ヨコヅナ1
風に乗って舞い落ちる桜の花びらに囲まれながら傾斜の掛かった桜並木を歩く。桜の花は殆ど散ってしまって青々とした緑の葉っぱがもう大半を占めていた。掛けている眼鏡に時々花びらが散らついて鬱陶しくも感じた。
桜の花びらが舞い落ちる光景は満開の桜よりも儚げで本来なら大好きな光景なのだが、今よりも倍はある体重を支えながらの登校は重たい身体には応えて綺麗と思う余裕もなかった。それに綺麗な光景も毎日見ていれば日常になる。ゼェゼェ言いながら坂道を登ったところに4月から入学した高校があった。
校門に入ってまず聞こえてくるのは女子生徒たちの上げる黄色い歓声だった。校門を入ってすぐ右側には体育館と武道館が並んで建っている。黄色い歓声は決まって武道館から聞こえた。武道館では毎日剣道部の朝練が行われている。女子生徒たちのお目当は3年生の鶴田先輩だ。
鶴田先輩は2年生の時に全国大会で優勝した。全国優勝をしたくらい剣道が強いからカッコいいという訳ではなく外見がかっこいいので女子達がキャーキャー言っている。
なんでも朝練の後、面を脱いだ時にやっとお目見えする整ったお顔がたまらないらしい。
それを見たさに部活もないのにわざわざ早起きをしてまで来る女子生徒もいるそうだ。私もその色めきだった女子達中の一人かと聞かれたら決してそうではなかった。かっこいい先輩になんて全く興味はなかった。なので噂の面を脱ぐ瞬間には立ち会ったことは一度もなかった。
そんな私が部活にも入ってないのに朝練の時間に毎日登校する理由はただひとつ。それは……クラスメイトたちが教室に揃う前に汗を拭き取り、心拍を整えておきたかったからだ。できることなら着替えまで。そこは女子としての恥じらいとして必ず抑えておきたいポイントだった。
こんな太っていて汗かきな女子生徒と学校中の女子達の憧れの先輩が接点を持つことなんて絶対にないのだ。だから始めから興味を持つこともしなかった。会う前はそう思っていたのに今はどうしてこんなにも好きになってしまったのだろう……。
入学して華々しい毎日が始まると期待していたけど、そんな毎日が始まることはなかった。むしろ逆だった。
この外見のせいで女子たちから影で「汗くさい」とヒソヒソと笑われたし、男子たちから「ヨコヅナ」と直球のあだ名をつけられた。毎朝クラスメイトたちが来る前に着替えまでして体臭に関しては完璧に予防していると思っていたので汗臭いと言われてショックだった。名字が「横塚」で見た目が太っているからって安易なあだ名をつけられて悲しかった。
そのうちに教室にいるのが息苦しくなった。ひとりになりたかった。誰かに何かを言われるんじゃないかという恐怖に怯えていたくなかった。だから逃げた。私が心穏やかに静かになれる場所を探して……。
思いついたのが図書室だった。図書室は一年生の教室がある棟からは離れているのでクラスメイトたちが休み時間に来ることは滅多にない。授業の終わりの合図のチャイムがなったら早足で図書室に向かった。図書室のドアを静かに開けてこの部屋の中でも一番目立たなくて隠れられそうな場所を探した。ちょうど図書室の奥に本棚に隠れている席があったのでそちらの方へ向かってみた。壁を作っている本棚から席を覗いてみると一人の男子生徒が先に座って本を読んでいた。
「残念…」と思ってガッカリした顔をしていたら、本を読んでいた男子生徒がこちらを向いたのでバッチリと目が合ってしまった。その男子生徒は色白で亜麻色の髪をしていた。人工的に染められた髪色ではなく全体的に色素が薄いので生まれつきの色というのが見ただけでわかった。柔らかそうな髪質で風が吹いたらふわふわと揺れる姿が想像できた。顔は祖父の古い家にあったフランス人形に似ていた。目がぱっちりとしていてまつ毛が長い。その透明感に吸い込まれそうだった。はっと我に返って目を逸らした。
男子生徒はいつのまにか視線を本に戻していて何事もなかったかのように読書を再開していた。私は取り敢えず隠れていた本棚から適当な本を手にとって近くの席に座った。
その男子生徒が数日後に鶴田先輩だったと知った。先輩が廊下を歩いていたらそれまで廊下で縦横無尽にワイワイとおしゃべりしていた生徒たちが一斉に道を開けた。それはまるでモーセの十戒のようだった。
先輩が通り過ぎ去って行く姿を確認すると女子生徒たちがまたキャーキャーと騒ぎ出して先輩の噂話を始めた。「鶴田光一っていう名前がぴったり!あんな名前負けしない人を初めて見た」とか「鶴のように色白で凛としている」とか「髪の毛が絹でできている」とか「後光が差していた」とか目眩まで起こしている女子もいた。
女子生徒たちは先輩を見れたことをまるで神を見たかのようにありがたかがっていたけど、私は図書室でいつも見るけどな……と思っていた。同じ陰口でも人によってこうも違うものなのかとそっちの方が驚きで反面羨ましくもあり、嫌な噂しかされない私は胸が痛んだ。
先輩の噂は聞こうと思っていなくても耳に入ってきた。よく女子生徒から告白を受けていたようだったが、全て断っていると聞いた。先輩はいつも大抵ひとりでいた。友達もいなさそうだった。でも、それを笑う人は一人もいなかった。それは先輩がひとりでいる事を自分で選んでいるように見えたからだ。その姿もどこか凛として儚げで美しくも見えた。やることなす事の全てが良いように捉えられる人のように感じた。「同じひとりなのにこうも捉えられ方が違うなんて」と自分のこと不憫に思った。
先輩とは毎日図書室で会った。
でも隣の席に座る事はなく先輩はいつもあの席に座っていたし、私も初めて先輩に会った時に座った席に毎日座った。そこでお互い静かに本を読み、会話する訳でもなく次の授業が始まるまでの間それぞれの時間を過ごした。
ある日のことだった。
授業が終わるチャイムが鳴ったのでいつものように早足で図書室に向かった。後ろで誰かの笑い声がしたような気がしたが気に留めなかった。なぜなら短い休み時間のなかで少しでも長く図書室にいたかったからだ。
いつものように静かにドアを開けてお決まりの席に着く。先輩はいつも私より先に座って本を読んでいた。
突然、ガラガラッとドアをうるさく開ける音がしたので本から顔を上げて見るとそこにいたのはいつも私のことをバカにするクラスの男子達だった。こっちをみてニヤニヤと笑っている。「いつも急いでどこかに行ってると思ったら図書室にきてたのかよ。ヨコヅナなんだからてっきり稽古にでもいってるのかと思ってたぜ」1人の男子が机の上に足を投げ出しながら言った。他の男子も便乗する。「早足で歩いてるつもりかもしれないけど遅っせーから尾行簡単過ぎでしょ!」続けて他の男子が私に聞こえるようなわざとらしい大声で言った。「ちょっとしか歩いてないのに汗かきすぎじゃねぇの!」男子たちが一斉に笑い出した。これは教室ではいつもの光景だった。ただ、図書室ではやって欲しくなかった。
やっと心穏やかでいられる場所を見つけたのに……。この人たちのせいで全て台無しだ。汗は確かにかいていた。でもそれよりも目から溢れ落ちる涙が止まらなかった。ポケットから花柄のハンカチを取り出し、汗を拭いている振りをして眼鏡の下から涙を拭いた。
私が何をしたっていうの? みんなに気を遣って汗だってちゃんと拭いてる。見た目が面白いから? 太っているから?
「図書室は静かにしかなきゃいけねーのにあいつが動くとうるせーよな!」「ドスドスドス!ってな」「あはは!」一人の男子生徒が私の歩く真似をしてそれを見た他の男子達もゲラゲラ笑っている。
こんな事して何が面白いんだろう?もう早くこの場所から居なくなって欲しい……。そう思っていたところ、今まで静かに本を読んでいた先輩がスッと立って分厚い本を片手に持ちながら私の横を通り過ぎて行った。
先輩もうるさいのが嫌で図書室を出て行くんだ。私のせいで申し訳ないことをしてしまった。入口に向かって足早で歩く先輩を眼鏡越しに見つめる。涙がポロポロと溢れていつもは凛とした先輩の姿もぼやけて見えた。涙を抑えきれなくて目をハンカチで抑えながら拭く。
その瞬間、ドンッ!!とけたたましい音がした。
さっきまで騒いでいた男子たちが驚いた顔をして固まっている。その中心に先輩がいてさっき片手に持っていた分厚い本が机上に置かれていた。「お前達の方がうるさい。黙れ。」図書館が一瞬にして静寂に戻った。それから先輩は振り向きもせず一直線に出口に向かって歩き、静かにドアを開けて図書室を出て行った。
私の目からはもう涙は流れていなかった。