ヨコヅナ2
図書室はまた静かで穏やかな場所に戻った。でもいつもの場所に先輩が座っていることはなかった。あの日から先輩は図書室には来なくなった。男子達が腹いせに噂したのか時々先輩目当ての女子達が来るようになったが、いないと分かるとぱったりと来なくなった。
ひとりでいることをあんなに望んでいたはずなのに、先輩がいなくなった図書室はなんだか違う場所のようで居心地が悪くなってしまった。かといって他に行く場所は見つからなかった。そのため私はいつものように早足で図書室に向かうしかなかった。
図書室の前に着いてドアを開けようとしたその時、トントンと優しく肩を叩かれた。振り返ったら先輩がいた。思わずびっくりして目を見開いてしまった。「なんでここにいるんですか?」素直に思った言葉が出た。「ちょっとついてきて」これが私たちの初めての会話だった。手招きをされたので大人しくついて行くことにした。
着いた場所は学校の最上階にあった。そこは屋上につながる階段の踊り場のような場所だった。物置のようになっていて立ち入り禁止と書かれた札がチェーンにぶら下がっている。こんな場所をよく見つけたなと思うくらい誰もこない場所だった。
「この前は助けて頂いてありがとうございました」あの日、私をからかう男子たちを一括してもらったことについてまずお礼をした。「あのさ、いつも同じ本読んでるよね?」あれ、なんか急に話題変えられたぞと思った「あ、は、はい……」いつも読んでた本は最初に適当に取った本だった。その本に興味があるというよりは一人で図書館にいる時の理由づけのためのものだった。「そういう分野に興味があるの?」最初は特に興味はなかったが読み出したら中々おもしろい内容の本だった。「はい、結構おもしろいです。」分厚い事典で読み始める前は目眩を感じたけど、読みだしたら中々奥が深い内容の本だった。「そっか、僕もその本読んだことあるから好きなのかなと思って」
まさか先輩が「世界毛髪大事典」にそんなにも食いついてくるなんて思いもしなかった。
理由は何であれ話すきっかけが出来て嬉しかった。「あの、もしよかったらまたここにまた来てもいいですか? 静かにできる場所を探していたんです。ご迷惑かもしれないですがどこにも居場所がなくて……」先輩は一瞬黙って私の目を見た。私も目を逸らさずに真っ直ぐに先輩の目を見た。私は必死だった……。どうしてもここにいたかった。ここしか居場所はないと思った……。
それから先輩は小さく頷いてくれた。
それから私たちは毎日のようにこの秘密の踊り場で会うようになった。毎日会っていると言ってもはお互いに持ってきた本をそれぞれ黙って読んでいるだけだった。つまり図書室にいるときとやっている事は何も変わっていなかった。私は先輩のことがもっと知りたかった。どんなことが好きでどんなことに興味があるのか?そしてなぜ私をここに連れて来てくれたのか?そこで勇気を出して話しかけてみた。
「先輩はどうして私のことを助けてくれたんですか?」本を読んでいた先輩がこちらを向く。「あいつらがうるさかったからだよ。本を読んでるのにあんなにうるさくされたら迷惑じゃないか」先輩があの時の事を思い出したかのように本当に迷惑そうな顔をしていた。
「すみません。あの人達がうるさかったのは私のせいなんです。あの人達は私のことをからかっていつも面白がっているんです。私が太ってるから、私が汗かきだから、見た目が醜いから……だからみんな私のことが嫌いなんです。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」先輩に謝りながらまた涙がでてしまった。いつも持っている花柄のハンカチをスカートのポケットから出して涙を抑える。こんな汗かきですぐ泣く人間のことはきっと先輩も嫌いだろう。私もこんな自分のことが嫌いだ。デブですぐ泣く私のことをきっと先輩も飽き飽きしている。
「僕は君のことよく知らないけど君のこと嫌いじゃない」
それは思わぬ返事だった……。
目を見開いて先輩を見た。
「君のこと嫌いじゃない。でも好きでもない。だって関わったことがないからわからない。君は確かに太っているけどそれが理由で嫌いになったりしないよ」
先輩の正直な意見だった。聞きようによっては厳しい意見だが、この時の私にとってはすごく心に響いた。先輩は私が恐れていた見た目で判断するような人間とは違った。
「ありがとうございます。嬉しいです。そんな風に言ってもらえたの初めてです!」また涙が止まらなくなった。でもこれはいつもの涙とは違った。
「君はよく泣くね。思ったことを言っただけだよ」
先輩は平然とした顔をしていた。
ただ、ひとつだけ疑問が浮かんだ……。
どうして好きでも嫌いでもない私のことをこの場所に連れて来てくれたのだろう?興味がないのなら関わらなければよかったはずなのに。「あとひとつだけ聞かせて下さい。先輩はどうして好きでも嫌いでもない私をこの秘密の場所に連れて来てくれたんですか?」先輩は額に手を当てた。そして少し考えるような顔をしてから答えた。
「君と僕は似てるから……。今君が僕に教えてくれたこと僕にはよくわかる」今まで平然とした顔で話していた先輩の顔が初めて少しだけ歪んで見えた。もっと聞きたいと思ったけどこれ以上は聞いてはいけない気がした。みんなが崇める神さまにも何か悩みがあるんだ。同じ人間なんだと安心した。でも、先輩と私が似てるなんて到底わからないことだった。またひとつ疑問が生まれてしまった。先輩のことをもっともっと知りたいと思った。
私たちは少しずつ心を通わせた。気づけば1番仲の良い友達のようになっていた。先輩は私のことを「ヨコヅナ」と呼んだ。先輩は私の名前を本当にヨコヅナだと勘違いしていた。訂正するのも面倒くさかったのでそのままにしておくことにした。話してみてわかったが先輩は少し抜けているところがあるようだった。
先輩は必要以上のことを聞いてこようとはしなかった。私たちはお互いの電話番号さえ知らなかった。仲良くなっても先輩は少し距離をとって人と関わっているように感じた。でもいつか話してくれると期待して聞くことはなかった。
いつもふたりで話す内容は勉強のことや部活のことなどごくありきたりなことが多かった。それから聞いてもいないのに良い制汗剤や汗拭きシートも教えてくれた。「おせっかいですよ」と注意しといた。
遠くから見ていた先輩は女子生徒たちから神様のように崇められていたけど、私は今目の前にいるこの先輩の方が好きだった。
先輩は他の人たちと違って太っていても汗かきでも私のことを決してバカにしたり差別したりしない。対等なひとりの人間として私のこと見てくれる。どこか抜けていても神様ではない完璧ではない普通の人間の先輩のことが大好きになった。
いつものようにポテトとハンバーガーを持って秘密の場所へ来たらいつものように先輩に怒られた。「そんなものばかり食べてたら太るよ。」もうすでに太っています。ポテトとハンバーガーを交互に食べながら聞く。「肥満のデメリットは知ってる?」先輩の問い掛けにも手を止めることなく交互に食べる。「肥満は様々な病気をまねく要因となる恐れがある。例えば心臓に負担がかかり、高脂血症や動脈硬化の進行を加速させる危険性が高まる。その他にもデメリットは沢山あるけど、肥満を放置していると、心筋梗塞や脳卒中などの重大な病気へと進む原因となることだってある。他にも……」相変わらず理論的に攻めてきたので、さすがの私も手を止めた。
ただ、先輩の対処法はもう大体熟知している。「デメリットはわかりました。恐ろしいことですね。でも物事には必ず表と裏があります。だから肥満にだって良いところはあると思います。デメリットだけでなくメリットも聞いて今後どうするか考えたいのですが教えて頂けませんか?」私は大きく目を見開いてさも興味ありげに目を輝かせながら答えを待った。
先輩は一瞬ひるんだ。
「確かに君の意見にも一理あるかもしれない……。例えば厚生省と日本肥満学会の共同の調査ではやせている人よりも小太りの人のほうが死亡率が低いというデータもあるらしい……。それから太っていることが富の象徴として見なされる国もある。」私はなるほどといかにも分かっている風に頷いた。そして「へぇ〜太っていると長生きできるんですね。痩せてる方が死亡率が高いなんてそっちの方が怖いじゃないですか。それじゃあ私はもう……このままでいいです。そしていつか外国に行って富の象徴となります!」私史上最高にキリッとした顔で答えた。
「おい!ポジティブか!もっと考えろ!」 先輩がすかさず突っ込む。「じゃあ君はアメリカへ行くといい。アメリカでは肥満は自己管理能力がないと見なされて出世出来ないんだ。アメリカにいって君のその歪んだ思想をへし折ってもらってくることだな!」先輩がドヤ顔でこっちを見てきた。「先輩…私…アメリカ怖いです…。」私が怯えた声で答える。先輩は「うんうん。」と満足げに頷いた。
「あ!でもアメリカはポテトとハンバーガーが有名ですよね。私それなら行ってもいいかも!」さっきまで止めていた手をまた動かしてポテトをポイっと口に運んだ。
先輩がひとつ大きな溜息をついた。
「僕は君の体が心配だよ……」先輩は呆れた顔をしたけどすぐに優しく微笑んでくれた。
そんなやり取りが好きだった。先輩の困った顔を見れるのも嬉しかった。みんなの前では相変わらず人形のように全く表情を変えない先輩だったけど、私の前では色々な表情を見せてくれるようになった。女子生徒たちが朝早起きまでして見たいこのお顔が私だけは早起きしなくても見放題なのだ。しかももれなく笑顔付き。
こうやってバカなことを言って笑い合っているこの時間が大好きだった。この「ふたりでいる時間」を壊したくなかった。
実はこの時点ではもう父親の仕事の都合で家族でアメリカに行くことが決まっていた。先輩には最後まで伝えられなかった。泣くのは我慢した。今まで沢山泣いて困らせてきたから最後だけは泣かないと決めていた。私だけに見せてくれた先輩の笑顔を独り占めしたままとっておきたかったから。
これが私と先輩の思い出の全てだった。