何を考えているのか、なんのことを言っているのか、伊都には分からなかったが、きっと彼女の中でなにか解決したのだろう。

「……ねぇ、イト」

「なんだよ」

「どうしてあの時、私を助けてくれたの?」

「どうしたんだよいきなり」

「何となく、気になって。あなたには私を助けることで、メリットがあるわけじゃなかったのに、どうして、赤の他人の私を助けてくれたのかなって」

「いや、どうしてって……お前が助けてって言ってたから、助けたんだよ」

「……え?」

「てか、他にどんな理由があるんだよ。人が助けてって言ってたら、助けるもんだろ?」

 困っている人がいたら、助ける。誰に教わるでもなく、伊都は常にそうしてきたのだ。

「……あなたって、いい人ね」

「そうか?」

「うん、とってもいい人」

 伊都は、何だか照れくさかった。「いい人」だなんて、面と向かって言われたのは初めてだったからだ。

「私、イトに助けてもらえてよかった」

 フーカはベンチから立ち上がった。そして、伊都の方に体を向け、

「ありがとう、イト。私を助けてくれて」

 予想外の言葉に、伊都はぽかんとしてしまった。

「ど、どうしたんだよ、突然」

「本当は、もっと早く……ううん、一番最初に言うべきだった。あなたのこと、誘拐犯呼ばわりして、ごめんなさい」

 伏し目がちにフーカは言う。伊都は、彼女の突然の謝罪と感謝に頭が混乱していた。こんなことをフーカに言われたのは初めてである。どうしたというのだ。いつもの彼女ではない。

「いや、あの……もう気にしてねぇから、その、大丈夫だ、うん」

 変にドギマギしてしまって、タジタジになりながらも、返事をする。それを聞いて、フーカは安堵の表情を見せた。

 何故だ。今日はなぜ彼女を見るだけでこんなに鼓動が早くなるのだろう。

 彼女がいつもと違う服装だからだろうか? いつもと違うことを言ったからだろうか?

 それとも。

 彼女が、いつも以上に美しいからだろうか。

 最初に会った時よりかは、僅かに肉付きが良くなったものの、全体からすれば体つきは相変わらず細い。

 腕や足などの肌の雪のような白さはそのままだが、以前に比べ血色が良くなり、心做しか透明度が増した。そして吸い込まれそうな大きな瞳と、美しいほほ笑み。

 今の彼女は、伊都の知っている彼女ではない。きっと、これが「大人のフーカ」なのだろう。



「伊都ー! ごめん、遅くなって! 」

 公園の入口に誠がいた。伊都は立ち上がって、そばによる。

「誠〜。ありがとな、迎えきてくれて。助かった」

「全然平気だよ。慣れてるから」

「慣れ……ははは」

「……えーと、そちらの方は?」

 誠は、伊都の後ろにいるフーカを見て尋ねた。

「あれ? お前この前会ったよな? フーカだよ」

「……ああ! フーカちゃんか! この前と随分雰囲気が違うから気が付かなかった」

 その言葉を聞いて、フーカは無邪気に笑ってみせる。

「今日はオシャレしてみたの〜」

「そうなんだー。似合ってるよ」

「えへへ」

 得意(?)のロリ声で、誠を思い切り騙している。今日一日、その声で行くのだろうか……。まあ本性など見せようものなら、「この間とキャラも違うね」と言われそうではあるが。それでも、キャラを作るというのは体力を使うものであろう。果たして、今日一日持つのだろうか。伊都は、少し心配になった。

「それじゃあ、行こうか」

「お、おう!」

「わ〜い」

 誠に連れられて、伊都とフーカは家に向かった。



「いやー助かったわ。ありがとな、誠!」

 誠の力で、課題はほとんど終わった。

「ううん、気にしないで」

 誠は塾に通っているだけあって、やはりどの教科も抜かりがない。おまけに、教えるのもとても上手だ。

「お前、教師になれるんじゃねぇか?」

「いやいや、とんでもない! 僕には無理だよ」

「えー、勿体ねぇな。俺、誠の授業だったら絶対寝ない自信あるわ」

「いやほら、僕には研究者っていう夢があるから」

 誠はサラッと将来の夢を言う。

「そう言えば、そんなこと言ってたな」

「うん。前からずっと憧れてるんだ。伊都のお兄さんは研究者なんだよね? しかもあの「不老者研究グループ」! すごいなー」

「そうなのか?」

 誠だけではなく、近所の人たちからよく言われるのだが、伊都は未だにピンと来ない。どうやら「不老者研究グループ」はエリートが集まるところらしい。

「すごいよ。いいなー、一度でいいから会ってみたい」

 誠は目を輝かせた。

「そんな、芸能人じゃないんだから、いつでも会えるって」

「本当に!?」

「まあ、どこにいるか知らないけど、携帯では繋がってるから。今日、連絡入れてみるわ」

「ありがとうー!」

 とても嬉しそうである。伊都の記憶では、誠の喜びようは、テストで良い点を取った時よりも遥かに上だった。

「あ、ねぇ伊都」

「なんだ?」

「研究者の話で思い出したんだけど、実はね」

 誠は、一旦立ち上がって、離れたところにある勉強机から、一枚のチラシを取り出した。そして、それを伊都に見せる。

「これ、知ってる? 駅前で配ってたんだけど」

 チラシには「研究者講演会」と書かれている。見たこともないチラシだったので、伊都は首を振った。

「僕さ、これに行こうと思ってて。あの、良かったら、伊都も一緒に行かない?」

「え、俺?」

「うん。ちょっと、ひとりじゃ不安で……」

 誠は不安げな表情で、伊都を見る。正直、伊都はあまり研究者には興味はない。だが、誠にはいつも世話にはなっているし、何しろ今日の勉強会がなければ、伊都の課題は終わっていなかった。

 少し考え、伊都は首を縦に振った。

「おう、いいぜ。俺とでいいなら」

「本当? ありがとう! じゃあ、これあげるよ」

 誠は伊都にチラシを渡した。チラシには、場所と日時、そしてその他の詳細が書かれていた。

「えー、場所は公民館で、時間は十四時で、日付は……え、明日!?」

「明日だよ」

「早くね!? こ、心の準備が……」

「そんな、身構えなくても大丈夫だよ」

 誠は笑いながら言う。お前は不安なんじゃなかったのかよ。と伊都は軽く心でツッコミを入れる。

「じゃあ、十三時半に公園で待ち合わせね!」

「おう」

 伊都は立ち上がって、伸びをする。

「じゃあ、俺そろそろ帰るわ。今日はありがとな」

「いやいや、とんでもない」

「ほら、帰るぞ」

 伊都は読書をしていたフーカを揺すった。

「えー、まだ途中なのに」

「だめだ、帰るぞ」

「もうちょっとだけ」

「お前が読み終わるの待ってたら明日になるわ」

 フーカはむくれながら、とんでもなく遅いスピードで、立ち上がる。それを見かねたのか、

「良かったら、持っていきなよ」

 と誠は言った。その瞬間、ぱっとフーカの顔が明るくなる。

「いいの!?」

「うん。どうせ、いっぱいあるし、いいよ」

「ありがとう!」

 超絶可愛い笑顔でフーカはお礼を言う。伊都は、なんだか悔しかった。

「じゃあ、帰るぞ」

「うん!」

「またおいでよ」

「おう、ありがとな」

 伊都はフーカを連れて、誠の家を出た。




「疲れた」

「お前、本当スイッチ切れると声低くなるな。っていうか、テンションも低くねーか」

「当たり前でしょ。疲れるのよね、あのキャラ。だから、なるべく喋らないようにしてたんだけど、最後でやられたわ」

「あの、少しの会話でか!?」

「ええ」

「…………」

 恐ろしい威力である。伊都は少し寒気がした。

「そう言えば、さっき研究者がどうとかって言ってたけど」

「ああ」

「たしか前にも言ってたわよね、お兄さんが研究者だって」

「言ったか?」

「ほら、女の先生が来た時に」

 フーカは、伊都と彼女が揉めていた際、舞子が部屋に来た時のことを言っていた。

「お前、よく覚えてるな」

「ずっと気になっていたから」

「そんな気になるほどのことか?」

「気になるわよ」

「どの辺が?」

「なんで、研究者になろうと思ったんだろうって」

「……さあな。俺は今、兄貴がどこにいるのかも知らないし」

 伊都のその言葉に、フーカは足を止めた。

「それ……前も言ってたわよね。なんで?」

「なんでって、俺は別に兄貴が何してようが興味ないし」

「どうしてそんなこと言うのよ。家族なのに」

「あんな奴、家族なんかじゃねぇよ」

「なんてこと言うのよ! あなたのお兄さんなんでしょ? その言い方はないわ!」

 フーカは珍しく声を荒らげた。どうやら怒りのスイッチが入ってしまったようだ。それにつられたように伊都の怒りも爆発した。

「お前はなんも知らねぇからそういうこと言えるんだよ! 」

「なっ……私だって……!」

 再び反論しようとしたフーカだったが、何故かぐっと言葉を飲み込んで、黙ってしまった。口論が成立しなくなったので、必然的に伊都も黙ることとなった。

 爽風がさらさらと二人の髪を揺らす。昼間は暑い夏も、日が沈むにつれ、涼しくなる。もうすぐ夜だ。

 セミの鳴き声は今日も変わらず聞こえる。地上に出てから約一週間の命。今日も一生懸命鳴いている。

「……兄貴はさ、俺が中一の時に、出ていったんだよ。研究者になりたいって。母さんが止めるのも聞かずに、出ていった。なんでなりたいなんて思ったのか、聞いたって答えてくれなかった。『お前には関係ない』ってさ」

 実際そうであった。伊都がそのようなことを聞こうとすれば、「伊都には関係ない」「知らなくていい」と言われてしまう始末であった。

「俺だって、止めたんだよ。家族を捨てるのかよ、そんなのやめてくれって。そしたら兄貴、『家族なんてどうでもいい』って言ったんだ」

 この一言は、伊都にとって衝撃的だった。五年間、ずっと忘れない言葉であった。

「本当、兄貴は、無口で、堅くて、真面目で、俺とは正反対で……合わないんだよなー、本当に。前はこんなんじゃなかったんだけどなー……」

「……なにが、あったの?」

「あー……父さんがね、死んじゃったんだ。とある事件の捜査中に、事故で。あ、警察官だったから殉職したって言うのか。まあいいや、同じ意味だし……。ま、そこから変わっちまったんだよ、兄貴は。俺は全然変わらなかったけど」

「………」

「あの頃の兄貴は、無邪気だったなー。まあ今の俺みたいな? 信じられないと思うけど」

 ふと、今まで封じていた記憶が溢れ出す。亡き父の笑顔。兄の笑顔。家族団欒。旅行。数々の思い出が、脳裏に蘇ってくる。

「本当、楽しかったなー……」

 今の方が楽しい。今の生活で満足している。そう思い込むことで、封じていた過去。だが、もう悟ってしまったのだ。「あの頃が楽しかった」と。「あの頃に戻りたい」と。

「ま、もう戻れないんだけどな!」

 涙がこぼれそうだった。でも伊都は笑った。必死で笑った。できればこのまま笑い話にしたかった。

 しかし、フーカは笑わない。大きな瞳でじっと伊都の事を見つめている。

「なんで笑うの?」

「え……?」

「つらかったら、泣けばいいじゃない。無理に笑う必要なんてないわ」

「お、俺は別に……」

「そうやって、無理に笑ってたら、きっといつか笑えなくなる。私は、イトにそうなって欲しくない」

 フーカは必死に訴えた。

「だから、我慢なんてしないで。お願い」

 フーカの懇願する目は、伊都の涙腺を更に刺激した。

「で、でも、こんな所で」

「もう日が陰ってるんだから、誰も来ないわよ」

「で、でも、俺、男だし……泣いたらかっこ悪……」

「ああ、もう! 男も女も関係あるか! 泣きたければ泣けばいいでしょ! 」

 フーカは顔を真っ赤にして叫ぶ。これには伊都も萎縮してしまった。

「……大体、自分の気持ちに正直になることの、なにがかっこ悪いのよ。バカじゃないの?」

と、呆れたようにそっぽを向く。その姿に伊都はなんだか可笑しくなってしまって、思わず吹き出した。

「ちょっと、なんで笑うのよ。涙はどこいったの?」

「お前のせいでどっかいった」

「はあ? なんなのよ、もう」

 口とは裏腹に、フーカは安堵の表情を浮かべた。

「フーカ。その……さっきはごめんな。怒鳴ったりして……」

「私こそ、ごめんなさい。つい熱くなりすぎたわ」

 お互い謝罪をし合って、顔を見合わせ、笑った。


 しばらくして、二人はまた歩き出した。

「まあ、兄貴云々はそういうことだよ。はぐらかされたんだ」

「言いたくない理由でもあったのかしらね」

「さあな。ま、俺たちには関係ないみたいだからさ」

「……『家族なんてどうでもいい』、ね。なんだか、私には本心じゃないように聞こえる」

「え?」

「きっと、咄嗟に出てしまっただけよ。喧嘩してるときって、思いもよらない言葉を言ってしまったりするから。本当は、『家族のために』研究者になったんだと思うわ」

「いやそんな、極度のツンデレみたいな」

「まあ、分からないけど」

 フーカはツッコミをすることもなく、バッサリと切り捨てる。だが、彼女の言っていることは、的を得ている気がする。もし、そうだったのだとしたら……。伊都はなんだか急に、兄に申し訳なくなってきた。

「あ」

 フーカが、街灯に照らされている掲示板の前で立ち止まる。

「花火大会だって」

「花火大会?」

 掲示板に、地区の花火大会のお知らせが無造作に貼られていた。

「いいわね、行きたい」

「えー、面倒だな」

「なんでよ、このごろ出かけてないんだから、いいでしょ」

「いや、最後の十日間くらいゆっくりさせてくれよ……」

「えーと、日にちは……」

「人の話を聞け」

「あら、夏休み最終日じゃない? この日って」

「え?」

 伊都はもう一度、ポスターを見る。確かに、最終日だ。

「本当だ」

「行きましょう」

「俺、次の日学校なんだけど……」

「構わないわ」

「いやお前はいいだろうけど、俺は?」

「何とかなるわ。とにかく私は行きたいの」

「なんでそこまで行きたがるんだよ……」

「なんでもいいでしょ! 行きたいの!」

 伊都は、フーカがこれまでの中で、一番行きたがっている気がした。そこまで行きたい理由を、どうしても知りたくなった。

「理由教えてくんなきゃ、行かねーぞ」

「は!? なんでよ!」

「知りたい」

「嫌よ、なんで言わなきゃいけないの!」

「じゃあ、行かねぇぞ」

「……うう」

 フーカは、恥ずかしそうに下を向きながら、

「花火……誰かと一緒になんて見たことないから……。だから、イトと見たいの……ダメ?」

と言った。その姿のなんと可愛らしいことだろう。伊都は開いた口が塞がらなかった。

「もう! こんなこと言わせないでよ、恥ずかしい!」

 フーカの顔は真っ赤である。

「絶対行こう」

「……本当に?」

「なんで疑うんだよ」

「だって、さっきとあまりにも態度が」

「お前の一言で変わったんだよ」

「気持ち悪」

「おい」

「でも良かった。約束だからね」

 フーカは小指を差し出した。伊都は、その指に自分の小指を絡める。

「おう、約束だ」

 夏の夜、街頭が照らす掲示板の前で、二人は約束を交わした。

「必ず、花火大会に行こう」と。



 その夜。フーカが寝静まった頃、伊都は携帯を開き、兄に向けてのメッセージを送ろうとしていた。

『久しぶり。俺の友達が兄貴に会いたいって言ってるんだけど、会ってくれないか?』

 文章は数秒で打ったものの、なかなか送信のボタンを押すことが出来ないでいた。緊張する。長年会っていないと、たとえ家族であってもこういうことになるのだ。

「……いいや、押しちまえ」

 伊都はメッセージを送ると、ベッドに潜り込んだ。好きな相手に送った訳でもないのに、ドキドキが止まらない。さすがにいきなり過ぎただろうか。突然、知りもしない人に会ってほしいだなんて。しかし、この文章以外思いつかなかったのだ。色々と考えすぎて、眠れない。伊都は頭を抱える。

 通知音がなった。伊都ははね起きて、携帯の画面を見た。兄からの返信である。

『構わない。俺はいつでも大丈夫だ』

「え、いいの!?」

 驚いた。まさか了承してくれるとは。伊都は戸惑いながらも、『ありがとう。こっちもいつでも大丈夫』と送った。

 すると、また通知音がなり、スタンプが送られてきた。アニメ調のクマなのだが、顔だけ妙にリアルである。

「なんだこれ……」

 いつの間にスタンプなど買ったのだろうか。

 家を出ていく前の兄は、無駄なことが嫌いで、何でも効率的に物事を進めようとする人だった。愛想とか雑談とか、そういったものは彼の「無駄なこと」の中に入っていたため、メッセージは送りあっても、こんなやり取りはしたことが無かった。ましてやスタンプを送ってくるなど、ありえなかった。

 一体この数年で何があったというのだろう。今まで兄のことなど興味もなかった伊都だが、少し彼のことを知りたくなった。

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