心に秘めた思い
唯斗のお見舞いに行き、家に帰ってきた伊都は、部屋でボーッとしていた。この夏休みで、色々なことがあり過ぎて、上手く頭が整理しきれていない。
「はぁ……」
先程から、出るのはため息ばかりである。
兄は……唯斗は、あのまま目覚めることはないのだろうか。せっかく和解したというのに、もう一生、会話することは出来ないのだろうか。嫌な考えばかりが頭をよぎる。
「兄貴……俺、やっぱり何も守れなかった」
フーカに続き、兄でさえも守ることができないだなんて。
「ごめん……」
ふと、先程病室で出くわした、フーカの顔が目に浮かぶ。彼女は、ひどく絶望した顔をしていた。せっかくの再会であったが、そのままどこかへ行ってしまったのだ。
多分、兄がこうなったのは自分のせいだと思っているのだろう。
本当はあそこで追いかけるべきだった。だが、伊都の足は動かなかった。
追いかけて、どうする?
追いかけて追いついたところで、彼女にかける言葉なんて、考えつかなかった。だから、そんな状態で追いかけることなどできなかった。
「伊都伊都伊都伊都伊都!!」
下の階から、母の声が聞こえた。あまりにもしつこく呼ぶので、「何だよ、もう……」と部屋の扉を開けた。
すると、階段の下で、母は、信じられない言葉を放った。
「唯斗! 目覚めたって!」
「………え、マジ!?」
「マジに決まってるでしょ! 早く行くわよ、病院!」
「お、おう!」
伊都はあわてて階段を降り、外へ飛び出した。鍵が開くなり、車に飛乗る。
母は、制限速度ギリギリで病院まで車を走らせた。
病院に到着後、伊都と母は、唯斗の病室に直行した。田舎にしては広い病院であるが、もう何度も行ったので、方向音痴の伊都でもさすがに分かる。病室に着くなり、扉を荒々しく開け、二人で同時に叫んだ。
「兄貴!」
「唯斗!」
唯斗のベッドの前にいた、医師や看護師が一斉に振り向く。すぐさま道を開けてくれた。
伊都も母も、ベッドに飛びつかんばかりの勢いで、突進した。
「もう、唯斗! 心配したのよ! もう……もう……!」
母は、息を切らしながら、へなへなと座り込んだ。
「母さん……」
兄が驚いた顔をしている。
「俺だって、心配したんだからな……! もう一生、兄貴と喋れないかと思ったじゃねーかよ」
両手をぐっと握りしめながら、伊都は言った。
「伊都……」
兄は、口元を綻ばせ、柔らかい表情を見せた。
「ありがとう。俺を待っていてくれて」
「当たり前でしょう? ずっと、ずっと待っていたのよ……!」
母は、涙混じりの声で返した。
兄の笑顔の、何と優しいことか。少し前までは考えられなかった。伊都は、嬉しくて頬を緩めた。
「そういえば、唯斗。あなた一人の時に目覚めたのに、よくナースコール押せたわね」
母は思い出したように口にした。確かに、と伊都は思った。
「いや、押してない……」
「え? じゃあ誰が……」
すると、後ろにいた看護師の一人が、
「ああ。それは、別の方がナースコールを押したみたいです。ご家族ではないのですが、よくお見舞いにこられていた方で……」
「それって……フーカ?」
伊都は思わず言った。看護師は不思議そうな顔をする。
「え?」
「あ、いや、その人って……青いパーカー着た女の子じゃ……?」
「ああ、そうです。お知り合いなんですね」
「まあ……」
知り合いも何も、少し前まで同居していたのだが。
「ちなみに、その人って、ナースコール押した後はどこに……」
「それが……私が駆けつけて、少し会話をしたあと、『あとはお願いします』と仰って、病室から出て行ってしまわれて……」
出て行った? なんの為に……? 伊都は考え込んでしまった。
「それでは、我々はこれで。あ、お母さん、今後のことでお話したいことがあるのですが……」
「あ、はい」
母は医師たちと病室を出て行ったので、部屋は、伊都と兄の二人だけになった。
「なんだ、伊都。そんなにあいつに会いたかったのか?」
「はっ……!? な、なわけないだろ。誰があんな奴」
「俺はいいと思うけどな。なかなか似合いのカップルだ」
「カッ!? なんで好きだっていう前提なんだよ!」
「違うのか?」
「フーカなんて、好きでもなんともねぇよ」
「好きでもなんともない奴と、数週間も共同生活出来るのか」
「あれは、仕方なくだっつーの!」
「……仕方なく、か」
兄は、ふっと笑った。「何がおかしいんだよ」と伊都は口を尖らせる。
「いや、青春とは、こんなにも甘酸っぱいものだったのかと思ってな」
「バカにしてるだろ!」
「本心だ」
いや、絶対にバカにしている。まず、顔がバカにしている。
伊都は、ふん、とそっぽを向いた。
別に、好きだとか、そういうことではない。フーカと一緒に過ごすのが、少しだけ楽しかっただけだ。ほんの少しだけ……。と、自分に言い聞かせる。
「……伊都」
「なんだよ」
「もしも……もしもの話だ。俺が、立花久美子を好きだと言ったら、どうする」
「……え?」
伊都は、ゆっくりと唯斗の方を向いた。心臓が高鳴る。
「兄貴、あいつのこと……」
「もしも、だと言っているだろう。もしも、好きだと言ったら、お前はどうする」
「どうするも何も……あ、そうなんだって思うだけなんだけど……」
平然と答えたが、それと反比例して心臓の鼓動はどんどんと早くなっていく。
兄が……フーカを……。
「本当か?」
「え?」
「お前の、立花久美子への思いは、本当にそんなものか?」
「それは、その……」
「簡単に他人に渡せるような、そんなに軽い存在か?」
「俺は……………」
頭の奥で、違う、という声がした。
違う。フーカは、そんな存在じゃない。
フーカは、フーカは……。
「誰にも、渡したくなんかねぇよ……」
小さな声で、だがしっかりと伊都は言った。
「うん。そうだろうな」
兄はさらっと口にした。
「なっ……! そうだろうなって、初めからわかってたみたいに言いやがって」
「いや、もう嫉妬が見え見えだったぞ。本心を読み取られたくなかったら、もう少し隠す努力をしたらどうだ」
「う……」
「まあ、そういう事だ。誰にも取られないうちに、早く思いを伝えることだな」
「思いを、伝える……」
「応援しているぞ」
そう笑いながら言った兄の顔を見て、伊都は心がギュッと締め付けられた。
こんな風に、兄が背中を押してくれるなんて、久しぶりだったからだろう。
本当に、変わってくれた。フーカのおかげだ。
「……おう」
伊都は、照れながらも、そう呟いた。
伊都たちが病院にやって来る少し前、舞子は、病院に入ってすぐの待合室にいた。唯斗を見舞いに行った久美子を、携帯を見ながら待っていたのだ。
本当は帰ろうとしていたのだが、ここで帰ったら久美子はどこに帰るというのか。そう思うと、帰る気にはなれなかった。
その時、病院のドアが開いたかと思うと、ものすごい勢いで階段を駆け上がっていく親子ふたりがいた。
よく見ると、霧野伊都とその母である。何をそんなに急いでいるのだろうか。なにか忘れ物でもしたのか。ぼんやりとそんなことを考えながら、また携帯に視線を戻す。
「舞子さん……!?」
久美子の声がした。携帯の画面から目を離し、顔を上げると、目の前に久美子がいた。
「どうして? 帰ったんじゃ……」
「あなたを置いて帰れるわけないでしょ。さあ、帰るわよ」
「え、あ、ちょっと……」
舞子はソファから立ち上がると、久美子の手を引いて、病院から出た。
「乗って。とりあえず、私の家まで送るわ」
車の前で鍵を開けながら、舞子は言った。久美子は戸惑っていたが、助手席に乗った。
舞子は車を発進させる。
「それで、唯斗の具合はどうだった?」
「あ、えっと……無事に意識が戻りました」
久美子はさらりと言った。
「え!? そ、そうなの? 本当?」
あまりに驚いた舞子は、声が裏返った。ついでに目の前の信号が赤に変り、あわててブレーキを踏む。
「はい」
「これはまた急な……。まあでも良かったわ」
舞子は、ほっとため息をつく。だが、久美子は浮かない顔をしていた。
「どうしたの? あんまり嬉しそうじゃないけど」
「あ、いや……。ユイトは、本当は生きていたくなかったみたいだから……」
「え? どういうことよ」
「夢の中で、ユイトと話したんです。そしたら、もう生きることを諦めてて……。でも、私はユイトに生きて欲しかったから、説得したんです。だから、無理矢理現実に連れてきちゃったなって……」
「あなた……すご過ぎない?」
「え?」
久美子はキョトンとしていた。いかに自分がすごいことをしたのか分かっていない様子だ。
「まあ、気にしなくていいんじゃない? 夢の中がどうであれ、本人が生きようと思わなければ意識は戻らない。だから、結局は唯斗の意思なのよ」
「そっか……。そうですね」
久美子は安堵の表情を見せた。信号が青に変わり、車を走らせる。
「そういえば、霧野くんには会った?」
「え? イトは……会ってないですけど」
「そうなの? あなたが来る少し前、霧野親子が階段駆け上がっていったから、てっきり会ったのかと思ってたわ」
「そうだったんですね。危なかった」
「何がよ」
「実は、イトたちに会わないように早く帰ってきたんです。実際は、そんなに差はなかったみたいだけど……」
「なんで? 会いたかったんじゃなかったの?」
「……イトは、多分私とは顔を合わせたくないと思います。家族をあんな風にした人なんかに、会いたくなんか……」
久美子は伏し目がちに話す。本当に、彼女は自分のせいにするのが好きだ。
「ま、でも目覚めたんだし、関係ないんじゃない? しかもあなたのおかげで」
「そんなこと……」
「きっと、会いたいって思ってるわよ、霧野くん。だって、命懸けであなたのこと助けに来たのよ。会いたくないわけないでしょう」
「でも、私、さっき逃げちゃったし……」
「何よ。結局あなた自身が会いたくないんじゃない」
舞子はため息をつく。
「何だか気まずくて……」
「気まずい?」
「自分で家を出たから……逃げ出しちゃったから、顔を合わせづらくて……」
「それは仕方の無いことでしょ。そんなこと気にしないで、会いに行けばいいのに」
「でも、イトは私のことなんか……」
「……あなたと霧野くん、そんな程度でヒビが入るような関係じゃないって、私は思うけど?」
「………」
久美子は黙り込んでしまった。まあ、きっと放っておいても直に会いに行くのだろう。舞子はそう思うことにした。
「……舞子さんは、どうしてユイトのお見舞いに来なかったんですか」
「今日行ったわよ」
「え、いつですか?」
「あなたの後に来たの。そしたらあなたが病室から出てきて、あわてて追いかけたのよ」
「あっ……だから止めに来てくれて……」
「そうよ」
「じゃあ、あの……私のせいで……」
また始まった。舞子は面倒くさそうにぼやく。
「あー、違うわよ。もともと一人でお見舞に行くつもりだったから、あなたがどうであれ、出来なかったわ」
「え……?」
「あの時、病室には霧野親子がいたんでしょ? だから、どっちみち無理だった」
「なんで、一人で……」
「当たり前でしょう。唯斗との関係、お母さんにどう説明しろって言うのよ」
話したところで、理解してもらうには時間がかかるだろう。そもそも、生徒の親に自分が研究者だと言ったら、学校になんと言われるかわからない。
「じゃあ、なんでさっきは帰っちゃったんですか?」
「……出かける予定があったの」
「でも、私、病院に十分くらいしかいなかったんですよ? その間に、どこか行かれる場所なんて……」
確かに、久美子の言う通りである。十分では、行って帰って来られるような場所は、ない。
久美子は分かっているようだ。本当は、どこにも行かず、ずっと待合室で待っていたことを。
「あー、もう。止めたのよ、行くの。でも、今更病室に戻るのもなんか邪魔するみたいで嫌だったから、待ってたのよ」
「……そうですか」
久美子は腑に落ちない様子だった。
本当は、予定などなかった。それでも帰ろうとしたのには、理由があった。
唯斗は、きっと久美子に来て欲しかったはずだ。舞子ではない。そう思ったのだ。
久美子を救うと決めて、唯斗に協力して行く中で、薄々気がついていた。
唯斗は、きっと……。だから、あの場に相応しかったのは、久美子だ。
これで良かったのだ。唯斗との縁はもう切れるだろう。無事に久美子は救い出せた。
彼とはもう協力関係でもなんでもない。
「ねぇ、久美子」
暗い気持ちを切り替えるように、明るい声で舞子は言った。
「もし良かったら、しばらくの間、家に住まない?」
「えっ……?」
「住むところ、ないでしょう? だから」
「いや、でも……マンガ喫茶とか、そういう所あるので……。今までもそうしてきたし」
「駄目よ。二十歳とはいえ、見た目は子どもなんだから、怪しまれるでしょ?」
「う……でも、悪いです」
「いいのよ。どうせ私、一人暮らしだし、部屋もまあまああるわ」
「……本当に、いいんですか?」
「ええ、もちろん」
唯斗が回復するまでの間だ。それまでは、彼女を守る。私情を持ち込んでいる場合ではない。強く、生きなければ。
舞子は、ハンドルをぐっと握りしめた。
数日後。
舞子の携帯に一通のメールが届いた。今は朝の七時である。こんな時間に一体誰だろうか。
「!」
なんと、唯斗からであった。ドキドキしながらメールを開く。
『元気か。私はもうすぐ退院出来そうだ』
メールはそこで途切れていた。そうか、退院するのか、と安心したのと同時に、
「なんで、わざわざ私に……」
とも思った。とりあえず、「おめでとう」と送っておく。
舞子は、結局、見舞いには行っていなかった。どうせ、今後関わることはないのだし、彼は自分のことなど気にもとめていないのだろう。見舞いになど、行く必要がない。そう思っていた矢先に来たメールだったので、不思議に思ったのだ。
相変わらず、すぐに返事がきた。
『私は、退院した後、やりたいことがある。そこで、お前に頼みたいのだが、私に協力してくれないか?』
「……え?」
一瞬思考が停止した。
『やりたいことって?』
『お前が協力してくれるというなら、教える』
「何よそれ……」
そんなことを言われてしまったら、気になる。
舞子は考えた。縁が切れると思っていた唯斗からの誘い。それは純粋に嬉しい。
でも、同時に、彼は自分を協力関係者としか見ていないのだ。信頼を置いてくれているのは嬉しいが、何だか少し寂しい気持ちにもなった。
「……………」
舞子は携帯を握りしめた。
この期に及んで、何を言っているのだ自分は。私情を持ち込んでもしょうがない。強く生きると数日前に決めたばかりではないか。舞子は、返事を打った。
『いいわよ、協力する。それで、何をするの?』
これでいい。
舞子は清々しい気持ちになった。朝からいい気分である。通知音が鳴り、メールが届く。開いた瞬間、彼女は思わず文面を凝視した。
『立花久美子を、本当の意味で自由にする』




