大人と子ども
伊都がフーカとデパートに行った日から、一週間が経過した。相変わらず、伊都は毎日のように、朝からデパートに連れていかれ、結局今週のほとんどはデパートで過ごすこととなった。
おかげで、伊都が夏休みの課題に取り組む時間は、必然的に夜だった。もちろん、途中で寝落ちしてしまうので、一応決めてあるノルマなど終わるはずもなく。まだ休みがあるとはいえ、さすがにこんなペースでは終わりそうにない。
なら、朝やればいいだろう。と思い、フーカが起きてくる前にやろうともしたが、彼女の朝は、伊都が思っていたよりも早く、伊都が起きる頃には、彼女はもう着替えを終えていた。
どうしたらいいものか。伊都は頭を悩ませていた。
「ちょっと、イト。準備にいつまでかかるのよ、遅いわ」
「お前が早すぎんだろうが」
「だって、一分一秒も無駄にしたくないんだもの」
「…………」
今は朝の七時。フーカは今日も出かけると言って、張り切っているのだ。伊都は大きくため息をつく。
「……で、今日はデパートのどのコーナー見るんだ?」
「あ、デパートはもういいわ。飽きたし」
「え。じゃあ、今日はどこに行くつもりだよ?」
「うーん……遊園地にいきたい」
「……はぁ!? 遊園地!?」
「そうよ、遊園地」
「なんで……なんで遊園地」
「行ったことないから」
フーカはサラッと答える。
「俺は、行ったことないところならどこへでも連れてってやる、なんて約束はした覚えはないぞ」
「なんでよ、いいじゃない、遊園地くらい。デパートとそんなに変わらないでしょ」
「お前なぁ……簡単に言うけど、俺、どこにあるか知らねぇぞ?」
伊都は、遊園地のある場所を知らなかった。デパートがある方向と反対であることは知っているのだが、どこにあるのか、どんなところなのかは全くもって知らないのだ。
このような場合、伊都はほとんど目的地にたどり着いたことがない。なぜなら彼は、極度の方向音痴だからである。家族や友人の誠は、これを知っているが、もちろんフーカは知らない。知られたくもない。彼女にバレたら、また馬鹿にされる。そう思って、なかなか言えないでいたのだ。
「行ったことなくても、地図見ればなんとかなるでしょ?」
当たり前のように言うフーカに、伊都は、その地図が読めないんだよ! とは言えなかった。
「で、でも、こんな歳して遊園地とか恥ずかしいだろ」
「あなたまだ高校生でしょ。それに、遊園地に歳なんて関係ないわ」
あっさりと切り返されてしまった。
「…………」
「なんでそこまで嫌がるのよ。あ、もしかして方向音痴……」
「言うなぁぁぁ!!」
「え、図星?」
「あ」
やってしまった。伊都は、激しく後悔した。フーカにだけは、知られたくなかった。
「なるほど、方向音痴だったのね」
「……そうだよ、悪いか」
「別に、悪いとは思わないけど。それも個性なんじゃないの?」
「個性か……?」
「まあ、心配しないで。私は地図、読めるから」
フーカは、胸を張って言った。それを見て、伊都は尚更、自分が情けなくなった。
結果、遊園地には一度も迷うことなく着いた。もちろん、伊都は、フーカの後を付いて行っただけであるが。
「なんだ、簡単じゃない。やっぱり地図って偉大ね」
フーカは、地図に感心していた。
「全然共感出来ねぇ」
「でしょうね。むしろ、敵視してるでしょ、地図」
「その通りだ」
「それがいけないのよ、きっと。友達になれるよう努力したら?」
「無理だ。あいつとは一生友達になれない」
「あら、そう。じゃあ、仕方ないわね」
「っていうかお前、暑くねーのか?」
フーカは、普段伊都のお下がりを着ているのだが、その上に必ずあの青いパーカーを羽織っているのだ。
いくら田舎とはいえ、夏は暑い。伊都は不思議でならなかった。
「暑いけど、なんだか落ち着くのよね。これを着ていると」
「ふーん……」
そんな他愛もない話をしながら、券売機の前までくる。そこには、「大人:千円」「小人(中学生以下):五百円」と書かれていた。
伊都は、じっとフーカのことを見る。
「……なによ」
「うん、中学生に見えるな」
そう言って、伊都は「小人」のボタンを押そうと手を伸ばす。咄嗟にフーカがその腕を掴む。
「ちょっと待って、どういう意味?」
「だから、中学生に見えるなーって」
「誰が?」
「お前」
次の瞬間、伊都はフーカに左足のすねを蹴られた。
「いっ……!!」
「あなた、私が一週間前に言ったこと忘れたの?」
「一週間前?」
「二十歳として接してって言ったでしょ」
「あーちょっと覚えてなかったわ。ほら俺、方向音痴だし」
「関係ないわよ!」
「えーだって、大人と子供で全然値段違うんだし。いいだろ、中学生で」
「良くない!」
「何でだよ……」
彼女がそこまで、「二十歳」にこだわる理由は、一体何なのか。謎である。
「とにかく、私は大人なの! いいわね!」
そう言って、フーカは「大人」のボタンを押す。
「はいはい……」
伊都は、二千円を入れ、大人二人分のチケットを購入した。
二人は受付まで向かう。
「すみません、これでお願いします」
伊都は、受付の女性にチケットを渡す。
「……えーと、小学生の方は半額となりますが」
と、女性はフーカを見ながら言った。どうやら、フーカを「小学生」であると認識したらしい。
「…………」
ふと背後からものすごい負のオーラを感じた。後ろのフーカを見ると、ものすごい形相で伊都を睨みつけてきていた。まずい。中学生よりもさらに年下に見られたことで、怒りのスイッチが入ったようだ。伊都はあわてて、
「あ、そのままで大丈夫です」
「本当に、大人二名で、よろしいですね?」
「はい、大丈夫です」
「……かしこまりました」
女性は、まだ納得していないようだったが、二人を大人として通した。ものすごく満足気な表情のフーカを見て、伊都は大きなため息をつく。
「なによ、ため息なんかついて」
「いや、別に……」
なんで自分がこんな少女に振り回されなければならないのだろう……と思っていたことは言わないでおいた。
「……にしても、閑散としてんなぁ」
そうなのである。夏休みだというのに、遊園地にはほとんど人がいない。
「いいじゃない。並ばないでたくさん遊べるでしょ」
「……そうだな」
伊都は思った。彼女は今日一日で、どれだけ遊び尽くすつもりだろう、と。
今回、伊都たちがやってきた遊園地は、普段からとても閑散としているようなところである。どうやら、それは夏休みであっても関係がなかったようだ。
原因は、劣化とアトラクションの少なさ。歴史ある遊園地、と言えば聞こえはいいのだが、なにせ三十年前に出来ており、今となっては、あちこちの劣化が目立つようになってしまった。例えばジェットコースターに乗れば「キィーッ」と聞こえてくるし、観覧車に乗れば途中で止まる。このように、定番の乗り物が次々とやられてしまっているのだ。
そして、なによりアトラクションが少ない。五、六種類はあるが、とてもあの「夢の国」には及ばない。まあ、田舎の遊園地なんてこんなものだろう、と思ってしまえば、そうなのだが。
「ねぇ、イト。コーヒーカップに乗りたいんだけど」
「おう。じゃあ俺、柵の外で待ってるから」
「何言ってるの。二人で乗るのよ」
「は!? ちょっ……」
考えるまもなく、伊都はフーカに腕を引っ張られ、連れていかれる。
「なんで俺も!?」
「だって、一人じゃつまらないでしょ」
「いやいや、俺、無理だって!」
「無理だと思うから無理なのよ」
「本当に無理なんだって! 俺、ああいうのダメだし」
「無理じゃない。楽しいわ」
「あんなん化け物だろ! 楽しくねぇよ!!」
そう。伊都は、遊園地の中でもコーヒーカップが最大級に苦手なのだ。
「大丈夫、いけるわ」
「いーやーだー!」
思いのほか、フーカの力は強く、半泣きのまま、強制的に連れていかれる伊都。まるで、駄々をこねる子供を連れていく母親の画。
「すみません、二人でお願いします」
フーカは受付で立っている男性に声をかける。
「あ、はい……」
あまりにも謎すぎる二人を凝視しながら、男性は小さな声で返事をした。
「ほら、乗るわよ」
「マジで乗るの」
「当たり前でしょ。ほら」
伊都は、コーヒーカップの中に座らされた。自分は、どうなってしまうのだろう。これ以上ないくらいに、緊張していた。対するフーカは、目を輝かせて、スタートを今か今かと待ち構えている。
なぜコーヒーカップで、そんなにワクワクできるのか、伊都は、彼女が不思議でしょうがなかった。
「それでは皆さん、準備はよろしいでしょうかー?」
先程の男性が、アナウンスをする。「皆さん」といっても、コーヒーカップに乗っているのは、伊都とフーカだけなのだが。
「では、行きますよー。回転、スタート!」
アナウンスと共に、コーヒーカップが回転を始めた。
「わああああああ!」
「きゃあああああ!」
二人は、ほぼ同時に悲鳴をあげる。悲鳴は悲鳴でも、フーカのは楽しさから出た悲鳴であった。もちろん伊都は、本気の悲鳴である。
体が回る。目が回る。そして世界が回る。こんな恐ろしい状況に、叫ぶしかなかった。
「つ、疲れた……」
伊都は、よろよろと歩きながら、ベンチに座る。それを見たフーカは、
「ちょっと、何疲れてるのよ」
と呆れている。
「なんでお前は、そんなに元気なんだよ……」
「だって、楽しかったじゃない」
目をキラキラさせながら、フーカは言う。先程は、フーカの剣幕に負けて大人料金を払ったが、こういうところを見ると、彼女はやはり子どもである。
「ねぇ、次は何乗る?」
「まだ乗るのかよ……」
「当たり前じゃない。まだコーヒーカップしか乗ってないでしょ」
「俺はもう充分なんだけど……」
「はい、行くわよ」
伊都は再度、腕を掴まれる。
「えーーっ……」
充分な休憩も許されないまま、彼は次のアトラクションへと連れていかれた。
そして、二人がアトラクションを乗り尽くす頃には、もう夕方になっていた。
帰りももちろん、フーカが先導し、迷うことなく、伊都の住む街へ戻ってくることが出来た。
「はぁ、楽しかった〜」
満足気な表情でフーカは言う。その隣でヘトヘトになった伊都が大きなため息をつきながら歩く。
「いくらなんでも、疲れすぎよ」
「いや、お前が疲れなさすぎなんだよ。普通、あんなに遊んだら、疲れるだろ」
「いいえ。逆にパワーがみなぎってくるわ」
「超人だな」
「普通よ」
オレンジ色の太陽も、山に沈もうとしていた。もうすぐ暗くなる。いくら田舎とはいえ、夜は危険だ。フーカのことも考え、なるべく早く帰ろうと、ペースをはやめようとするが、一日中動き回っていた伊都の足は、そう簡単にいうことを聞いてはくれなかった。
「なんでそんなに焦ってるのよ」
「いやだって、もう暗いし……」
「別に、夜は平気よ。むしろ安全」
「安全って、どういう意味だよ」
「そのままよ」
フーカは答えになっていない答えを口にする。伊都は面倒になって、それ以上聞くのをやめた。
「あれ、伊都?」
正面で声がした。声の方向を見ると、そこには誠がいた。
「ま、誠? どうしてここに」
「どうしてって、塾の帰りだよ」
誠の家は教育熱心で、彼は塾に通っているのだ。
「伊都こそ、どうしたの? こんな時間に」
「あ、ちょ、ちょっと遊園地に……」
「遊園地? へぇ、珍しいね。……その子は?」
誠は、伊都の隣のフーカに視線を移す。
「あ、えっと……」
普段ならここで、誤魔化すはずだった。しかし、疲れていることもあり、伊都は「いとこ」という単語がどうしても出てこなかった。
すると、咄嗟にフーカが、
「いとこです!」
と、伊都が見たことがないような満面の笑みと、聞いたことがないような甲高い声、いわゆる「ロリ声」で言った。
「!?」
伊都は、驚いて声も出ない。誠は、目線を低くして、優しげな表情で会話をする。
「そっかあ。お名前は、何ていうの?」
「フーカって言います」
「フーカちゃん? 可愛い名前だね」
「ありがと!」
まるで小学生と先生の会話である。
「こんなに可愛らしいいとこがいるなんて知らなかったよ、伊都」
「ははは……」
「じゃあ、僕はそろそろ帰るね。またね、伊都、フーカちゃん」
「バイバーイ!」
フーカは満面の笑みで、遠のく誠に大きく手を振る。そして、誠が見えなくなると、元の表情に戻り、小さくため息をついた。
「さ、帰るわよ。伊都」
「いや、声違いすぎだろ、お前!」
「なに、さっきの声がいいの? 気持ち悪」
「ちげーよ! そうじゃなくて、お前あんな声出たんだなって」
「ちょっと声高くして、子どもっぽく喋っただけよ。それが何?」
「いやその……か、可愛かったなーって……」
「あぁん?」
「なんでもないです」
正直な感想を言っただけだったのだが、フーカはお気に召さなかったようだ。何故だ。本人はノリノリでやっていたじゃないか。キレられる筋合いはない。
「それにしても、なんであんなことしたんだよ。大人に見られたかったんじゃなかったのか? 」
「見られたいんじゃなくて、大人なの」
「さっきのみたら、もう信じられねぇよ……」
「演技よ。初対面の人には、いつもああしているの」
「俺の時は、最初から本性むき出しだったけど?」
「あなたは例外。本当に誘拐犯だと思ってたから」
「…………」
フーカに、誘拐犯、と叫ばれ続けた嫌な思い出が、伊都の脳裏をよぎる。
「純粋無垢である子供は、人の警戒心を解くっていうでしょ」
「聞いたことねーぞ」
「あなたが知らないだけよ」
「それに、お前のその見た目で、あれやったら、小学生か、ただのイタイ奴……オウッ!」
再度、伊都は、フーカにすね蹴りをされる。本日二回目である。
「さっき可愛いって言ったじゃない」
「そう言ったらお前、キレかけたじゃん」
「イタイ奴は、ただの悪口でしょ。それならまだ可愛いって言われた方がいいわよ」
「……………」
「あ、家ついた」
気づけば、目の前は家だった。伊都は思いっきりドアを開ける。
「ただいまー」
中から、母が迎える。
「おかえりなさーい!」
そして、帰ってくるなり、あの質問をされた。
「どうだった? 初めての遊園地デートは」
母の目は、キラキラと輝いている。これは、なんと答えるのが正解なのであろうか……。そもそも、デートではない。
伊都が迷っていると、咄嗟にフーカは、
「とっても楽しかったです!」
とニッコニコで答えた。若干、先程の子供要素が含まれている。
俺は全然楽しくなかったけどな。心の中で伊都は毒づく。
母は、そんな彼女を見て、微笑んだ。
「あらぁ、良かったわ〜。伊都は頼りないから、心配してたのよ。なにせ、方向音痴だし。そう言えば、道迷わなかった?」
「はい、大丈夫でした。私、地図は読めるので」
フーカは、昼間も聞いたようなセリフを、母の前でもいった。
「まあ、頼もしいわ。相性バッチリね!」
「いえ、そんな」
さりげなく否定するフーカ。顔は笑っているが、目は笑っていない。まだ伊都を、仮の彼氏とも認めていないようだ。
「さ、ご飯にしましょう! 二人とも手を洗ってらっしゃい」
二人は母に言われるがままに、洗面所へ向かった。
「お前さ、別に無理しなくていいんだぞ」
伊都は手を洗いながら、後ろにいるフーカに鏡越しで話しかける。
「無理? なんのこと?」
既に手を洗い終えたフーカが、かけてあるタオルで手を拭きながら、不思議そうな顔で伊都を見る。
「だから、俺と恋人でいること。嫌なら、ほかの設定なんて、いくらでも作れるし」
「ふーん、例えば?」
「それはこれから考える」
「なによ、ないんじゃない」
「だから、これから」
「そんな時間ないわよ」
「いやある!」
「なんでそこまで設定を変えたがるのよ。そんなに恋人設定が嫌なの?」
「いや、俺は別にいいんだけど……」
「私も別にいいわよ?」
「……え?」
サラッとフーカは言った。伊都は思わず、後ろを振り返る。
「な、なんで……。最初は嫌だって言ってただろ」
「それは、あなたがどんな人か分からなかったからよ。でも、ここ一週間一緒にいて、私、気づいたわ。あなたといると楽しいって」
フーカは、口元を緩め、微笑んだ。
「だから、あなたと恋人って設定も、悪くないかもって、そう思っただけよ」
そう言うと、彼女はリビングへと消えていった。伊都は呆然と立ち尽くしていた。
彼女の微笑みが、幼い少女のただの微笑みが。あまりにも美しすぎたから。
夕飯を食べ終え、寝る前の準備を済ませた伊都は、ベッドに寝転がった。
「ったく、なんなんだよあいつは……」
先程のフーカの言った言葉と、彼女の微笑みが、伊都の頭から離れない。
普段は、完全に大人びた子ども。だが、ある時突然、大人になる。そのあまりにも急激な変化に、伊都は思わず、ドキリとしてしまったのだ。いや、男なら誰だって、あんなことを、あんな表情で言われたら、ドキリとするだろう。と、正当化しなければ、とても気持ちを抑えられそうになかった。
「あれ……無意識なのか? それとも……」
ガチャっ。扉が開いて、フーカが入ってくる。伊都は、驚きのあまりベッドから落ちそうになる。
「うっわ、びっくりしたー!」
「なによ、うるさいわね」
「お、お前ノックぐらいしろよ!」
「なんで自分の部屋にノックしなきゃいけないのよ」
「いや、ここ俺の部屋……」
「私の部屋でもあるの」
やはり、先程のフーカの面影はない。あれは、伊都の見間違いとか聞き間違いだったのだろうか、と疑うレベルである。
「なに、ずっと見てるのよ」
「い、いや! 何でもない」
「? 変なの」
変にフーカを意識してしまい、思わず不自然な振る舞い方になる。そんな伊都にお構いなく、フーカは床の布団に入った。そして、近くにあるリモコンで電気を消し、「おやすみなさーい」と、就寝モードに入った。すぐさま寝息が聞こえてくる。フーカは寝るスピードが異常に早い。
「はぁ……」
伊都はやりきれない気持ちを残したまま、目を瞑った。カーテンの隙間からは、月明かりが微かに差し込んでいた。