かっこ悪くなんかないから
夏休みも、残すところあと十一日となった。伊都の学校の夏休みの短さだけは、流石である。
「やばい、全然終わんねぇ……」
伊都は、やはり課題に追われていた。全く、夏休みの課題とは、どうしてこうも多いものなのか。約三週間しかないのに、この量は異常だ。などと、文句を言っている場合ではないので、伊都は一生懸命問題を解いていた。
今は、朝の九時。珍しくフーカはまだ寝ている。彼女が起きてくれば、またきっとどこかへ連れていかれる。なんとか、その前に終わらせなければ。しかし、朝から頭が冴えている訳でもないため、全く進まない。
「あーだめだ、ギブアップ」
伊都は、床に寝転がった。このままではダメだ。仕方がない。伊都は最終手段をとることにした。近くにあった携帯をとって、メッセージアプリを開く。
そして、誠にメッセージを送った。
『課題が終わらない。助けてくれ。頼む』
実は、伊都が誠に助けを求めるのはこれが初めてではない。テスト前などは、決まって学校帰りに誠の家で、彼に助けてもらいながら、勉強をしていた。
しかし、夏休みの課題だけは自力で終わらせようと粘っていたのだが、もう限界であった。
『そんなことかと思っていたよ。家に来る?』
待ちわびた返事が来た。しかも、家へのお誘いである。
『マジ!? 行く!』
『じゃあ、待ってるねー』
彼はどこまで優しいのだろう。いやもう優しいとかの問題ではない。自分のことを見捨てない誠は、もはや神の領域である。
伊都は、彼のありがたみを感じながら、出かける準備をした。ふと、寝ているフーカが目に入る。そうだ、彼女をどうしようか……。
先日、伊都はフーカに内緒でデパートに服を買いに行った。もしフーカを連れていこうものなら、三時間くらい帰らせてくれないと思ったからだ。
男子高校生が、一人で女物の服を見ていたため、若干周りからの視線が痛かったが、なんとか買うことが出来た。
すぐに家に帰り、部屋に入ると、フーカが抱きついてきた。わけも分からず、抱きつかれたままいること、約十分。ようやく離れたと思ったら、またいつものフーカに戻ったのだ。
いつも上から目線で、時々大人の様になるフーカだが、あの時ばかりはとても弱々しかった。普段の彼女からは想像出来ないくらいに。いったい、彼女に何があったのか。伊都には分からなかった。普段と違ったことといえば、彼女はあの時一人だったということだが……。
「あっ……」
伊都は、ハッとした。考えてみれば、最初の終業式があった日以降はいつも一緒であった。伊都が行く場所には必ず着いてきて、彼女が行く場所には、伊都は必ず着いていった。
もしかすると、彼女は一人が嫌なのかもしれない。多分、一人でいるのか好きとか嫌いとか、一人は寂しいとかそんなレベルの問題ではない。
彼女にとって、「一人」というのは恐怖に値する。伊都は、そうとしか考えられなかった。でなければ、あんな風に抱きついてきたりしないと思ったからだ。そうだとすれば、このままフーカを放って行くのは、得策ではない。
「……起こすか」
伊都は、フーカの体を揺すった。
「おーい、起きろー」
何回かそう呼びかけた後、フーカは眠そうに目をこすった。
「なによー……」
「なにって、起こしてんだよ。もう九時だぞ」
「九時なんて、まだ、朝……。もうちょっと……寝させて……」
「いいから、起きろって」
伊都は、布団を剥ぎ取った。その途端、フーカははね起きた。
「ちょっと、何するのよ!」
「お前が起きないからだろ」
「だからって、レディーの布団を剥ぎ取るの!?」
「レディー……」
おませな女の子が使いそうな言葉である。まさか、フーカの口から「レディー」なんてワードが出てくるとは。
「で、なんで起こしたのよ」
「出かけるから」
「は?」
「着いてくるんだろ? だから、起こしたんだよ」
「なんで私が着いていく前提なのよ。嫌よ、面倒くさい」
拍子抜けしてしまった。一人が嫌なのではなかったのか。
「あっそ。じゃあ、俺一人で行ってくるから、留守番頼んだぞ」
伊都は、勉強道具を入れたカバンを持ち、部屋を出ようとする。
「ちょっと待って。留守番ってどういうこと」
「いやだから、今日は家に誰もいなくなるからさ」
「嫌だ」
「は?」
「一人は嫌だ」
フーカは、今にも泣きそうな表情になる。やはり、伊都の予想は正しかった。
「じゃあ、行くんだな?」
「……着替えてくる」
フーカは、部屋を出ていった。
「……あいつ、あんな顔するんだ」
彼女のあんな表情は初めて見た。不安げで、泣き出しそうな、あの顔。怯えた小動物のように、肩をすくめて、小さくなっていた。
上から目線。威圧的な態度。大人の微笑み。気弱な発言。様々な色を見せてきたフーカだが、いったい、どれが本来の彼女なのだろうか。
「お待たせ」
フーカが着替えを終えて、戻ってきた。
「お前、それ……」
「せっかくくれたんだもの。着なきゃもったいないでしょ」
彼女は、青色のワンピースに身を包んでいた。間違いない。伊都が買ってきたものだ。おまけに、髪を二つに結んでいる。伊都は思わず、フーカを凝視した。
「……何見てるのよ」
「いや、その……似合ってるなって」
そう。フーカの華奢な体とワンピースは見事にマッチしていたのだ。あのぶかぶかのパーカーを着ていた時とは、もはや別人である。
「……!」
フーカは少し、頬を赤らめた。恥ずかしそうに下を向いた。
「ほ、ほら、行くわよ!」
伊都は、フーカに手を引っ張られながら部屋を出た。
「ねぇ、イト」
「なんだよ」
「まだ着かないの?」
「もうちょっとだ」
「さっきから何回もこの公園に来てると思うんだけど」
「気のせいだ」
「…………いい加減、現実逃避はやめなさい。迷ったんでしょ?」
「………ああもう! そうだよ、くそっ!」
迷い始めてから三十分。ようやく伊都は、迷ったことを認めた。
「もう本当、信じられない。あなたどこまで方向音痴なのよ。行くの初めてじゃないんでしょ?」
フーカは呆れ声で、伊都に追い討ちをかける。
「うるせーな、覚えられねぇんだよ!」
伊都は逆切れをしながら、携帯電話を取り出し、『迷った。今、公園。迎えにきてくれ』とメッセージを打った。数秒後、すぐに『行くから待ってて』と誠からメッセージが届き、ようやくホッとする。
「誠、ここに来てくれるみたいだ」
「いいお友達で良かったわね」
「本当だな」
「私が彼だったら、速攻見捨てているわ」
「だろうな」
二人は、近くにあったベンチに座った。今日も真夏日。太陽がギラギラと輝いている。
「そういやさ、ここってお前が、あの白衣の奴らに連れ戻されそうになってた所じゃねぇか?」
「……そうね」
「あれから何回も出かけてんのに、一回も遭遇しねぇな」
「……諦めたんじゃない?」
「そんなに簡単諦めるもんなのか?」
「さあ? そもそも目的だってなんだか分からなかったもの」
「……そっか」
そういえば、彼女は、いつまで伊都の家にいるつもりなのだろうか。ここまで来ると、そのまま家族の一員となりそうな勢いである。
フーカは、それでいいのだろうか。元の家族の所へ戻った方が、彼女のためなのではないのだろうか。
次から次へと疑問が生まれ、ひとつずつ聞いていこうと思ったが、口に出す直前で、彼は思いとどまった。
このまま何も知らない方が、良いのではないだろうか。下手に何か知ってしまったら、良くないことが起こるのではないか。いずれ嫌にでも真実を知る日は来るような気がする。だったら、今無理に聞き出さなくてもいいじゃないか。
伊都は、そう自分に言い聞かせ、聞き出すのをやめた。
「そう言えば、今日はパーカー着てないのな」
「だって、今日の服にパーカーは合わないでしょ」
「まあそうだけど」
「それに、いつまでも、パーカーに固執する必要はないと思って」
フーカはなにか吹っ切れたような表情を浮かべながら言った。
「……そっか」
フーカが今何を考えているのか、なんのことを言っているのか、伊都には分からなかったが、きっと彼女の中でなにか解決したのだろう。
「……ねぇ、イト」
「なんだよ」
「どうしてあの時、私を助けてくれたの?」
「どうしたんだよいきなり」
「何となく、気になって。あなたには私を助けることで、メリットがあるわけじゃなかったのに、どうして、赤の他人の私を助けてくれたのかなって」
「いや、どうしてって……お前が助けてって言ってたから、助けたんだよ」
「……え?」
「てか、他にどんな理由があるんだよ。人が助けてって言ってたら、助けるもんだろ?」
困っている人がいたら、助ける。誰に教わるでもなく、伊都は常にそうしてきたのだ。
「……あなたって、いい人ね」
「そうか?」
「うん、とってもいい人」
伊都は、何だか照れくさかった。「いい人」だなんて、面と向かって言われたのは初めてだったからだ。
「私、イトに助けてもらえてよかった」
フーカはベンチから立ち上がった。そして、伊都の方に体を向け、
「ありがとう、イト。私を助けてくれて」
予想外の言葉に、伊都はぽかんとしてしまった。
「ど、どうしたんだよ、突然」
「本当は、もっと早く……ううん、一番最初に言うべきだった。あなたのこと、誘拐犯呼ばわりして、ごめんなさい」
伏し目がちにフーカは言う。伊都は、彼女の突然の謝罪と感謝に頭が混乱していた。こんなことをフーカに言われたのは初めてである。どうしたというのだ。いつもの彼女ではない。
「いや、あの……もう気にしてねぇから、その、大丈夫だ、うん」
変にドギマギしてしまって、タジタジになりながらも、返事をする。それを聞いて、フーカは安堵の表情を見せた。
何故だ。今日はなぜ彼女を見るだけでこんなに鼓動が早くなるのだろう。
彼女がいつもと違う服装だからだろうか? いつもと違うことを言ったからだろうか?
それとも。
彼女が、いつも以上に美しいからだろうか。
最初に会った時よりかは、僅かに肉付きが良くなったものの、全体からすれば体つきは相変わらず細い。
腕や足などの肌の雪のような白さはそのままだが、以前に比べ血色が良くなり、心做しか透明度が増した。そして吸い込まれそうな大きな瞳と、美しいほほ笑み。
今の彼女は、伊都の知っている彼女ではない。きっと、これが「大人のフーカ」なのだろう。
「伊都ー! ごめん、遅くなって! 」
公園の入口に誠がいた。伊都は立ち上がって、そばによる。
「誠〜。ありがとな、迎えきてくれて。助かった」
「全然平気だよ。慣れてるから」
「慣れ……ははは」
「……えーと、そちらの方は?」
誠は、伊都の後ろにいるフーカを見て尋ねた。
「あれ? お前この前会ったよな? フーカだよ」
「……ああ! フーカちゃんか! この前と随分雰囲気が違うから気が付かなかった」
その言葉を聞いて、フーカは無邪気に笑ってみせる。
「今日はオシャレしてみたの〜」
「そうなんだー。似合ってるよ」
「えへへ」
得意(?)のロリ声で、誠を思い切り騙している。今日一日、その声で行くのだろうか……。まあ本性など見せようものなら、「この間とキャラも違うね」と言われそうではあるが。それでも、キャラを作るというのは体力を使うものであろう。果たして、今日一日持つのだろうか。伊都は、少し心配になった。
「それじゃあ、行こうか」
「お、おう!」
「わ〜い」
誠に連れられて、伊都とフーカは家に向かった。
「いやー助かったわ。ありがとな、誠!」
誠の力で、課題はほとんど終わった。
「ううん、気にしないで」
誠は塾に通っているだけあって、やはりどの教科も抜かりがない。おまけに、教えるのもとても上手だ。
「お前、教師になれるんじゃねぇか?」
「いやいや、とんでもない! 僕には無理だよ」
「えー、勿体ねぇな。俺、誠の授業だったら絶対寝ない自信あるわ」
「いやほら、僕には研究者っていう夢があるから」
誠はサラッと将来の夢を言う。
「そう言えば、そんなこと言ってたな」
「うん。前からずっと憧れてるんだ。伊都のお兄さんは研究者なんだよね? しかもあの「不老者研究グループ」! すごいなー」
「そうなのか?」
誠だけではなく、近所の人たちからよく言われるのだが、伊都は未だにピンと来ない。どうやら「不老者研究グループ」はエリートが集まるところらしい。
「すごいよ。いいなー、一度でいいから会ってみたい」
誠は目を輝かせた。
「そんな、芸能人じゃないんだから、いつでも会えるって」
「本当に!?」
「まあ、どこにいるか知らないけど、携帯では繋がってるから。今日、連絡入れてみるわ」
「ありがとうー!」
とても嬉しそうである。伊都の記憶では、誠の喜びようは、テストで良い点を取った時よりも遥かに上だった。
「あ、ねぇ伊都」
「なんだ?」
「研究者の話で思い出したんだけど、実はね」
誠は、一旦立ち上がって、離れたところにある勉強机から、一枚のチラシを取り出した。そして、それを伊都に見せる。
「これ、知ってる? 駅前で配ってたんだけど」
チラシには「研究者講演会」と書かれている。見たこともないチラシだったので、伊都は首を振った。
「僕さ、これに行こうと思ってて。あの、良かったら、伊都も一緒に行かない?」
「え、俺?」
「うん。ちょっと、ひとりじゃ不安で……」
誠は不安げな表情で、伊都を見る。正直、伊都はあまり研究者には興味はない。だが、誠にはいつも世話にはなっているし、何しろ今日の勉強会がなければ、伊都の課題は終わっていなかった。
少し考え、伊都は首を縦に振った。
「おう、いいぜ。俺とでいいなら」
「本当? ありがとう! じゃあ、これあげるよ」
誠は伊都にチラシを渡した。チラシには、場所と日時、そしてその他の詳細が書かれていた。
「えー、場所は公民館で、時間は十四時で、日付は……え、明日!?」
「明日だよ」
「早くね!? こ、心の準備が……」
「そんな、身構えなくても大丈夫だよ」
誠は笑いながら言う。お前は不安なんじゃなかったのかよ。と伊都は軽く心でツッコミを入れる。
「じゃあ、十三時半に公園で待ち合わせね!」
「おう」
伊都は立ち上がって、伸びをする。
「じゃあ、俺そろそろ帰るわ。今日はありがとな」
「いやいや、とんでもない」
「ほら、帰るぞ」
伊都は読書をしていたフーカを揺すった。
「えー、まだ途中なのに」
「だめだ、帰るぞ」
「もうちょっとだけ」
「お前が読み終わるの待ってたら明日になるわ」
フーカはむくれながら、とんでもなく遅いスピードで、立ち上がる。それを見かねたのか、
「良かったら、持っていきなよ」
と誠は言った。その瞬間、ぱっとフーカの顔が明るくなる。
「いいの!?」
「うん。どうせ、いっぱいあるし、いいよ」
「ありがとう!」
超絶可愛い笑顔でフーカはお礼を言う。伊都は、なんだか悔しかった。
「じゃあ、帰るぞ」
「うん!」
「またおいでよ」
「おう、ありがとな」
伊都はフーカを連れて、誠の家を出た。
「疲れた」
「お前、本当スイッチ切れると声低くなるな。っていうか、テンションも低くねーか」
「当たり前でしょ。疲れるのよね、あのキャラ。だから、なるべく喋らないようにしてたんだけど、最後でやられたわ」
「あの、少しの会話でか!?」
「ええ」
「…………」
恐ろしい威力である。伊都は少し寒気がした。
「そう言えば、さっき研究者がどうとかって言ってたけど」
「ああ」
「たしか前にも言ってたわよね、お兄さんが研究者だって」
「言ったか?」
「ほら、女の先生が来た時に」
フーカは、伊都と彼女が揉めていた際、舞子が部屋に来た時のことを言っていた。
「お前、よく覚えてるな」
「ずっと気になっていたから」
「そんな気になるほどのことか?」
「気になるわよ」
「どの辺が?」
「なんで、研究者になろうと思ったんだろうって」
「……さあな。俺は今、兄貴がどこにいるのかも知らないし」
伊都のその言葉に、フーカは足を止めた。
「それ……前も言ってたわよね。なんで?」
「なんでって、俺は別に兄貴が何してようが興味ないし」
「どうしてそんなこと言うのよ。家族なのに」
「あんな奴、家族なんかじゃねぇよ」
「なんてこと言うのよ! あなたのお兄さんなんでしょ? その言い方はないわ!」
フーカは珍しく声を荒らげた。どうやら怒りのスイッチが入ってしまったようだ。それにつられたように伊都の怒りも爆発した。
「お前はなんも知らねぇからそういうこと言えるんだよ! 」
「なっ……私だって……!」
再び反論しようとしたフーカだったが、何故かぐっと言葉を飲み込んで、黙ってしまった。口論が成立しなくなったので、必然的に伊都も黙ることとなった。
爽風がさらさらと二人の髪を揺らす。昼間は暑い夏も、日が沈むにつれ、涼しくなる。もうすぐ夜だ。
セミの鳴き声は今日も変わらず聞こえる。地上に出てから約一週間の命。今日も一生懸命鳴いている。
「……兄貴はさ、俺が中一の時に、出ていったんだよ。研究者になりたいって。母さんが止めるのも聞かずに、出ていった。なんでなりたいなんて思ったのか、聞いたって答えてくれなかった。『お前には関係ない』ってさ」
実際そうであった。伊都がそのようなことを聞こうとすれば、「伊都には関係ない」「知らなくていい」と言われてしまう始末であった。
「俺だって、止めたんだよ。家族を捨てるのかよ、そんなのやめてくれって。そしたら兄貴、『家族なんてどうでもいい』って言ったんだ」
この一言は、伊都にとって衝撃的だった。五年間、ずっと忘れない言葉であった。
「本当、兄貴は、無口で、堅くて、真面目で、俺とは正反対で……合わないんだよなー、本当に。前はこんなんじゃなかったんだけどなー……」
「……なにが、あったの?」
「あー……父さんがね、死んじゃったんだ。とある事件の捜査中に、事故で。あ、警察官だったから殉職したって言うのか。まあいいや、同じ意味だし……。ま、そこから変わっちまったんだよ、兄貴は。俺は全然変わらなかったけど」
「………」
「あの頃の兄貴は、無邪気だったなー。まあ今の俺みたいな? 信じられないと思うけど」
ふと、今まで封じていた記憶が溢れ出す。亡き父の笑顔。兄の笑顔。家族団欒。旅行。数々の思い出が、脳裏に蘇ってくる。
「本当、楽しかったなー……」
今の方が楽しい。今の生活で満足している。そう思い込むことで、封じていた過去。だが、もう悟ってしまったのだ。「あの頃が楽しかった」と。「あの頃に戻りたい」と。
「ま、もう戻れないんだけどな!」
涙がこぼれそうだった。でも伊都は笑った。必死で笑った。できればこのまま笑い話にしたかった。
しかし、フーカは笑わない。大きな瞳でじっと伊都の事を見つめている。
「なんで笑うの?」
「え……?」
「つらかったら、泣けばいいじゃない。無理に笑う必要なんてないわ」
「お、俺は別に……」
「そうやって、無理に笑ってたら、きっといつか笑えなくなる。私は、イトにそうなって欲しくない」
フーカは必死に訴えた。
「だから、我慢なんてしないで。お願い」
フーカの懇願する目は、伊都の涙腺を更に刺激した。
「で、でも、こんな所で」
「もう日が陰ってるんだから、誰も来ないわよ」
「で、でも、俺、男だし……泣いたらかっこ悪……」
「ああ、もう! 男も女も関係あるか! 泣きたければ泣けばいいでしょ! 」
フーカは顔を真っ赤にして叫ぶ。これには伊都も萎縮してしまった。
「……大体、自分の気持ちに正直になることの、なにがかっこ悪いのよ。バカじゃないの?」
と、呆れたようにそっぽを向く。その姿に伊都はなんだか可笑しくなってしまって、思わず吹き出した。
「ちょっと、なんで笑うのよ。涙はどこいったの?」
「お前のせいでどっかいった」
「はあ? なんなのよ、もう」
口とは裏腹に、フーカは安堵の表情を浮かべた。
「フーカ。その……さっきはごめんな。怒鳴ったりして……」
「私こそ、ごめんなさい。つい熱くなりすぎたわ」
お互い謝罪をし合って、顔を見合わせ、笑った。
しばらくして、二人はまた歩き出した。
「まあ、兄貴云々はそういうことだよ。はぐらかされたんだ」
「言いたくない理由でもあったのかしらね」
「さあな。ま、俺たちには関係ないみたいだからさ」
「……『家族なんてどうでもいい』、ね。なんだか、私には本心じゃないように聞こえる」
「え?」
「きっと、咄嗟に出てしまっただけよ。喧嘩してるときって、思いもよらない言葉を言ってしまったりするから。本当は、『家族のために』研究者になったんだと思うわ」
「いやそんな、極度のツンデレみたいな」
「まあ、分からないけど」
フーカはツッコミをすることもなく、バッサリと切り捨てる。だが、彼女の言っていることは、的を得ている気がする。もし、そうだったのだとしたら……。伊都はなんだか急に、兄に申し訳なくなってきた。
「あ」
フーカが、街灯に照らされている掲示板の前で立ち止まる。
「花火大会だって」
「花火大会?」
掲示板に、地区の花火大会のお知らせが無造作に貼られていた。
「いいわね、行きたい」
「えー、面倒だな」
「なんでよ、このごろ出かけてないんだから、いいでしょ」
「いや、最後の十日間くらいゆっくりさせてくれよ……」
「えーと、日にちは……」
「人の話を聞け」
「あら、夏休み最終日じゃない? この日って」
「え?」
伊都はもう一度、ポスターを見る。確かに、最終日だ。
「本当だ」
「行きましょう」
「俺、次の日学校なんだけど……」
「構わないわ」
「いやお前はいいだろうけど、俺は?」
「何とかなるわ。とにかく私は行きたいの」
「なんでそこまで行きたがるんだよ……」
「なんでもいいでしょ! 行きたいの!」
伊都は、フーカがこれまでの中で、一番行きたがっている気がした。そこまで行きたい理由を、どうしても知りたくなった。
「理由教えてくんなきゃ、行かねーぞ」
「は!? なんでよ!」
「知りたい」
「嫌よ、なんで言わなきゃいけないの!」
「じゃあ、行かねぇぞ」
「……うう」
フーカは、恥ずかしそうに下を向きながら、
「花火……誰かと一緒になんて見たことないから……。だから、イトと見たいの……ダメ?」
と言った。その姿のなんと可愛らしいことだろう。伊都は開いた口が塞がらなかった。
「もう! こんなこと言わせないでよ、恥ずかしい!」
フーカの顔は真っ赤である。
「絶対行こう」
「……本当に?」
「なんで疑うんだよ」
「だって、さっきとあまりにも態度が」
「お前の一言で変わったんだよ」
「気持ち悪」
「おい」
「でも良かった。約束だからね」
フーカは小指を差し出した。伊都は、その指に自分の小指を絡める。
「おう、約束だ」
夏の夜、街頭が照らす掲示板の前で、二人は約束を交わした。
「必ず、花火大会に行こう」と。
その夜。フーカが寝静まった頃、伊都は携帯を開き、兄に向けてのメッセージを送ろうとしていた。
『久しぶり。俺の友達が兄貴に会いたいって言ってるんだけど、会ってくれないか?』
文章は数秒で打ったものの、なかなか送信のボタンを押すことが出来ないでいた。緊張する。長年会っていないと、たとえ家族であってもこういうことになるのだ。
「……いいや、押しちまえ」
伊都はメッセージを送ると、ベッドに潜り込んだ。好きな相手に送った訳でもないのに、ドキドキが止まらない。さすがにいきなり過ぎただろうか。突然、知りもしない人に会ってほしいだなんて。しかし、この文章以外思いつかなかったのだ。色々と考えすぎて、眠れない。伊都は頭を抱える。
通知音がなった。伊都ははね起きて、携帯の画面を見た。兄からの返信である。
『構わない。俺はいつでも大丈夫だ』
「え、いいの!?」
驚いた。まさか了承してくれるとは。伊都は戸惑いながらも、『ありがとう。こっちもいつでも大丈夫』と送った。
すると、また通知音がなり、スタンプが送られてきた。アニメ調のクマなのだが、顔だけ妙にリアルである。
「なんだこれ……」
いつの間にスタンプなど買ったのだろうか。
家を出ていく前の兄は、無駄なことが嫌いで、何でも効率的に物事を進めようとする人だった。愛想とか雑談とか、そういったものは彼の「無駄なこと」の中に入っていたため、メッセージは送りあっても、こんなやり取りはしたことが無かった。ましてやスタンプを送ってくるなど、ありえなかった。
一体この数年で何があったというのだろう。今まで兄のことなど興味もなかった伊都だが、少し彼のことを知りたくなった。